灯台下暗し
弓を引き絞る。遠く離れた的に当てるにしては、風の動きが気になる。風が止んだ刹那、その瞬間を待ち望んでいた乙女は矢を放った。
「やった、当たった」
寸分違わず中央を射抜いた矢を見て、乙女は歓喜の声を上げた。
「おーおー、上手くなったじゃねえか」
その様子を離れた場所から見ていた夏侯淵はすぐさま乙女の元に駆け寄り労いの言葉をかけた。
「これも夏侯淵殿のご教授のお陰です!」
ぺこぺこと頭を下げる乙女に対し、夏侯淵は豪快に笑いながら「良いってことよ」と嬉しそうに言った。
乙女が、縁もゆかりも無いはずの夏侯淵の弟子として過ごすようになったのはこの数奇な世界が生まれたことだった。
二度も遠呂智を倒し平和が訪れていたのだが、大蛇の出現により再びこの世界には危機が押し寄せていた。各地に散らばる勇士達は各々、元の世界そのままに勢力を復活させる者、孤軍奮闘する者と様々だ。
乙女は劉備に仕えていたのだが、彼に仕えていた者が皆彼に今も付き添っているとは限らず、各地に散らばって戦いに赴いていた。
乙女もその内の一人だ。平和が訪れた為に武者修行と称して各地を放浪していたのだ。元の世界に居ては有り得ぬだろう友誼を結び、切磋琢磨出来ることに満足していたのだが、こうなってしまっては自分が生き残ること以外には考えられない。
そう思って辿り着いたのが夏侯淵の軍勢だった。彼と同じく弓を扱う人間として、師事を受ける許可を彼から与えられた。幸い近頃は情勢が落ち着き気味で、こうしてゆっくりと鍛錬に励む時間が出来たというわけだ。
「夏侯淵殿って、なんだかお父さんみたいです。一緒に居て安心するというか」
というか、実際にお父さんらしい……ということを乙女は噂で聞いた。だから自分のような小娘にも良くしてくれているのだろうと乙女は思う。
「んー、まあ息子が居るからな。今は別の所で戦ってるけど、もうすぐこっちに帰ってくると聞いた」
「夏侯淵殿の息子さんってどんな人ですか?」
乙女はまだ夏侯覇に会ったことがない。丁度彼女が夏侯淵に弟子入りしたのと入れ替わる形で夏侯覇は遠征に行ったのだった。
「そうか、お前はまだ会ったことなかったか。鎧を着込んででっかい剣を担いで戦ってるんだ。俺に似ていい男! 妖魔に襲われてた所にも助けに来てくれたんだぜ?」
会ってみたいなあ。乙女は思いを馳せた。きっと夏侯淵の子どもであるから、彼のように明るくて優しい人なのだろう。
「夏侯淵殿みたいな素敵なお父様が居るって羨ましいです。私と仲良くなれますかね?」
「なれる、なれる! なんだったら俺のほうから息子をよろしく頼むって言いたいくらいだぜ? まだ会ってすらないからなんとも言えねえけどさ、俺、お前が息子の嫁さんになってくれれば嬉しいと思ってるくらいなんだからな」
急に嫁入りの話をされ、かあっと顔が赤くなるのを乙女は感じた。まさか、たまたまお父さんのようだと話しただけなのに、本当のお義父さんになる可能性が出てきてしまったとは。
いやいや、こんなに照れてしまってどうする。乙女はすぐに冷静さを取り戻した。それに本当に嫁に行くのならば、夫には試練を乗り越えて貰わねばならないのだということを彼女は良く知っている。
「でも、本当に私がお嫁さんになるなら覚悟はしたほうがいいと思いますよ。おじい様が怒っちゃうと思うので」
「そんなに怖いのか、お前のじい様っていうのは。旦那様になろうって人間でも萎縮しちまうのか?」
乙女は苦笑いする。洒落にならないのだ、本当に。愛情の裏返しなのは分かって居るのだが、彼と一緒に過ごしているのは息が詰まりそうになる。武者修行を始めたのも、祖父から離れたいという思いが含まれていたのだ。
「はい。……黄忠って人なんですけど。困っちゃいますよね。私が殿方と少し話しているだけでも説教してくるのです」
「え、お前あの爺さんの孫だったのか!?」
「はい、そうですけど……お知り合いですか?」
知り合いも何も。いけ好かない爺さんの孫がこんな可愛い女の子だとは、分からないものだ。夏侯淵は複雑な思いを抱いた。これは確かに、本当に息子の嫁にするには骨が折れるかもしれない。
「んー、まあ、因縁の宿敵っていうか」
言葉を濁す夏侯淵に、二人の関係性を全くもって知らない乙女は不思議がるばかりだった。
一方その頃、黄忠は戦場で大剣を振るう夏侯覇を見て、あのような鎧武者なら孫の夫になることを認めないでもないのだと考えているのだったが、今の夏侯淵と乙女には知る由のないこのであったという。
(20240327)