ごめんね
※人によってはヤンデレに感じるかもしれません。ご了承ください

暗闇が空を覆う。森の中はただでさえ光が届かないというのに、それに加えて雲が月を隠してしまっている。

追っ手から身を隠すのには都合が良いといえる。だが、それは裏を返せば追っ手がすぐ近くまで迫っていても気が付かないということだ。

「……乙女」

徐庶は乙女の名を呼ぶ。返事はなかったが、僅かに徐庶は装束が彼女の手によって引っ張られたのを感じた。

まだ生きている。それが確認出来ただけで十分だったから、徐庶はそれ以上は何も言わなかった。

負け戦だった。それも、圧倒的に被害を受けた。敵軍は未だ追撃を止めないようで、こうして徐庶は真っ暗闇の森の中をさまよっている。馬の蹄が、地面に触れ、離れ、また触れる。その音と風が木の葉を揺らす音がやけに徐庶の耳に反響した。

乙女は、瀕死の状態だった。徐庶も傷を負っている。応急処置として互いの衣服を破り捨てて包帯代わりにしたが、そんなものでことが収まるとは思えなかった。

撃剣を手放さずにいる徐庶とは違い、乙女は武器すら持っていない。敵群の猛攻の前に、彼女は屈していた。

それを救ったのが徐庶だった。

互いに愛の言葉を囁いていたわけではないが、二人は愛し合っていた。徐庶も乙女も感情を素直に表現するような人間ではないし、二人の関係を知る人間は居なかっただろう。当人でさえ、本当にこのひとを愛していると断言できるのかどうか、分からなかったはずだ。

だが、だからといって見捨てるなどという残酷な決断を徐庶は取ることが出来なかった。

やはり、乙女のことが好きだったからだ。こんなことになるのならば、素直に愛しているとでも言えば良かったと徐庶は思う。それはきっと君もだろう、乙女。きっとそう尋ねても何も返ってこないだろうから、徐庶はそっと心の中で呟くだけだった。

「……乙女」

再び徐庶は彼女の名を呼んだ。乙女は再び徐庶の装束を掴む。だがその力は弱々しい。

逃げ切れるのだろうか。二人で。最後まで。生きて、だ。不安が徐庶を襲う。一度不安になれば、その感情はずっとつけまとう。それくらい徐庶は知っていたはずだったが、それでも簡単に気持ちを切り替えることなど出来ない。

不安な気持ちというものは、自らだけでなく周囲にも影響を及ぼすものらしい。次第に馬の様子がおかしくなり始めた。

早く走れ。徐庶が促しても、いや促すほどになのか、馬は歩みを止め始めた。

やがて馬は完全に静止する。徐庶は怒りを露わにしようとしたが、その体力すら自分に残っていないことを悟る。

諦めるしかないのだろう。乙女を抱えながら馬から降りる。降りた衝撃が徐庶に掛かり、身体中を痛めつけた。乙女ほどではないが、彼もこうして立っているだけで限界なのだった。

乙女を抱えながら馬を横目に見る。暗い中、目の前しか向かずに飛ばしていたため気づくこともなかったが、馬もその体のそこかしこから血を流していた。

これでは仕方あるまい。徐庶は馬を使うことを諦めた。それは、諦めるという選択肢しか残されていないからだ。

だが乙女を抱えて追っ手を振りまくことなど本当に可能なのだろうか。

徐庶が森の中を歩けば、乾いた落ち葉がばりばりと砕かれる音がした。

乙女の表情さえ、この空の下でははっきりと見ることが出来ない。だがそれでも、包帯代わりに巻いた布切れに染みができているのは分かった。

可能なのであれば、目を逸らしたいものだと徐庶は思った。

徐庶一人であれば、逃げ切ることが出来るかもしれない。逃げるのが最優先ではあるが、武器もまだ使える状態にある。一人や二人程度ならば、殺すことなど厭わない。

だが、徐庶には乙女が居る。

もし彼女をこのまま放っておけば、どうなるのだろうか。徐庶は最悪の自体を想定する。

男ならまだしも、乙女はれっきとした女性だ。戦場に立つとはいえども、その力は男には及ばない。ましてやこの状況である。平時なら逃げるなり反撃するなり、手段は残されている。だが今は違う。

単純に殺されるだけとは考えられなかった。彼女は、徐庶が愛という感情を抱くに値するほどの美しさがある。それは単純に外見が美しいのだということだけではない。心も、溢れ出る気品も。全てが優美だった。

だが、外見が優れている。そして、女である。それだけで彼女が辿ってしまうであろう末路が浮かんでしまう。彼女が、本当に蹂躙などされてしまったら、その心が汚されてしまったのならば。

耐えられないと思った。徐庶は、自分の手が、足が、体全体が震えているのを知覚する。同時に、どっと疲れが押し寄せた。

彼女を抱えたまま、覚束無い足取りで木の下に駆け寄る。ぐったりとしたままの彼女を木にもたれされ、徐庶はがたがたと震えながらもまだ両の足を地につけて立っている。

乙女は首をだらりと下げている。徐庶の方を見ようともしない。見たくても見られないのだろう。

好都合だと、徐庶は思った。

他の誰かに殺られるくらいならば、犯されてしまうのならば。自分が彼女を殺してやろう。そうして、彼女の遺体を誰にも奪われないように埋めてやるのだ。

そう思うだけなら簡単なものだ。

徐庶は愛用している撃剣を構える。かちゃり、と金属の音がした。

しかし、その音がいけなかった。

武人の性というものなのだろう。彼女は僅かな物音でも敵襲を警戒していて、夜は良く目を覚ますのだと以前徐庶に言っていた。

意識が朦朧としていても、武器が重なる音には敏感だったのだろう。乙女はゆっくりと顔を上げた。

徐庶はいよいよ体の震えを止めることが出来なくなった。体全体ではなく、指先もだ。

「徐、庶…… 」

消え入りそうな声だった。

この、今にも命の灯火を吹き飛ばそうとしている彼女を、わざわざ刃を突き立てて殺してしまうというのか? 徐庶は少しでもそのようなことを企てた自分に、酷く嫌悪した。

構えていた撃剣を、徐庶は静かに下ろす。

そうして、慌てて彼女の元に近づいた。何か言いたげに口を動かしていたからだ。

「……殺して……」

徐庶は目を見開く。彼女にこんなことを言わせてしまったのは自分のせいだ。徐庶はそう思った。

「……本気で、君を殺したいわけじゃないんだ、それだけは、」

「いい、から……」

乙女の声は掠れていて、正確に聞き取るのは困難だった。何故だ。徐庶は分からなかった。何故彼女はそんなことを望むのか。

「私を、殺せば……あなたは、私のことを……忘れ、ないでしょう……」

「殺さなくても、忘れないさ。君のことは……」

「さいごに、見るのは……あなたの顔が……良い……」

切なげに、乙女は息を荒く吐きながら懇願する。徐庶は何も言い返すことが出来なかった。徐庶だって、そうであるのだ。彼女の瞳に映る最後のものが、自分であるのならば。これ以上に喜ばしいことなど、ない。

「本当に、いいのかい」

徐庶は低い声で囁く。乙女は目を閉じて、こくりと頷くのみだった。

殺さなければいけない。今度こそ。躊躇ってはいけない。それが彼女の望みだから。

愛の言葉など、一つも言うことはなかった。

だが、殺し、殺されるというものも、一つの愛の形なのかもしれない。愛する人間と最期を迎えたいと思うのはごく普通のことだ。そこに血なまぐさい情景が加わるのかそうでないのかの違いでしかない。徐庶は再び撃剣を構えながらそう思った。

「苦しませるなんてことは……しないから」

その言葉を乙女が聞いたのかどうかは分からなかった。

徐庶は、寸分違わず乙女の心の臓に刃を刺した。言葉通り一瞬のことだったから、乙女は本当に苦しむことなく逝ったのだろう。

その証拠に、乙女の顔は驚くほどに安らかだった。

徐庶が撃剣を引き抜くと、まだ熱を持った血が彼の体を濡らした。

撃剣をひと振りして、血を落とす。そうして剣を下ろし、徐庶は縋るように乙女の背に腕を回した。

とめどなく流れる血で装束を汚すことも、やぶさかではなかった。

「……愛して、いるんだ」

生きていた頃の彼女には決して言わなかった言葉だった。

徐庶は、己の唇を彼女のそれに恐る恐る重ねる。彼女の唇は乾いていて、冷たかった。

背中に回していた腕を解き、手のひらを胸に当てる。そこは徐庶自身が己の得物で貫いた箇所だった。そこから流れる血潮のほうが、唇なんかよりもずっと熱いと思った。

じっとその手で熱を感じていると、そんなはずがないのに、彼女と繋がっているかのようだった。

このまま彼女のすべてを自分のものにして、彼女の体すべてと一つになれたのならば。この愛しい亡骸を埋める必要なんてありはしないのに、と徐庶はぼんやり思った。

(20240522)
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