甘い幻惑
彼女の目の前に横たわるのは、濁った目をしたまま横たわる……主君だったもの。うつ伏せになっていて裂傷は直接確認することは出来ない。だが血の海は留まることを知らず、彼女の足元に生暖かい沼を作っていく。
「はあ、はあ……」
彼女は自分の持つ短剣や手のひら、衣服と広がる惨状を震えながら見る。返り血に塗れた衣服や体。戦場で見るようなそれとはまた違う、と彼女は思う。この男はろくでもない人間だった。いずれ誰かがこうしなければならなかったのだ。その誰か、がたまたま自分だっただけなのだ……息を荒くしながら、どうにか自分を正当化させ、自分の悪事から逃げようとする。そうでもしないと、平常心を保つことが出来ないのだ。
その瞬間、彼女は人の気配を感じた。僅かに足音が聞こえる。それは普段城下を歩くかのように、屋敷を歩くように……この状況をまるで日常であるかの如く認識していなければありえない歩き方だ。このような場に、このような行為が行われたことを知った上でやって来るのは、彼女の知る限り一人しかいない。
「ご気分はいかがですか」
ゆっくり振り返ると、そこに立っていたのは彼女の想像通りの人、法正が立っていた。この惨状に対しても眉ひとつ動かさない。彼はかつてこの君主の元で軍師として功を上げていた。
「ほう、せい殿……」
主君の殺害は、法正が計画したことだった。法正が彼女を、暗殺するように導いた。ただそれだけの事。彼女もそれを分かっていた。自分は法正に良いように使われているだけなのかもしれないと。主君を殺して、その先は? 彼女に出来るのは武働きだけだ。それ以外のことは何も知らない。
「……こんなに震えて。貴女はもう何も考えなくて良いのですよ」
自分が汚れてしまうのも厭わずに、法正は彼女の手から、短剣を無理やり奪うように外す。そして短剣を地面に放り投げた。刃がぶつかる音が響く。
「この悪党に唆された……そう言えばいいのですよ。全て、俺の仕組んだことなのだと……」
法正の地を這うような声が耳元に囁かれる。彼女は全身が粟立つのを感じた。
「貴女が事を成してくれた恩返しとして、不義に対する全ての報いを背負いましょう。……まあ、報い以上の価値がこの行為にあるということも、保証しますよ。貴女が俺と共に在るのならば、ですが」
それはとても甘美な響きのように彼女には思えた。利用されているだけだとしても、自分のこの行為を肯定している。それだけで十分なのではないか。
彼女は無言で法正の腕を掴んだ。法正は満足気にその手を取って、彼女と共に歩き出していった。
(20231127)