あの頃を思えば
「……殿、司馬懿殿」

「む……乙女か」

書簡に目を取られていたのか、乙女の数回目の呼び掛けでやっと司馬懿は顔を上げた。

気難しい司馬懿に対して、積極的に関わろうとする女官は多くない。乙女はそんな彼の副官を長く務めているため、物怖じせずに接している。

「私にも気づかないようじゃ、何かあったら不安で仕方ないですよ、司馬懿殿」

「この部屋に来るのはお前くらいしか居ないから良いだろう」

そういう問題ではないだろうと乙女は思った。来るのが自分であると常に思ってしまうのは危険ではないか。司馬懿のことであるから刺客に襲われるなどという失態は犯さないだろうが、この様子ではそれもどうか。

「春華様からのお便りを読む司馬懿殿は、いつもよりも無防備に感じます」

「盗み見るとは、趣味が悪い奴め」

「目に入っちゃったからしょうがないでしょう。それに、春華様からのお便りだということは、司馬懿殿のお顔を見ればよーく分かります」

「……そんなに変な顔をしているのか、私は」

心外だというように、司馬懿は顔をしかめた。本当に気づいていないのならば鈍感にも程があるだろうと乙女は心の中で呟く。

「だって、嬉しそうですから」

春華からの便りを読む司馬懿の顔は、その他の場面では見た事がないほど優しいものだと乙女は思っている。司馬懿のことをよく知らない人間が見れば思わず腰を抜かしてしまいそうになるほど、その優しげな笑みは普段の怜悧な態度とはかけ離れているのだ。

「嬉しそうになどしておらぬわ、馬鹿め」

「素直じゃないですねえ」

乙女はつまらなさそうにして唇を尖らせた。春華と結婚してからというものの、司馬懿は随分と丸くなっているようだった。表でこそ惚気るなどという分かりやすい態度を示さない分、こうした些細な変化が乙女には妙に鼻につくのだ。

はっきり言って、面白くないのである。

「春華様と居るのが余程楽しくて、一緒に居られないのが余程悲しいのは分かりますけど、司馬懿殿の毒が抜けていっている気がします」

「それは……確かに、否定は出来ぬ」

司馬懿はやけに素直だった。乙女は意外だなあというようにして司馬懿を見返す。

「家庭を持てば、自ずと考えも変わるものだろう」

乙女は何も言わなかった。彼女は結婚などしていないし、するつもりもない。ただ司馬懿の為に尽くせば良いという心情を持っているのみであるから、彼の言うことは理解できなかった。

春華に嫉妬しているということではない。だが司馬懿がかつてのような野心を持たなくなってきたのは結婚して丸くなったことが影響している可能性もある。それならば結婚などしないで欲しかった。……やはり、嫉妬なのかもしれなかった。

「いずれ司馬懿殿は、曹丕殿も、いや、曹操殿さえも出し抜くのだと思っていました」

昔を思い出せば。乙女の脳裏にはまだ残り続けている。司馬懿が、裏では曹丕のことさえも呼び捨てにし、見下し、彼に取って代わって力を握ろうとしていたあの日のことを。

それが今はどうだ。もはや見る影がないといっても過言ではない。現在の司馬懿は、才ある者が世を治めれば良いのだとして、曹操や曹丕の台頭を支持している。

世のためにはそれが最善なのかもしれないが、それでもやはり、面白くない。司馬懿のことは変わらずに大切な主君として好きなままであるが、あの頃とは少し、変わってしまったのだと思う。

「司馬懿殿は、この天下を手中に収めるにふさわしいお方にございます」

やけに仰々しい口調で話す乙女を、司馬懿は不審そうに見つめた。これ以上変なことを言うな、と暗に訴えているようだった。

「あの曹丕だって、司馬懿殿にかかれば……ねえ?」

司馬懿はどきりとした。誰が聞いているのか分からないというのに、何を言うのかこの娘はと、心の中で思った。先程はこの部屋に来るのは乙女くらいしか居ないだろうと高を括っていた彼だったが、万が一の可能性がない訳ではない。

だが心の中で思うだけで、それを直接声に出すということはしなかった。

司馬懿の瞳には、僅かにあの頃の炎が宿っていたからだ。

「私に、叛しろと言うか」

彼は不敵な笑みを浮かべていた。これでこそ司馬懿なのだろう。このような表情は何回も今までに見てきたはずであったが、乙女は自分の言葉で昔の司馬懿が帰って来たように感じた。

「どこまでもお供します故」

恭しく、乙女は拱手を捧げた。

賢しい司馬懿が乙女の言葉のみに動かされて本気で謀反を起こすのは考え難いことである。だが本当に乱を起こすかどうかなど、そんなことを気にする彼女ではなかった。

ただ昔を思い出してくれるのならば。乙女が望んだのはそれだけだった。

最も、本当に司馬懿が曹丕達に逆らうのならば、それほど喜ばしいこともないのだ。

それほどまでに、彼女は司馬懿に心酔している。

「……時が来るのならば。お前にも存分に働いてもらうだろうな」

二人の笑い声が、部屋に響き渡った。

(20240419)
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