ハッピーエンドの鐘が鳴るまで
※司馬懿×夢主 注張春華の存在はなかったことになっています エンパ設定ということにしておいてください
新たに司馬懿の部下となった女がいる。名は乙女といい、彼女は至って司馬懿に対して忠実に尽くしている。その活躍は目覚しいものだ。見目形も悪くなく、司馬懿と共に立っている姿はお似合いだと噂をする兵もいるほどである。
元々司馬懿と彼女は敵対関係にあり、初めて司馬懿が彼女の姿を見たのは戦場だった。女の身ではあるが武勇に優れ、知略もそこそこ。それが司馬懿の見立てで、このまま彼女と戦うということはなかなかに骨が折れるのではないか。司馬懿ですらそう思っていたほどだった。だが数度の攻防戦を経て、それから彼女はまだ決着がついていないにも関わらず司馬懿に降伏した。しかも、彼女の部下だった将の首複数といった手土産つきで。
いくら自分の部下を斬って忠誠を示そうとしているのだとはいえ、そんな簡単に部下の命を捨てるような女であるとは到底司馬懿は思うことができなかった。部下を殺したというのに彼女の表情はいたって晴れやかで、司馬懿の元で働けることを誇りに思っているようだった。だが、彼女は実のところは間者の類ではないのか。動向が読めない女。食えない女。司馬懿はそう思いながらも彼女を登用することに決めた。
「司馬懿様。考え事ですか」
乙女は次の戦に使う資料を司馬懿に渡しながら、何やら思索にふけっている彼の横顔を見てそう言う。司馬懿はそんな彼女の表情を見ることもなく資料を受け取る。すぐにそれに視線を落とした。
「……いや」
司馬懿の返答は、どこか歯切れが悪い。それならいいんですけどね、と乙女はそれだけを言った後、踵を返して部屋から出ていった。次の戦に備えて彼女が書き記した策や情報を見る。どう考えても、これは司馬懿達にとって有利になる状況を導くようなことしか書かれていない。乙女は司馬懿の軍の中では新参者ではあるが、それでも他の者を卓越するほどの働きを見せている。だから司馬懿の信を得るのは比較的早かった。
だからこそ、司馬懿には理解できないことがあった。というのも、どうやら近頃の乙女に関して、敵国の間者ではないのかという推測は司馬懿以外の人間にも伝わっているらしい。彼女が司馬懿にとって使える人間であるのか、それとも鉄槌を下さねばならない凡愚であるのか。それを早く見極め対処をしなければ、司馬懿の沽券にも関わるだろう。
きっとそのような噂が広がっていることを司馬懿でさえ知っているのだから、彼女もそのような疑惑が自分に向けられているくらい、本人も分かっているのだろう。だからこそ警戒を強めねばならない。司馬懿は書簡を眺めながら、深いため息を吐く。早く次の戦に関しての謀略を巡らせるという仕事が彼には残っているのだ。
いよいよ敵軍に対して侵攻しなければいけないという時だった。軍を編成し、陣を整える。乙女の出した案と、司馬懿の軍略。この二つがあれば勝利は間違いない。逸る将もいたが、司馬懿は有利な状況であるにも関わらず憂鬱な面持ちだった。
兵たちの間には、見る限り何の動揺も広がっていないのだが。司馬懿は知ってしまったのである。乙女が敵国と通じているのだと示す文書を見つけてしまったのだ。そこには、この戦で司馬懿を葬るのだということを示唆する内容が書かれていた。
これは、大変にまずい状況である。乙女が怪しい女だということを知っていながらも、その才能が惜しいがゆえに重用していた自分自身を司馬懿は恨んだ。馬鹿は、凡愚は自分だったのかと愕然とした。乙女には知られないようにして、彼女が万一裏切った場合の策も一部の将には織り込み済みだが、できれば司馬懿は彼女のことを殺すなどしたくはないと思っていた。
甘い、と言われてしまうかもしれない。数えきれないほどの謀略を編んで、数えきれないほどの人間を動かし、殺してきた自分が、たった一人の女にかき乱されるなどとど。あってはならないことだ。だが司馬懿はそれを分かっていながらも、未だに彼女を信じる気持ちのほうが大きいのだった。
司馬懿が彼女のことを裏切り者であると決めつけることができない理由も、あるにはある。根拠としては弱いものなのかもしれない。だが司馬懿はその一抹の希望を信じたかった。それは、彼女にしては敵国と連絡を取った証である書簡の置き場所が変に乱雑だったということだ。司馬懿は所用で彼女の部屋を訪れたが、そこは無人で、鍵すら掛かっていなかった。見てくれと言っているように広げられた書簡にそのようなことが書かれているなど、全く信じがたいことではないか。
それに、どうせこの戦いで司馬懿を殺すつもりなのならば、少しくらいは司馬懿に対して不利になるような戦況を形作ればよいものではないだろうか。それを、乙女は全てが司馬懿の思い通りになるようにこの戦を見ているようだった。
「戦況はこちらのほうが有利になると思われます。まず私がかねてからの計画通りに動きますからね」
「ああ」
いつもの調子で話す乙女は、やはり司馬懿の忠実な部下であるようにしか思えなかった。本当に裏切るというのか、この私を。司馬懿は乙女を睨むように見たが、彼女は必要のこと以上のことは何も言わなかった。
何だか、乙女が司馬懿の元に帰順してからというものの、ことあるごとに彼女のことを考えてしまっているようだ。司馬懿は、乙女一人のことで戦何十回分の策を考えているほどに悩まされているような気がした。そこには、以前誰かが言った「司馬懿様と乙女殿はお似合いの二人だ」という言葉が原因ではないのかという部分も少しだけ含まれている。司馬懿は何とも複雑だったが。ともかく、願わくは彼女が自分の部下のまま戦果をあげてほしいものだと思った。
「此度の勝利は、乙女殿のおかげに違いないな!」
誰かがそう叫ぶと、周囲の男たちもそうだそうだと声をあげる。乙女はというと、そのような声を肴にしているのかにこにこと笑いながら酒をぐびぐびと呑んでいる。
司馬懿はその様子を眺めて、酒をぐっと煽った。
まったく、拍子抜けではないか。乙女の功績を祝う大声と同じように、そうして叫びたいような焦燥に彼は駆られた。
結論を述べると、今回の戦は清々しいほどの快勝に終わった。司馬懿の智謀によるものであるというのは前提としても、それでも乙女の働きは大きいものだった。
乙女が離反しなかったということは、大変喜ばしいことである。それ自体は嬉しいことであるし、彼女がこれからも自分と共にあるのは誇らしいことでもあった。それに、戦の前に彼女のことを怪しんでいた人間も彼女のことを見直したようで、軍の中に不和が生まれることを危惧する必要もなくなった。
だが、それならば彼女の今までの行動は一体なんだったというのか。何を示していたのだろうか。司馬懿は、持ち前の頭脳を回転させてもその答えを導くことはできなかった。勝利の美酒に酔いしれたいものだったが、やはり乙女のことが気がかりで、ろくに酒を呑むこともできない。残っている執務があることを理由にして、司馬懿は宴を抜け出すことを決めた。ちらりと抜け出す前に乙女を見ると、彼女は先ほどのようにして酒を呑んでいるだけだった。私の苦労も知らないでのんきなものだ、と司馬懿は呆れたくなった。
この戦勝祝いである宴はいつお開きとなったのか。司馬懿は執務室に籠っていたため知る由もなかったが、不安定な足音を響かせてこちらにやって来る人の気配を感じた。きっと、乙女だ。何を言いにきたのかは分からないが、いい機会である。酒は人の本性を暴くとも言うし、この際であるから全てを洗いざらい吐かせるべきなのかもしれない。司馬懿はそういって扉を開けると、そこには案の定乙女がいた。
「司馬懿さまぁ〜」
「乙女……泥酔しているではないか、馬鹿め!」
真っ赤な顔をしている乙女は、ふらふらと司馬懿によりかかる。全体重をぶつけにきているのではないかという衝撃に、司馬懿は思わず倒れこみそうになったが、ぐっとこらえた。
「だって、私、頑張りましたから〜」
へたりと座り込んだ乙女を、司馬懿は腕を掴んで部屋の中央にずるずると引きずる。掴んだ彼女の腕は暖かかった。乙女がここまで酔っている様子を、司馬懿は初めて見た。よほど今回の勝利が嬉しかったのだろうか。顔は赤く紅潮し、瞳はうるんでいる。司馬懿は、自分の理性が残っていることに感謝した。
「お前、自分が今までしてきたことを分かっているのか」
これでは話が通じるのかどうかも危うい。司馬懿は卓に置かれた水差しを取ろうと背を向ける。だが乙女は司馬懿の質問には答えずに、床に這いつくばったまま立っている彼の足を掴んだ。
「な、何をする!」
思いのほか乙女の力は強い。司馬懿は情けないことに、体の均衡を崩して転倒してしまった。その隙を見逃さないとばかりに乙女は迫る。司馬懿は押しのけようとしたが、どういうわけか乙女の力には抗えず、司馬懿は簡単に組み敷かれてしまった。
「司馬懿さま。私、司馬懿さまのことがずっとすきなんです。司馬懿さまのためだけに、わたし、頑張ってきたんです。司馬懿さま、わたし、だいすきなんです」
呂律が回っていないまま話す乙女の顔が、すぐ近くにある。司馬懿はこの状況は不味いのではないかと冷静な頭で考えようとしたが、初めて見た乙女の悩まし気な姿に魅了されている、そんな自分が存在しているということもまた理解していた。
「だ、だからといってこのよ……んぐう!」
司馬懿は最後まで言い切ることもなく、その口は乙女の唇で覆われていた。
唇が熱い。すぐ近くにある肌が熱い。頬に添えられた手のひらが熱い。そして、鼻をつく酒の香りと、入り込んでくるより一層熱い舌。酒の味が唾液と共に入り込んでくる。司馬懿は、酔っていないはずだったのにも関わらず自分も酔っているかのような錯覚を覚えた。
乙女は何度も、何度も角度を変えて司馬懿に口付ける。司馬懿はされるがままだった。酸素が不足しているのか頭はぼーっとしてきたし、近くで見る乙女は酔っているとはいえ美しい顔をしていた。
ようやく満足したのか乙女は唇を離す。繋がった二人の唾液も名残惜しいというように乙女がぺろりと舌を出す。舌は顔なんかよりもずっと、赤くて淫靡だった。
「ね、司馬懿さま……わたし、ほんとにすきなんです、いいでしょ、ね」
敬語が崩れた乙女の言葉に、熱に浮かされた彼女の笑顔に、司馬懿はぞくりと肌が粟立つのを感じた。
私はとんでもない過ちを犯してしまうのではないか。司馬懿がそう思った矢先に乙女は彼の衣服に手をかける。
やめろ、という気持ちと、このままどうにでもなれという気持ち。二つの相反した気持ちが司馬懿の中に渦巻いたのだが。
「……な、なんだ?」
乙女の頭が、司馬懿の胸の当たりに降ってきた。声を掛けるが、ぴくりとも動かない彼女。ようやく冷静さを取り戻し始めた司馬懿は、動かなくなった彼女から組み敷かれた体を抜こうとした。
「……寝てしまったというのか」
うつ伏せになった乙女をひっくり返すと、顔を赤らめたまま彼女はすぅすぅと寝息を立てていた。
とりあえず、男としての尊厳を奪われずに済んだことに司馬懿は安堵したが。
「これでは、生殺しではないか……」
馬鹿めと呟くがその言葉を浴びせたい人間には決して届かない。司馬懿は未だにどきどきとうるさくしている胸の鼓動を感じながらそう言ったのだが。司馬懿は、初めて明日が来るのが怖いと思った。
とりあえず、乙女を彼女の執務室まで運ぶべきか。司馬懿は億劫ながら立ち上がった。彼女を抱き上げてもその体はぴくりとも動かない。体重は思っていたよりも軽く、この体からなぜ自分が逆らいきれぬような馬鹿力が出せたのだろうかと思った。
「本当に、昨晩は申し訳ありませんでした……」
二日酔いの体を無理やり動かして向かってきたのだろう乙女は、朝早くに司馬懿の部屋を訪れていた。顔面は蒼白で、自分の犯した過ちの重大さを嫌という程自覚しているようだった。
「……昨晩のことは……そこは、今は……良い」
司馬懿が咳払いをしながら言うと、僅かながら乙女は安心したようだった。
「……それよりも。お前には聞きたいことが山のようにある」
司馬懿がそう言うと、乙女は体調が万全ではないながらもいつものように佇まいを整えた。恐らく何を言われるのかくらい、彼女は分かっているのだろう。二人の間に、少しだけ緊張が走った。
「やはり、司馬懿様なら知っているだろうとは思っていましたが。まずは、私が敵国からの間者ではないだろうかということについてですね」
司馬懿は頷く。それを彼はずっと気にしていたのだ。やっと、彼女の口から真実を聞けることに、ようやく一息を吐くことができそうだった。
「私が元々、間者として送られる予定だったのだということだけは本当です。司馬懿様への手土産として持ってきた首は、別に私の部下でも何でもありません。私はあんな悪趣味なことはしたくなかったのですけど。あれは謀反だかなんだかの罪で投獄されていた男たちです」
司馬懿は、自分の予想はあながち間違いではなかったのだと思った。彼女が間者で、また部下の命を簡単に捨てるようには見えないということ。それでは、ここからの話が本番だと感じた。
「きっと私の主君は、私が任務を無事遂行するはずだと思って司馬懿様を殺せとの内容が書かれた書簡を送りつけてきたのだと思いますけど。私はあんなのに従う気はさらさらありませんでしたから」
「ではなぜ、私にも簡単に分かるような場所にそれを置いていた」
乙女は、昨晩のことを少しだけ思い浮かばせるような、そんな笑顔を浮かべて言う。
「だってそうすれば、司馬懿様はずうっと私のことを考えてくれるでしょう。内容はどうであっても、司馬懿様の頭の中で、私のことがずっと渦巻いていくようになるでしょう。それが望みでしたから」
「そのような理由でお前は……」
司馬懿は、昨晩彼女から受けた言葉を思い出した。あれは酔ったうえでの妄言ではなく、全てが本当であるというのだろうか。
「だって私、司馬懿様のことが大好きですから。初めて戦場であなたを一目見たときから、ずっと。だから、そんなつもりは一切ないのに間者として潜入することを決めました。そうすれば司馬懿様のお傍にいることができるから」
頬を朱に染め、恥じらう彼女。昨晩とはまた違った表情を見せる彼女。司馬懿は、してやられたものだと思う。けれども、少しも悪い気はしなかったから、不思議だと思った。
「お慕いしております。司馬懿様」
司馬懿も、自分の顔が赤くなっていくのをはっきりと感じた。
彼女のことは部下として見ているつもりだった。だが、本当にそうだったのだろうか。彼女が裏切るかもしれないと思った時、自分が感じていたのは本当に部下を失うことの恐怖だけだったのか。
彼女のことを考えることが多かったのは、本当に彼女の思惑にすっぽりと嵌っていただけなのだろうか。
思惑以前に、自分も彼女のことを好いていたのではないか。
自分でも気づかないうちに、司馬懿は彼女に魅入られていたのだ。だがそれを素直に表すのは、率直に言って恥ずかしいものだと思った。
「わ、私も……お前のことは……っ!!」
嫌いではない。素直ではない答えだったが、司馬懿はそう続けるつもりだった。何ならば結婚してやってもいい。満更ではないのだと。そう言いたかった。
だが実際に発されたのはくぐもった吐息のみ。昨晩と同じようにして、司馬懿は乙女に口付けされていたのだ。
「〜〜っっ!?」
司馬懿は何か言いたげにしていたが、結局は彼の方から乙女の背中に手を回す。それを自らの想いに対する肯定だと捉えた乙女は、くつりと喉を鳴らして笑うのだった。
(20240711)