或る女の話
司馬師は素性の分からぬ女を囲っている。そのような噂が広まっていた。
事実なのだから、わざわざ訂正するまでもないのだとして司馬師はくだらぬ噂を広げる輩を放置している。
実際、乙女はどこから来たのかすらよく分からない面妖な女だった。酷く無愛想で、笑いもしない。司馬師から問いかけねば、何も話さない。彼女は未来から来たのだというが、簡単に信じられるはずもない。彼女がかつて住んでいたという所の話を聞いても司馬師にはよく分からなかった。
なぜ何の力も持たない女が司馬師の傍にいるのか。家中の者はそう言ったが、司馬師にとってはそんなことすらもどうでも良いのだと思っていた。
一目惚れだった。初めて彼女を見たのは、司馬懿に彼女の存在を打ち明けられたのがきっかけだった。
何も喋らず、聞かれたことにしか答えないこの女は、司馬懿が保護したのだという。一目見て、司馬師はこの女を貰い受けたいと強く思った。だから、司馬師が女を囲っているという話は嘘ではなく事実に過ぎない。婚儀こそ挙げていないものの、彼女は司馬師の内縁の妻のようなものとなっていたし、屋敷の者もそれを承知していた。
何をするまでもなく部屋の中で一人佇んでいる彼女を司馬師は見つめる。それが常だった。直接愛を囁くような真似をするわけでもなかったが、司馬師が彼女を思う気持ちは本当だった。
見ているだけで、心が満たされていくようだったのだ。自分らしくないかもしれない。だが司馬師はそう思いながらも、乙女からは目が離せなかった。毎日、司馬師は自らの隣に乙女を侍らせている。無知で無垢な彼女を、この乱世の色に染めるようなことはしなかった。まるで観葉植物を愛でるように、彼女のことを見ていた。この女も何も言わなかったから、司馬師もそのままの生活を続けていた。
だがある日、彼女の様子が目に見えておかしくなった。
「なぜ、そのように苦しげな顔をする」
なんの感情も映さない彼女の瞳も、唇も、苦痛を感じているのか歪みを見せていた。明らかに尋常ではない。司馬師は極めて冷静にそう言ったつもりだったが、心の内側では焦っていた。
「頭が、痛い」
絞り出すようにして乙女は言った。すぐに医者を呼ぶ。立ち上がってそう言った司馬師を乙女は制止した。彼女のほうから司馬師に意志を提示するのは初めてで、司馬師は目を見開いた。
「元の世界に帰れと、頭の中で何かが叫んでいるのです。きっと病などではない……」
それを聞いた司馬師の目の色が変わった。彼は怒っているのだ。乙女は直感的にそう感じた。彼女としては事実を言ったまでであるから、謗りを受ける筋合いなどない。だが司馬師は許せなかった。それはきっと、彼女への深い愛がゆえだ。
「元の世界に帰るなど、私は許さない」
氷のように冷たい声色だった。司馬師は苦しむ乙女を軽く抱き上げて、寝台へと運ぶ。痛さに耐えるため頭を抑える彼女すら、愛らしいと司馬師は思った。
「お前は私のものなのだから」
どす黒い独占欲が渦巻いているのを、司馬師は強く感じた。我ながら酷い男だ。
自分を置いて消えてしまうのならば、いっそのことここで消してやろうか。だが彼女の美しい肌を傷つけるわけにはいかない。司馬師は、彼女の首に伸ばしかけた手を引っ込めた。まだ判断するにも、時期尚早だった。
「司馬師さま……」
「無理に話さなくともいい。今はただ寝ていろ」
もし乙女が元の世界に帰りたいなどと自分の口から発したならば。考えるだけで、身が震えるような思いがした。それが彼女の意思なのだとしても、受け入れられるはずがないと司馬師は思った。
乙女を置いて、司馬師は部屋を出た。冷静さを取り戻すために。明日になればいつものように、人形のような気高さを持つ彼女の横顔を見ることが出来ればよいと思った。
だが数日経っても彼女は元のようには回復しなかった。
時ある事に乙女は頭の痛さを訴える。ただ痛むだけではない。幻聴が彼女を蝕んでいた。
元の世界に帰れと、ここにいるべきではないのだと。誰にも原因は分からなかった。彼女ですら、この地に来た理由さえも分からないのだ。司馬師も、彼女がおかしくなるにつれて焦燥感に駆られていた。
「乙女」
汗を流しながら痛みに耐えている乙女に、司馬師は呼びかける。彼女は苦しさを顕にしながらも、司馬師を見つめるために顔を上げた。
「あ、あ……」
割れるような痛みが彼女を襲っていた。この世は乙女の居るべき場所ではないのだと、痛みを透して訴えているのかもしれなかった。
「これを飲めば、お前はもう楽になれる。痛みから解放される」
司馬師が持ってきたのはある薬だった。
この薬が本当に乙女の痛みをなくすものなのか、彼女に判断が出来るはずもない。司馬師はそういった点も見越して彼女に薬を飲むことを勧める。
司馬師に促された彼女は、救われたい一心で薬に手を伸ばした。水の入った杯を司馬師が持ち、彼女の唇にその淵を添わせた。
薄い唇が開く。水が彼女の口の中に流れ込み、薬と共に嚥下する。喉が動いているのは司馬師にもはっきりと分かり、彼は安堵した。
「もう、苦しむ必要はない」
半信半疑だと言いたげに乙女は頭を抑えながら息を荒くしている。彼女の視線は司馬師に遠ざけられた杯を向いていて、彼の表情を見ることはなかった。
司馬師は笑っていた。彼が乙女の背を支えた頃には、彼女は力なくぐったりとしていた。彼女はもう頭痛に悩まされることはない。彼女は司馬師の真意を知ることはない。そして、彼女は現代へと帰ることもない。
司馬師が乙女に渡したのは薬ではなく毒薬だった。
首を絞めても、剣で胸を刺しても傷跡が残る。司馬師が彼女にとった行動は、彼にとっては合理的なものだったのだ。
乙女を、誰にも渡したくはなかった。元の世界に帰らせるなどしたくはなかった。ならば自分の出来ることはなんだ? そう思った結果が、彼女を司馬師自身が殺してしまうということだった。
人として間違っているのだということを、司馬師は自覚していた。だが止められなかった。全ては彼女への愛が理由なのだ。愛しているから、手放すなど耐えられなかった。
目を閉じて動かない彼女を、司馬師は横抱きにする。頬に口付ければ、まだ僅かにその肌は暖かかった。痛みから解放された乙女は穏やかに眠っている。司馬師は、名実ともに彼女が自分のものになったような気がした。
もう誰も、彼女を奪おうとする輩は居ないのだ。
司馬師が女を囲っているという噂は、ある時を境に急速に消えた。
代わりに、司馬師は妻を毒殺したのだという噂が広まっていた。
秘密裏に彼女を弔ったというのに、なぜそんな話が広がるのだろうか。司馬師はそう思ったが、特に咎めるということはしなかった。
事実なのだから、どう思われようが良いと思ったのだ。
人々は口々にいう。女が内通しているから殺す必要があったのだ。司馬師に楯突くような真似をしたから殺されたのだ。
だが、司馬師が新たな女を屋敷に住まわせると、恐れをなしたのかそのような話をする者は一斉に消え失せた。女の耳にそのような話が入れば、哀れなものであると人々は思ったからなのかもしれない。
やがて司馬師の正室となったその女は、正真正銘この乱世に生まれついて育った人間だった。だが司馬師により死をもたらされた乙女と瓜二つな、卑しい身分の女であったのだという。
(20240502)