きみのよわさもぼくのもの
乙女は、酷く落ち込んでいた。それも当たり前の話で、やっと決まった縁談が相手側の一方的な都合で破談となったのだった。
相手の男と実際に顔を合わせたのはほんの数回しかなかったが、自分では良く取り繕っていた方だと思う。わざわざ取り繕っている時点でどうにも真摯な対応であるとは言えないような気もするが、いい加減に結婚しなければ婚期を逃してしまいそうなものだったから、それに関しては目を瞑ってもらいたいものだ。乙女はそう感じていたのだが。
なぜだか彼女のほうから持ちかけた縁談が良い方向に動いたことは一度もなかったから、今度こそ良い結果がもたらされると思っていたのに。なんだか情けない気分で、昔馴染みの司馬師の元に無理やり押しかけているのだった。
「だからさ、私本当につらいんだよ。子元には分かんないかもしれないけどさ」
昔馴染みというだけあって、司馬師には何の遠慮もなく話すことができていた。偶然司馬師の母君……張春華が大量に肉まんを持ってきてくれていたので、感謝しながら肉まんを頬張る。やっぱり何回食べても変わらず美味しかった。
「……なぜ破談になったのだ?」
司馬師は興味無さげに尋ねる。渋々、といった面持ちである。彼の目線は肉まんにしか注がれていないし、乙女は泣きつく相手を間違えてしまったような気がした。
「その……ね、ほら……私、けっこうお転婆っていうか、自分でそんなこというのは少し違うような気がするけど……まあ、だからさ、最初は大人しく振舞ってたのね。初めて会う人だったしさ」
「お前のいう大人しい態度など、他人から見れば暴れ馬に過ぎぬだろう」
やっと顔を上げたと思ったら、司馬師は肉まんに向けていた柔らかな視線とは打って変わって冷ややかな目線を向けている。だが乙女は怯まない。慣れているからだ、というのはある意味悲しいことではあるのだが、昔からこうであるから仕方がなかった。慣れるしかないのである。
「……でね、それなりにさ、私にしてはいい感じだっていうか、相手の人もいい人だなって思ったんだけど、そこで有り得ないことが起きてさ」
やっぱり司馬師は乙女の話に興味があるのかないのかよく分からなかったが、それでも彼女は話し続ける。
「二回目に会った時かな。それは夜だったんだけど、刺客だか盗賊だかが忍び込んできて。多分相手の人はやっぱり武人であるわけだから、自分が対処しないと駄目だと思ってたんだろうけど……私、真っ先に忍び込んできた人をね、懲らしめちゃったから、相手の人がびっくりしちゃって……それで気づいたらさ、縁談は取り消しだって」
「懲らしめたというのは、」
「咄嗟のことだから、ね……死なせちゃった」
「……お前らしいことだな」
全く酷いことである。乙女は、善意……にしてはやりすぎであるのだろうが、親切心で侵入者を殺したのだあって、それだけで破談になるなど信じられなかった。
確かに乙女はお淑やかな女ではないし、女であるというのに戦場の前線で戦うような人間だったから、ただでさえ男にとっては近寄り難い。だからといって侵入者を放置しておけばどうなるか分かったものではないし、自分が手を下す方が早いと思ったのである。まさかこうなるとは思いもしなかったわけであるのだが。
「男の下らぬ自尊心を傷つけたというわけか。全く器の小さい男もいるものだ」
「ま、まあそういうことになるのかな……? 子元は同じ状況だったらやっぱり幻滅する?」
話を本気で聞いていないような振る舞いを見せていた司馬師が自尊心がどうなどと言い出すものだから、乙女は少し面食らった。これって慰めてもらってるってことでいいのかな? 乙女はやっぱり彼の元に来たのは間違いではなかったかもしれないと思い直す。単純な人間なのだ。
「……いや。むしろ気がつく女だと感心する。私は性別の差異など気にも留めぬ。で、あるからにして」
「あるからにして?」
この場において初めて司馬師は、やっと乙女と目を合わせた。何となくであるが、司馬師の言葉には安心する。自分のやったことはやっぱりおかしい事ではないのだと納得するし、そう思えば悪いのは自分ではなく相手側なのだとおも思う。そうであるのにも関わらず、司馬師の言葉の続きを聞くのはなぜだか怖いと乙女は思った。
「お前は、私の妻となるべきだ」
「え?」
思わず乙女は、残り僅かとなった肉まんを落としそうになった。からかってるわけじゃないんだよね? 聞き間違いだったりする? 彼女の頭の中には疑問符が湧き出るばかりだったが、司馬師は常と同じ……見る人によっては無機質で、怜悧とも思える表情を浮かべているばかりだった。
「聞こえなかったのか? 乙女。お前は私の妻になるべきだ、と言ったのだが」
かあっと乙女の顔が紅くなる。何で急にそんなことを。今までお互いにそんな目で見てこなかったじゃない。それならばもっと早く言ってくれれば、受け入れないこともなかったのに! 昔馴染みなんだから、嫌いなわけじゃないし……というか、司馬師なんか女の人にとんでもなくもててそうなものなんだけどな。
言いたいこと、思っていることは相変わらず溢れてくるのだったが、乙女はただ頷くことしかできなかった。少しだけ、ほんの少しだけ……今度こそ、この機会を逃したならば、本当に結婚なんて一生できやしないんだ、と乙女は感じた。だって、多分私を選ぶ物好きは子元だけなんだから。でもそんなことは彼に言えないな、なんて思った。司馬師の顔をちらっと盗み見れば、少しだけ頬を緩めた柔らかい眼差しを向けているものだから、乙女は不覚にも格好が良すぎると思ってしまった。
全て初めから決まっていたと言わんばかりに結婚に向けての準備は進んでいった。花嫁衣裳は司馬師が勝手にこれを着ろと言ってきたから乙女は反発しようかと思ったが、それ以上似合うものなどないというくらいに似合っていたから、彼女は何かを言う気にもなれなかった。やっぱり単純だった。
でも、本当にこれでいいのかな。私、本当に何にもできないし。乙女は少しだけ憂鬱だった。本当に武働きしかできないんだよ私。子元は知っているはずなのになあ。乙女はせっかく決まった、それも何でも言い合える仲の司馬師に嫁いだというのに複雑だった。
嫁ぐということは夫の不在の間家を守らければいけないということで、それは実質乙女の生き方を根本から変えるということだった。女として結婚できないということは不名誉であるものだったが、それによって戦えなくなるということは彼女の根幹を揺るがすものに違いない。
相手が子元であるからと乙女は己を納得させる。言い方を変えれば、戦場という危険な地から愛しの妻を引き離したということであるからだ。最も、司馬師に直接そのようなことを言われた覚えはないのだが。仮にそのようなことを司馬師が思っていたのだとしても、面と向かって言われるのは気恥しいから別に乙女にとっては些末なことでしかない。昔馴染みというものはそういうものなのかもしれない。
だが、そことは別に問題がある。彼女は家事などほとんどやった事がないのである。
しかしながら、どうやら乙女が嫁いだということによるものなのか……司馬師は使用人の大半を解雇してしまっていた。嫌でも彼女は武に頼らない働きをしなければいけなくなってしまったのだ。
「痛っ」
裁縫など、苦手中の苦手と言ってもいい。服がほつれているから直してみようと思い立ったものの、上手くいかない。普段は自身の使用人に任せていたから、こんなに難しいなどと彼女は思ってもみなかった。
乙女が指を見るとそこにはぷくりと血が出ている。戦場で負う怪我の痛みに比べれば大したことはないはずだが、不思議とそんな気にはなれなかった。普通に痛いし、こうして何回も肌を針で突いてしまうのは、流石につらいと思った。
「貸せ」
司馬師は乙女から道具も服もひったくると、結局全て自分でやってしまった。乙女は少しだけ、惨めになった。
「ごめんね、子元。今度は子元のものも直してあげようって思ってたのに」
「……いや。構わぬ」
しょぼくれる乙女に対して、司馬師はやはり何か彼女の心を落ち着ける直接的な言葉を投げかけるわけではなかった。ただ司馬師は、無駄に増えてしまった自分の仕事に対して不快感を顕にすることなく、むしろ喜ばしいと言っているようにして針を動かしていたから、乙女は自分の夫がこの人で良かったと思った。きっと彼以外の人だったら、女のくせにこんなものもできないのかと言われていただろうから。
司馬師は元々の婚約者とは違って、例え妻が刺客を問答無用で殺してしまったとしても何の文句も言わないだろう。むしろ賞賛するはずである。だがそんな状況というものは中々訪れないわけで。乙女は裁縫を諦めて仕方なく肉まん作りに勤しんでいた。
「あれ……?」
裁縫が苦手という時点で察しはつくだろうが、乙女は料理も得意ではなかった。どうにか苦戦して生地を作り、具材を切るという所までは良かったのだが、包むとどうにも不格好で、上手くいかない。張春華の作るものとは雲泥の差だった。
「貸せ」
「わ、子元! ごめんね、なんだか全部やってもらっちゃって……」
「構わぬ」
そう言ってまたもや司馬師は生地をひったくるようにして乙女から奪って、自分一人でどんどん肉まんを作っていく。その手際の良さには圧倒されるばかりで、乙女はただ見つめているだけしかできなかった。
「……ごめんね、私、本当に不器用で……」
出来上がった肉まんは、それなりに美味しかった。肉まんに厳しい司馬師のことだから、今度こそ怒られてしまうかもしれないと思ったが、司馬師は優しかった。
「これから慣れれば、何の問題もない。……肉まんは、やはり美味いものだな」
相変わらず直接的な物言いをして乙女を褒めるということはなかったが。先程のように乙女は司馬師の顔を見やる。やっぱりその顔はどこか穏やかで、いつも張り詰めている独特の空気というものが消えている気がした。
それは、自分と一緒にいるからだったらいいな、と乙女は自惚れるのだった。何だかんだで優しい司馬師のことが、やっぱり好きだと思った。だからこそ愛想をつかされないように、もっと頑張らないといけないと思った。
「最近の兄上、ほんのすこーしだけ、角が取れたような気がします。やっぱり乙女殿と結婚したからですか?」
司馬昭がそう司馬師に尋ねると、彼は珍しく慌てたようにして、すぐにいつものように精悍な表情を取り戻した。
「……分かるか」
自分では全くそのようには思っていなかったようで、司馬師は冷静そうにしていてもどこか驚きを隠しきれていないようだった。
「だって、乙女殿は勘違いしたままでしょうけど……あの人の縁談を全部握りつぶしていたのは、兄上じゃないですか。いつかあっちから告白してくれるんだって信じて」
「……それは、そうだが」
「それで、とうとう痺れ切らして自分から告白なんて、兄上にしては意外だなって思いましたよ」
できるだけ隠していたつもりだったのだが、この弟には筒抜けだったらしい。司馬師は、これでは乙女に知られるのも時間の問題かもしれないと思う。
縁談を握り潰したのは、本当である。いつまで経っても昔馴染みでしかない彼女に我慢ならなくなったのも、本当であった。
「だから兄上、もっと素直に感情を伝えた方がいいと思いますよ。俺は兄上が機嫌良いなっていうことを読み取ることができましたけど、皆が皆分かるわけじゃないと思いますし……それに、あの人も喜ぶんじゃないですか。昔馴染みという関係性に甘えてるだけじゃ、駄目だと思いますよ」
普段怠惰な弟にこうも指摘されるのは、何とも釈然としなかったが。彼の指摘は全くもってその通りだとも司馬師は思った。何より彼女には隠し事をしているままだ。ずっと隠し続けているのは、素直になれないのだという単純な理由からだ。
「お前の言う通りだ……私は、素直になれていなかった。特に、乙女のこととなると。互いに何でも知っているものだと、高を括っていたのかもしれぬ」
思えば結婚しようと言った時も、それから今になるまでも、ろくに愛の言葉を告げていなかったように思える。わざわざ言葉にするまでもないと勝手に思い込んでいた。
乙女が不器用なじゃじゃ馬であるというところも、気にならないどころかむしろそういった点が好ましくある。自分とは正反対な姿に惹かれたのだ。けれども素直に、そこが好きだとかは言ってこなかったのだ。
これでは、愛想をつかされてしまうかもしれぬ。それは嫌だった。せっかく一緒になれたのだから、そんなことは断じて許されない。とにかく、率直に嫌なのだ。けれども、だからといって心の赴くままに面と向かって愛を伝えるのは、どんなことよりも困難であるような気がした。
「あのね、子元……私、失敗ばかりで……本当に、ごめんね」
「……構わぬ。それに、」
「それに……?」
「お前の、そういう所が……好きなのだ」
最後の方は何を言っているのか聞き取れないほど小さい声になっていたが。とんでもない力を振り絞ったつもりではあった。
「私も子元のこと、大好きだよ」
いつもは堂々としているはずの司馬師の、隙だらけな姿を見ることができるのは、きっと乙女だけなのだろう。
司馬師という男は、存外不器用なのだった。もしかすると、二人は似た者夫婦なのかもしれない。
(20240719)