かいこ
「何をしている。邪魔だ」
鍾会は心の底から不愉快だというように、扉の近くでうずくまっている女を見下ろす。軽く足先でこずいてやれば、女は手元を押さえたままゆっくり立ち上がった。その動作さえ鈍臭いものに思えて、鍾会は軽く舌打ちする。
「花瓶を割ってしまいましたので。包帯を拝借しておりました」
よく見れば包帯は不器用に巻かれている。じわりと血が滲んでいる様子が白い包帯の上からでもはっきりと分かった。花瓶を割るだけでも相当に愚図であるが、包帯ひとつすらまともに巻くことはできない不器用さ。そしてこんな所で手当をせずとも、部屋の中でやればいいだろうに。そういっあ要領の悪さに鍾会は苛立つ。この女のやること、意図が全く分からない。
「なぜお前はいつも失態を晒す。お前の父親がどうしてもというから私が雇っているんだ。私まで笑い者になるような真似をするなと何度言えば分かる」
女は陰気そうな顔を鍾会に向けながらも、動じることはなかった。その神経の図太さは一体どこから生まれているのだろうかと鍾会は思う。
「鍾会様がやたらに神経質なだけでは」
小さな声で女は言う。今にも消え入りそうな、耳を澄まさねば聞き取れぬほどのか細い声だった。はっきりと言いたいのか、それとも言いたくないのかどちらなのか。暗い表情と声、態度と強気な言動が噛み合ってないようで鍾会はさらに頭に血が昇るのを感じた。
「……お前、私の言葉一つでその体はどうにでもなるということを忘れるなよ。今ここでお前を追い出してやることだってできるんだ。自分の立場を弁えるということをさっさと覚えろ」
「分かっています」
女はふらふらとした足取りで去っていく。まさか腕以外にもどこか体を悪くしているのではないか。鍾会は邪推したが、これ以上阿呆と話をしても意味はないのだからやめた。意味がないどころか阿呆が移ってしまうだろう。
女は鍾会がいずれ役に立つと思って恩を売った男の娘だった。娘を雇ってくれ。貰ってくれなどと言われたならば鍾会は売った恩をドブに捨てまで断っていたのだろうが、使用人としてなら、と仕方なく雇った。だがとんだ間違いであった。妻であるならばどう考えても釣り合わぬだろう、だが最低限の雑務や家事なら任せられるはずだ。そう思っていたのだが女はそれすらできなかった。
掃除を任せれば戸棚の木簡をバラバラに崩し、部屋の隅には埃が溜まったまま放置されている。炊事を任せれば飯に髪の毛は入っているし、頻繁に皿を割る。花の世話をしろと命じればろくに水をやった経験もないのか気づけば花は枯れていた。買い物を任せれば余計なものを買い重要なものを買い忘れる。
一体なんならできるというのか。思わず鍾会が怒鳴って当たり散らかすと、女はやはり意思の籠っていなさそうな瞳を向けながら「絵を描くことはできます」といった。
絵など描いたところで何になるというのか。字を書くのは、と尋ねた。多忙を極める鍾会の代わりに返事を書くことが今後必要になってくるかもしれない。だが女はさらさらと余っていた木簡に筆を滑らせたが、到底他人に見せることができない醜い字だった。よく字が汚いことの喩えとして蚓ののたくったような字などと形容することがあるが、彼女の字は蚓に喩えるならば蚓に失礼かもしれないとまで鍾会に思わせるようなものだった。
仕方なく絵を描くことを、鍾会は女に命じた。紙は貴重だから無駄にはするな。鍾会は釘を挿して、女が絵を描く様子をじっと見つめていた。
文字は本当に同じ人間という生き物が書いたのかと疑わしくなるようなものだったが、逆に絵も同じ人間が描いているものなのかと鍾会は思った。同じような感想ではあるが、そこに含まれているものは真逆であると言ってもよい。絵は鍾会ですら驚愕するほどに上手いものだった。
女は「つまらないものですから捨てるほうがよいでしょう」と相変わらずの暗い顔で俯きながらそう言っていたものだったが、鍾会はなぜだかその絵を捨てきれずにいる。女のことははっきり言って嫌いだ。だがその絵だけはどうしても破り捨てることはできなかった。女の愚かしい失敗を見る度にその絵を塗りつぶしてしまおうかという衝動に駆られるものだが、それすらもできないままに日々は過ぎる。鍾会は燻り、女も成長しないままそれでもここで働いている。
「お前。本当に……いい加減にしろよ。私を何だと思っているんだ」
女が怪我をするのもどうしようもないほどに間違いを犯すのにもとっくに慣れてしまった。だがそれでも許すことができないものが当然存在する。
「……そんなに大切なものだったのですか」
女は悪びれる様子すらない。なぜ自分ばかりこうして腸を煮えくり返しているのかという思いが鍾会を支配した。
「大切に決まっている! なぜあの書簡を火にくべるなど……!」
「やけに乱雑に置かれていましたので。もう必要のないものだと思って処分しました」
鍾会には敵も多い。だが、味方を増やす算段を怠っているということでもない。最も味方など鍾会にとっては蹴落とすための踏み台でしかないのだが、その踏み台を作ることも今後のことを思えば大切なことである。その土台作りとして度々連絡を取りあっていた男から送られた書簡を勝手に触り、あろうことか燃やすなど、許されることではない。
この女が馬鹿であることは疑いようもないが、ここまで来ると本当に頭のどこかがおかしいのではないかと鍾会は思ってしまう。加えてこの態度である。謝ろうともせず、申し訳なさそうな表情一つ浮かべない。初めから何も、誰も映していないように見える黒い瞳が不気味だった。
「なんてことだ……お前、覚悟はできているのだろうな。いや、今まで散々猶予の時間を与えてきたのだ。今度こそお前を解雇してやる。今すぐにだ。もう戻ってくるな」
鍾会は一息にそう言い切ると、女の肩を掴んでそのまま歩こうとする。女は口を開いた。
「鍾会様は、」
往生際が悪い女だ。鍾会は肩に込めた力を強めたが女は痛いとの一言すら発することはない。強情だった。
「小さい頃から辛酸を舐めるほどの努力をしてきたのでしょう。ですから私のように幼い頃から甘やかされた何の役にも立たない女のことが気に入らない」
「……何が言いたい」
歩みだそうとする足を止めて、鍾会はぎろりと女を睨んだ。
「私が羨ましいから、あなたは苛立っている。本当は私が妬ましくて、ずっと心が落ち着かないでいる。あなたが持っていないものを私は持っているから」
「……黙れ! お前に何が分かる! いいか、思い上がるな。私がお前のことをどうしようもない愚鈍な女だと思っているのは、単にお前が何度言っても無能なまま成長せずにいるからだ! 私は全てを手に入れる男だ、お前が持っていて私にないものなど、そんなもの今この時点でもあるはずがない! 私を馬鹿にするのも大概にしろよ……!」
いっそのこと、この女をここで殴り殺してしまいたい。だがここでそうしてしまえば、今まで築いたこの女の父親との関係性を壊すことになる。ここまで我慢したのだから、殺すことなどできはしないのだ。ならば追い出すことも同罪なのか。ここまで考えて、鍾会は己がこの女に縛られていることを知った。この女は何にも縛られていないというのに、だ。怒りで興奮状態にあるためか、それとも別の要因が存在するのか。鍾会は頭が割れそうなほどの痛みを感じた。
「……戯言ですから、お気になさらずに。鍾会殿が心配しなくても、私はもうここには戻ってきません」
「なぜだ」
「殿方のもとに嫁ぎに行きますから。私を大切にしてくださるお方です。あなたとは違う」
「……」
鍾会が絶句したその隙をついて、女は早足で鍾会の腕をすり抜ける。手を伸ばしたが、どういうわけか再び掴むことはできなかった。やけに女の体が遠く、小さいもののであるかのように鍾会には見えた。
あの女が、普通の男の妻としてやっていけるはずはない。どうせすぐに居場所を失くして、のこのこと頭を下げて戻ってくるだろう。
鍾会はその日を待ったが、女が戻ってくることは二度となかった。もしかすると、あの振る舞いは演技だったのかもしれない。だがなぜそんなことをする必要があったのか。鍾会は取り乱しそうになったが、たまたま近くにあった陶器を地面にぶつけて粉々にして、ようやく落ち着くことができた。破片によって腕が切れて、血が垂れる。あのときの女と同じように、包帯を巻いた。
自分はこの期に及んで、どうしてまだあんな女に執心しているのだろうか。冷静さを取り戻した後に一度その考えが脳裏に浮かべば、やがて女のことはどうでも良くなっていった。一人の女に囚われるなど、自分らしくもない。そんなちっぽけなことに時間を割く暇などないのだ。
だがふと、そんなこともあったなと思い出して、鍾会はかつて女が描いた絵を取り出した。どこかに飾っているというわけでもなかったから、その紙は折り曲げられて雑に突っ込まれていた。だが鍾会の几帳面さが表れているのか、四隅を丁寧に折りたたんだ状態でずっと眠っていたらしい。
紙を開く。久方ぶりだったが、色褪せることなく、そこには立派な麒麟が鎮座していた。今にも動き出しそうなほどの躍動感を醸し出すそれは、誰もが目を奪われるといってもよかった。鍾会も簡単に認めたくはないが、自分がその中の一人であることを否応なしにでも受け入れざるを得ない。
じっと見つめていると、鍾会はあることに気づく。初めにこの絵を見た時は気にも留めていなかったが、隅の方に文字が書かれているのだ。
乙女。あの女の名前だろうか。そこで初めて、鍾会は女の名前を知らなかったのだということを思い知った。いや、女との出会いから考えて、知らないなどというこのは有り得ない。つまりの所、鍾会は覚えようとすらしていなかったのだろう。それほど彼女のことを見下していたのだ。
「は、は……」
鍾会は乾いた声で笑った。笑いが止まらなかった。
あれほど使えない人間もこの世にいたものだと乙女を嘲笑っていた。だがこの笑いは、そんな彼女がいなくなったことに対して、今更虚しさを感じたということによるものなのかもしれなかった。
それとも、どれだけ教育を受けてきても絵だけは最後まで上手くならなかったという頭の片隅に押しとどめていた苦い記憶が、やけに鮮明に思い出されたことによるものなのかもしれない。
どちらにせよ、女が戻ってくることはない。鍾会は狂ったように笑いながら、ここに彼女がいたのだという証のようなものであるこの絵を、元の形が分からなくなるほど粉々に破り捨てた。
(20240811)