教信者と無意識の主
司馬師の血縁者、というだけで周囲から色眼鏡で見られる。乙女は自分に寄せられるそんな人目の多さにうんざりしていた。
怠惰で有名な次兄司馬昭ではなく、聡明なことで知られる長兄司馬師に似ているからというのが、より彼女が羨望や偏見に塗れた目で見られてしまうのかもしれなかった。
司馬昭も、優れた手腕を持っていることは確かだ。それが表に出ない、いや出そうとしていないだけで。何なら自分よりも優秀ではないかと乙女は思う。彼女はただ兄に対して遅れを取らないようにしているだけだ。
司馬師への憧れ、彼のような人間になりたいという思いはもちろんある。尊敬する兄なのだから、彼女にとっては当然である。
しかし、彼女は彼女であって、司馬師ではないのだ。
それを、この男は分かっているのだろうか。乙女は自分に付き従う男、諸葛誕に対してそんな気持ちを抱いていた。
「乙女殿は本当に素晴らしいお方です。司馬師殿の才能を良く受け継いでおられる。そのお顔も性格も……貴方の元にいると、自分の不甲斐なさに打ちひしがれるばかり……」
熱く語る諸葛誕を横目に、乙女は書簡に目を通す。
この男は、兄に陶酔している。だからその兄と似ている自分を過剰に褒め、持て囃しているのだろう。司馬師に自分をより認めて欲しいがために、踏み台にしているのか。乙女がそう感じるのも無理はない。実際、諸葛誕に限らず司馬家の権力が力を増す昨今、自分の栄達の為に彼女に媚びを売る者は少なくない。
「そう。いい加減に、私と兄を比べるのを辞めてくれないかしら。自分を貶めるのも、意味が分からない。私に着いてくる暇があるならもっとやるべき事があるはず」
諸葛誕はいつもこうだ。特に用もないのに押しかけては自分の言いたいことをひたすら語り、満足し終えて去っていく。嫌いではないが、毎回こうでは気が滅入る。
今日こそはっきり告げなければならない。そう思って乙女は彼の目を全く見ないまま言い放った。今までは適当にあしらってきたが、そろそろ限界だったのだ。
しばしの沈黙。別に、これしきのことで気を病むような男ではないということを彼女は知っている。そうでなければきっと、司馬師と共に従事することなど叶わないからだ。
だが何やら妙な予感が乙女を襲う。それに気づき顔を上げるのと、諸葛誕が口を開くのは同時だった。
「乙女殿。私をもっと叱ってくれないだろうか」
「は?」
特に、兆しはなかったはずだ。そもそも乙女は一言、二言しか話していない。
だが知らぬ間に諸葛誕は顔を赤らめ、見たこともないような表情で彼女を見つめていた。
二対の瞳がかち合う。彼のこのような目つきを見るのも初めてで、乙女は思わず身震いした。
「貴女になら、酷く罵られてもいい。いや、貴女だからこそいいのだ。司馬師殿とは、断じて違う、貴女だからこそ……」
この男は一体何を言っているのか。乙女には全くもって状況を把握することが出来ない。
まるで天と地が入れ替わったかのような諸葛誕の態度の一変ぶりに、彼女は目を白黒させた。
「やっと願いが叶ったようだ。私は貴女を人目見てから、貴女に叱られることで自分は成長出来るのだと確信していた」
諸葛誕の顔が乙女に近づけられる。思わず彼女は後ずさりしそうになったが、椅子に座っているためそれは不可能なことに気づき動くことが出来ないことに絶望する。
「何を……一体何がしたいの」
叱ってもらいたい、罵ってもらいたいなどと言われ困惑しない人間は居ないだろう。乙女は既に冷や汗をかいていた。司馬師と比較して擦り寄ってくる人間の中でも、このような人間は当然ながら初めてだ。
「司馬師殿と比べるような言い方でしか貴女を評価することが出来なかったのは、それほど貴女を神聖視しているからだ。だから、どうか……」
彼を退けるにはどうするべきか。彼女の今の姿勢からでは椅子から転げ落ちるしかない。だが転げ落ちたならばそれこそ諸葛誕に押さえつけられてしまうかもしれない。益々訳の分からない状況に導かれてしまうのは真っ平御免に決まっている。
彼女はこれ以上考える前に行動に移った。
「ごめんなさい」
乾いた音が鳴り響く。乙女は平手で諸葛誕の頬をぶった。強引だがこうするしか彼女の頭には思い浮かばなかったのだ。
これでもう懲りてくれるだろうか。乙女は諸葛誕に罵声を浴びせようなどというつもりはない。彼が司馬師と乙女に媚びている訳ではないのは理解出来たが、理解しすぎたのだ、と乙女は思った。
「乙女殿……」
頬を手で抑える諸葛誕を横目に見て、その隙に椅子から乙女は下りる。呆然とする彼に構いもせずに乙女は部屋から出て行った。
行くあてはない。後先のことなど考える余裕は失われていた。
叱られたい、罵られたいなどと言われて戸惑わない人間は居ない。だが。
諸葛誕のあの恍惚とした表情は、きっと自分にしか見せないものなのだろうと乙女は思った。彼のあのような姿、見たことも聞いたことも無かったからだ。
そう考える彼女にはある種の優越感のようなものが生じた。無意識のうちに、彼に絆されて居たのかもしれない。
不思議と高鳴る胸の鼓動。乙女は、人と比べるだけ比べてその人本人のことを深く知らずにいたのは諸葛誕ではなく、自分なのだと感じた。
彼は間違いなく自分を見ているのだ。司馬師の血族ではなく、乙女個人を。
思っている形ではなかったものの、やっと自分の中身を正しく見ている人間が生まれていたことに彼女は嬉しさを感じた。
しかし、諸葛誕の元に戻ったらなんという言葉を掛けようか。矜恃の高い彼だから、怒ってしまったということも考えられる。
そう乙女が頭を悩ませた頃。
諸葛誕は先程の部屋で取り残されたまま、物思いに耽っていた。はたかれた頬は未だに少し熱を持っている。
「乙女殿に何としても私の思いを受け止めてもらわなくては」と、全く反省の無い様子で彼女を待っていたのだった。
こちらもこちらで、自分をさらけ出すことが出来るのは乙女しか居ないのだという思いを強めていたらしい。司馬師とは違う乙女の素晴らしさについて諸葛誕が本人を前にして説くのは、もう少しだけ先の話だった。
(20240312)