好転するなど有り得ない
「……あのさ、本当に、良かったのか」
二人きりになった。夏侯覇は、やっと肩の荷を下ろしたようにため息を吐きつつ乙女に尋ねる。
今更なにを言うのだろう。乙女はそう思わないでもなかったが、きっとそう思わないとやっていけないのだろう。この男は優しすぎるのだ。
「仲権様の行くところならば、どこまでも」
そう、だよな。夏侯覇はぎこちなく笑った。夏侯覇が気にする事はない。いつものように笑って欲しかった。だがそうもいかないのは乙女も分かっている。
「私、仲権様のことがやっぱり好きだから」
乙女は司馬家に連なる人間だった。そんな彼女が夏侯覇と共に蜀に亡命したなど、魏国内では信じ難いとされていることだろう。
実際、姜維らは夏侯覇を歓迎して数少ない物資を消費してまで宴会を開いたが、乙女のことをよく思わないものもいた。
司馬家の手先ではないか。埋伏の毒ではないかと。家の名に縛られるのは心苦しいと乙女は思った。夏侯覇にとっては曹家の人間が殺害され力が無くなっていく様子を見るのはたまらなく腹立たしいことであるし、次に殺されるのは自分ではないかと思ったから、魏国を捨てた。
対して乙女はどうだ? 今や国の権力を握っていると言っても過言ではない司馬一族でありながら、彼らを裏切ってこの地にいる。恵まれた立場を捨てるのにも葛藤があった。だがそれでも夏侯覇と生きることを選んだのは、愛ゆえだった。
家の名がなければ、夏侯覇と平和に結ばれたかもしれない。いつか平和になる日を夢見てこうして彼と共に生きているものの、幸せになる未来が訪れるとは思えなかった。そして、それはきっと夏侯覇も薄々気づいている。
「……乙女。俺、苦しいんだよな。本当はさ。父さんの仇に世話になるなんて耐えられないって、普通は思うだろ? でも、それが出来てる自分が、怖くて仕方ないんだ。だからその気持ちを誤魔化すためにも、魏軍の奴らを倒して、平穏を手に入れないとって、思うんだ」
夏侯覇は死に急いでるように、乙女には思えた。
臆病だから、俺って。
夏侯覇がそう言ってきたのを、乙女もよく知っている。臆病なのは悪いことではない。勇敢であることは時に死を呼ぶ。臆病だからこそこうして魏国から逃げてきたのだ。臆病だからこそ、仇を頼ってまで生き延びているのだ。
だが今の彼は危うい。きっと、自分がどう言おうとも戦ってぼろぼろになってしまうのだろうと乙女は思った。
ただ彼と居たいという願いなど、わがままでしかない。彼は乙女がどう言おうとも戦い続けるのだろう。自分の罪悪感から目を背けるために。
「……それでも、私のために、生きてください。私は、仲権様が居ればほかになにも要らない。蜀の兵の屍も、魏の兵の首も要らない。本当は戦ってほしくなんかない。ただあなたの行く場所に私も在りたいだけ」
軍人なんか辞めて、二人だけで暮らそう。
そう言ってほしかった。無理な願いであるのは分かっていても、夏侯覇を止めるにはそうするしかないと思ったのだ。
臆病なのに、戦場で戦う夏侯覇のことをこれ以上咎めることは出来ない。だが、気持ちだけは分かってほしかった。
「……ごめんな。俺、お前を幸せにしてやれる自信、ないんだ。幸せに、なりたかったな」
なれるよ。仲権様と私なら。
そう言いたかった。だがなぜだか、乙女の喉は詰まって声を出すことは出来なかった。それは多分、幸せになることなんて出来ないと彼女自身が思っているからだ。
違うよって言いたいのに。乙女は背を向ける彼に対して何も言うことが出来なかった。
ごめんなさい。馬鹿な人間でごめんなさい。乙女は心の中で懺悔した。その言葉はきっと、夏侯覇だけでなく司馬師と司馬昭という、二人の兄にも向けられていた。
(20240510)