楽園なんてなかった
※バイオレンス描写有

乙女の目が覚めるとそこは、どこまでも広がる緑と雲ひとつない青空が広がる見たこともない空間だった。

今まで自分は何をしていたのだろう。乙女は考えながら歩いたが、それまでの記憶が抜け落ちているようで何も分からなかった。

空を見るのを止めて、自らの体を眺める。服は着ている。だが屋敷に居る時のような着物ではなく、戦に赴く際に着ていた鎧が体に着けられている。体のどこにも痛みはない。だが良く見れば鎧には沢山の傷が付けられている。

煩わしいと思った。今まで何をしていたのかの記憶はなかったが、鎧の付け外しくらいは心得ているから、乙女は慣れた手つきでぽんぽんと鎧を地面に落とした。

鎧を外して改めて体を見ると、そこかしこに赤い傷跡が残っている。

痛みはない。不思議に思った。真新しく見えるそこを指で触ってみても、何ともなかった。きっとこの衣服の下にも同様に赤い軌跡が描かれているのだろうが、乙女は怖くなって見るのをやめた。ある考えが浮かんだからだ。

きっとここはあの世だ。戦いの中で命を落としたから、ここに居るのだと乙女は感じた。

何故命を落としたのだろう? 考えても簡単には思い出せないが、何をしていたのかはぼんやりと浮かんできた。

魏の将として戦っていたような気がする。だが思い出せるのはそこまでだった。

戦死というものは特段珍しいものでもない。死後の世界がこれならば、なんと幸せなことか。生前の自分はさぞ良いことをしたのだろうと思いながら、乙女は行くあてもないままに歩く。

「……殿!……乙女殿!」

後方から乙女の名を呼び掛ける声が聞こえる。聞き馴染みのある声に振り向くと、遠くから見知った顔が駆け寄ってくるのが見えた。

「郭淮殿」

「乙女殿! あなたも、こちらにいらしていたのですね」

郭淮のほかには誰もいない。だが一人だけでも知っている人がいるというのは心強いことだ。乙女は旧友との再会に安堵した。

「この世界は一体……? 私はなぜここに居るのでしょう」

「この世界は死後の世界のようです。……死後の世界がこんなに穏やかならば、私が決死で戦った甲斐もあったというものです……ごほっ、ごほっ」

「本当に死後の世界? それにしては郭淮殿は咳をしておられる」

乙女は郭淮の背中をさする。郭淮は相変わらず病弱でやせ細った体躯を保っている。彼の言うことが本当だとしてもにわかには信じられなかった。

「ああ、ありがとうございます。咳はしているが、苦しくはないのです。そう、あなたもそれは同じ」

「え」

どういうこと。乙女が投げかけるよりも早く、短剣が彼女の胸に突き刺さっていた。衝撃で彼女は地に仰向けとなって倒れる。郭淮は彼女の体に馬乗りとなる形で、短剣を持っているままだ。

短剣を持っているのは紛れもなく目の前に居る郭淮で、何がどうなっているのか分からずに乙女は混乱する。

「痛い、痛いです、郭淮殿……!」

苦しくないはずなどない。はっきりと乙女は痛みを感じた。血が流れ衣服を赤く染め上げているのは乙女にも分かる。

だが胸に刃が突き立てられているのにも関わらず、彼女の意識は失われることなく鮮明としたら状態にある。気分は悪いが、自分が死ぬという予感は全くしない。乙女は恐ろしくなった。

「夏侯覇殿を誑かして共に魏を裏切ったあなたを、許せるはずもない! 夏侯淵殿に忠実だったあなたを、私は信じていたというのに!」

郭淮は叫びながら涙を流していた。まるで自分が刃をその身に受けているかのようだった。

魏の将などではなかったのだ、乙女は。慟哭する郭淮を前にして、彼女も打ちひしがれる。なんで魏を裏切ったんだっけ。郭淮のことは互いに信頼していたはすだ。夏侯覇と共に彼を裏切ったのは何故なのか、乙女は思い出すことが出来なかった。

「乙女殿。私はずっと苦しかった」

郭淮が剣を引き抜く。飛び散った血は暖かく、自分が本当に死者であるとは到底信じられないと乙女はぼんやりとした頭の中で考える。

郭淮はそれでとまだ赦さないとばかりに、腹を切ったり刺したりと半狂乱になって乙女の体を弄んだ。郭淮の真っ白な肌もそこかしこが血に塗れていて、まるで獣が小動物を捕食しているかのようだった。

私だって、きっと苦しかったはずだ。郭淮にはきっと届かないその思いは、乙女自身の痛みに喘ぐ声にかき消された。

ここが死後の世界でないのならば、さっさと解放されていただろうに。終わりのない責め苦は、一体いつまで続くのだろうか。乙女は未だ明瞭な視界を涙の膜に包みながらそう思った。

(20240503)
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