裏表、反転
「賈充様。書簡の確認をお願いします」

「……ご苦労。下がっていい」

はい、と短く告げて賈充の前から去る乙女。両者ともに平坦な声色で、それは一切熱が籠らない、無機質とも呼べるようなものだ。冷徹な懐刀と恐れられる賈充の部下に相応しく、乙女もまた常に冷静、感情を必要以上に表に出さない優秀な人間だった。

だが、二人の様子を見ながら、司馬昭は内心不安を抱えていた。

二人は契りを交わしているのだ。夫婦として。

賈充は司馬昭一筋と言っても過言では無い。彼のためならば文字通り何でもやってしまうような人間だ。乙女も賈充の部下として、与えられた命令は何でもこなすし、司馬昭としても働き者の良い部下を賈充は持ったものだ、と関心する程である。

二人とも仕事一筋で、色恋沙汰には縁がないものなのだと司馬昭は思っていた。賈充が女の影をちらつかせたことなど今までに有り得なかったし、常に策略を巡らす彼のことだから恋愛感情などを抜きにして婚姻相手を決めるのではないか。司馬昭は彼に対してそんな評価を下していたのだが。

しかし、賈充は司馬昭の知らないうちに乙女と親睦を深めていた。彼から直接結婚するのだということを聞かせた日は度肝を抜かれたものだと司馬昭は今でも思う。

乙女の家柄は、特段悪くない。悪くないというだけであり、賈充がそれを役立てることが出来るほどなのかと問われれば、正直のところ分からなかった。

司馬昭は内心動揺しながら、決め手は一体何だったのかを尋ねたものだ。上司と部下という仕事でしか通用しない関係はどこで変化したのだろうかと。

賈充の返答は、これまた司馬昭を驚かせるものだった。「簡単な事だ。互いに好いている、ただそれだけだ」と彼は言った。

賈充が乙女を、純粋に愛しているということなのか。司馬昭は混乱した。全くもってそんな素振りなど感じられないのだ。無論賈充だけの話ではない。乙女もだ。彼女が発する言葉といえば「はい」「賈充様」といった短く簡潔なものばかり。本当に互いを好ましく思っているのだろうか。司馬昭の疑問は消えることはない。

夫婦になってからも、二人の互いに向ける態度は変わっていないようにしか、司馬昭には感じられないのだ。

加えて賈充が乙女を叱責する場面も相変わらず見られた。恐らくいつものように執務上のことだろうが、彼女は眉ひとつ動かさず賈充の言葉を受け入れ、従う。

何となく、そんな様子を見る度に司馬昭はいたたまれない気持ちになるのだった。

「あー、賈充、さ……あの、上手く……いってんの?」

司馬昭は乙女の後ろ姿を見送ってから、ぎこちなく賈充に尋ねた。

「くく……とんだお節介、だな」

そんなつもりじゃねえよ、と司馬昭は言い返したくなった。だがお節介を焼きたくなるほど二人の関係を心配しているのは事実である。そんな気持ちを他所に薄く笑いを浮かべる賈充。対して、司馬昭は賈充の手のひらで弄ばれているような気分になった。

「いや……お堅いようだからさ。普段大丈夫かな……って何言ってんだろう、俺」

いくら友人と言えども、繊細な自称に首を突っ込むのは正直、面倒なことだ。言いたいことを言い終わってから、司馬昭は後悔した。何をやっているのか自分は、と。

「そこまで言うのならば教えてやろう。あいつは、俺にしか見せない顔がある。それだけで十分だろう」

そこが決め手か。司馬昭は納得したがそれでも腑に落ちない。いくら公の場とはいえ賈充の態度は冷たく映るし、乙女は本当に大丈夫なのだろうか? 司馬昭は疑念を解消出来ないままだ。

そんな司馬昭を見て、賈充は表情を崩さず笑っているだけだった。

真相はこうである。

「旦那様。今日はあの後司馬昭殿と何を話していらしたのですか」

屋敷にて。乙女は書簡に目を通しながら賈充にそう言った。その声は普段の平坦さとはかけ離れている。感情が籠った、凛としているものだ。

「……お前のことを話した」

賈充は少しだけ何を話そうか迷った様子でそう答える。なぜ自分が去った後の出来事を知っているのか。賈充は冷静に振る舞う中で乙女を恐れた。

「私のことを……私が鬼のような妻であるとか、司馬昭殿に言うはずありませんよね?」

乙女は顔を上げにっこりと微笑んだ。
美しい笑みだ。だが僅かに怒りが含まれているように思われる。

賈充は乙女が自分にしか見せない様々な表情を知っている。そこに惹かれたのだが、こんな言われようでは流石の賈充も流暢に言葉を遮ることは出来ないのだった。

「言っていない。……本当だ」

賈充は、乙女が好きだ。それは紛れもなく事実である。だからこそ素の乙女を見たいと思った。それがまさか、家庭に入るや否や豹変するとは、彼にも予想が出来なかった。

「そうですか。それならば良いのです。私は旦那様の影として動くのが本望ですから、不用意に私のことを広めないでいただきたいものです」

家の中では影どころではないだろう。賈充はこっそりとため息をついた。

優秀な部下は、愛すべき妻となった。影から賈充を支えることには変わりないのだが、些かその存在感は眩しすぎる。普段賈充に従う乙女の姿は正反対に、家の中では乙女が力を握っていた。

まるで春華殿のようだ。賈充はそう思いつつも、仕事中は賈充に逆らわない乙女のように、彼女の言葉を受け入れている。

そんな仕打ちの中でも、賈充は乙女が好きだった。自分にしか見せない顔がある。それだけで優越感に浸ることが出来た。

つまり、それほどまでに乙女に惚れているのだ。

再び書簡に目を通し始めた乙女は、妻としての顔から打って変わって優秀な部下の目をしている。

見ていて飽きないものだ。賈充はこんな様子、司馬昭には到底見せられないし、馬鹿正直に話すことなど不可能だな、と考えながらそう思ったのだった。

(20240315)
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