二人きりの夜
「私、娘が欲しいってずっと思ってたの」
張春華は、乙女がこの地にやって来てから度々そのような事を口にしていた。今も嬉しそうにして、乙女の髪を編み込んでいる。このようなことは息子には出来ないから。彼女は二人の息子、司馬昭と司馬師を例に挙げて乙女がやって来たことの喜びを顕にした。
「春華……さんに拾ってもらえて、本当に良かった」
乙女は髪をいじられながらそう返した。
乙女は遥か未来からやってきた、年端のいかない娘だった。
たまたま司馬家の屋敷で倒れていた彼女を一目散に保護し慈しむことを決めたのが、張春華だった。つまり彼女が居なければきっと、乙女はわけも分からないまま命を落としていただろう。
司馬懿は当然のように彼女を怪しんでいたし、司馬師も同様だった。司馬昭はどう思っているのか分からなかったが、少なくとも良い感情を持っているわけではなかった。
何せ理解し難い服装に、話す内容もこの時代の人間には全くもって知らないことばかりだ。そもそも未来から来たなどという妄言が信じられるはずもない。だから、乙女は彼女に感謝している。
だが、それ以上の感情を持つには至らなかった。
「遠慮しないで、母上って呼んでもいいのよ」
彼女は唄うように喋る。乙女のことを本当の子どものように愛したいと思っているのはきっと真実だ。
だが乙女にとっては違う。母上と呼んでもいいなどと言われても、そんな呼び方を実の母親にしたことなどない。
それに、この地での生活は常に非現実的だと乙女は思っていた。全てが見たことのないものだけで、夢を見ているかのような感覚が四六時中続いていたのだ。
だから張春華のことを恩人だとは思っていても、やはり本当の母親のように見るのは不可能だった。
「……努力してみます」
乙女のつれない言葉に何を言うわけでもなく、張春華はただいつものように微笑むのみだった。
(眠れない)
ある晩のことだった。
その日はやけに、乙女の心の中を寂しさが占めていた。
ホームシックのようなものかもしれない。現代ならば、ホームシックになってもいつかはそれが解消されるし、テレビ電話を使えば会いたい人の顔も簡単に見ることが出来る。
帰れる保証がどこにもないという現実が、乙女を苦しめていた。
「お母さんに、会いたい……」
誰に聞かせるということでもないその一言を声に出したことでタガが外れたのか、寂しさは悲しみとなって乙女を襲った。
意味も分からないままに胸がどきどきし、心臓の鼓動がうるさいほどに鼓膜を刺激する。
「会いたいよ、お母さん」
乙女は、彼女自身も分からぬうちに涙を流し、すすり泣いた。
「乙女」
自分を呼ぶ声に驚いた乙女は、急いで寝台から飛び上がり声の方向に体を向けた。
「春華さん」
そこに居たのは張春華だった。いつものように笑みを浮かべて、ただ一人で立っていた。
「胸騒ぎがしたから、あなたを見に来たの」
そう言って彼女は乙女の傍に移動する。ほら、楽にしていいから。そう促されるがままに再び寝台に体を潜り込ませた乙女を見てから、張春華は乙女の背中に手を当てた。
「あなたもきっと、昔は子守唄を歌ってもらっていたはずだわ」
トン、トン、と一定のリズムで背中を柔らかく叩かれる。春華は子どもを寝かしつけるように、唄を歌い始める。
次第に乙女は落ち着きを取り戻し始め、いつしか寂しさと悲しみは消え失せていた。
「ありがとう……お母さん」
乙女が眠りにつきながらそう言ったのは、実の母親を思い返したのか、それとも張春華のことが本当の母親のように見えたのか。
きっと乙女本人も分かっていなかったが、張春華はこれからも彼女に寄り添い続けようと思った。
(20240512)