雪が降る度、思い出す
その日は雪が降っていた。しんしんと降りしきるそれは、次第に草や木々を白く染め上げていく。積もるのだろうか。そこまではまだ分からなかった。だが外に出ずとも、窓からそれを見あげているだけで凍えるような冷たさが伝わってくる。そんな日だった。

「乙女」

呂布が、部屋の中で雪を見ていた乙女に向かって声を掛けた。乙女は呂布に対して背中を向けている。

雪が降っているにも関わらず、乙女は窓を開け放しているものであるから、雪は部屋の中まで入り込んでいる。髪の上にもそれはついていたが、呂布の声に気づいた彼女が窓を閉め、振り返った時には既に解けていた。

「奉先様」

部屋の中には冷気が立ち込めていた。季節が季節であるから、当然のことだった。それにも関わらず、乙女は薄着でいる。窓を開けていたからだろうか。呂布はこの部屋のほうが、他の部屋や廊下よりも一段と寒いと思った。

乙女は呂布の姿を見て、どこか安心したかのように微笑んだ。

「会いに来てくださったのですね」

「……当たり前だ」

呂布はほんの少しだけ、頬を弛めた。この男にしては、珍しいことだった。乙女もそれを知っているのか、くすくすと声を立てて笑う。

何がおかしいというのか。呂布は分からなかったが、それを聞いたところで深い答えは返ってこないように思えたから、何も聞かなかった。乙女が突拍子のないことを言い出したり、行動を起こしたりするのは度々あることだったから、それ以上の詮索は無意味だった。

「そのようにぺらぺらの着物で窓を開けているなど、体に障るだろう」

優雅に笑みをたたえたままの乙女とは対照的に、呂布は彼女の無謀を本気で心配しているようだった。

「私、奉先様が思っているよりも体が強いのですよ」

「俺よりは弱い」

「奉先様に適う人などおりませんわ」

「当然だ」

呂布は至極真面目にそう言った。乙女は相変わらず笑っているままだ。

この女といると、調子が狂うようだ。乙女の笑顔を見ていると、そう感じてしまう。だが呂布はそう思いながらも、乙女と過ごす時間を作ることに躊躇いはなかった。

「……その体はもう、お前だけのものではないのだからな」

呂布は、人に対して気を遣うということを知らない。弱い人間には、そもそも興味がないからだ。だが乙女に対しては違った。彼女に対しては、慈しむという感情があった。だが呂布は、その感情が何なのか、自分でもよく分かっていなかった。

乙女に対して抱く感情の理由。その直接的な理由は恐らく、乙女が子を宿しているからだ。それだけが理由ではないのだということ程度呂布も理解しているが、やはり言葉にすることはできなかった。

「分かっています。だからこそ、ですよ。本当ならば私、直接外に出て雪に触れていますわ。分かっているから、こうしてこの部屋の中にいるのです」

「それならば、いい」

窓の外から眺めていればいいものを。そう思わないでもなかったが、呂布は結局何も言えずに、閉じられた窓から見ても分かる、雪の様子を見た。

呂布には、例えば小さいが懸命に咲き生きている花の姿や、広大な湖の景色というものに心を打たれるほど、情操が豊かではない。

だから、乙女が雪を見たいのだ、触れたいのだと思ったのはなぜなのかということも、呂布には分かっていなかった。

だが、雪を見て、その直後に乙女を見た呂布はふと感じた。

雪の色と、乙女の髪、そして肌の色。

似ているのだな、と呂布は思った。

「お前は、」

呂布は、自然と乙女を呼んだ。自分は何を言おうとしているのだろうか。ほんの刹那、悩んだ。それは、自分らしからぬ問いだったからだろうか。それとも。

「あの雪のように、消えてくれるな」

雪と、乙女という人間のことを同一視するなど、自分らしくない。呂布はそう思った。

やはり、この女といると調子が狂うようだ。静かに頷く乙女の頭を撫でた。雪が舞うように、さらさらと髪が指をすり抜けていった。




「父上」

その日も雪が降っていた。だが、呂布を取り巻く状況というものは、あの頃から随分と様変わりしてしまった。

雪は、あの頃とは比べ物にならないほどに積もっている。寒さも段違いで、人々は皆凍えきっている。

呂玲綺は、呂布と共に城下に攻め寄せようとしている大軍を見下ろしていた。

「なんだ」

ぶっきらぼうに呂布は返す。この戦いに、負けてしまうのではないか。そんな気配が、軍内に広がっていた。そんなはずはない。呂布は咆哮してそれらの声を沈めたが、それもいつまで持つか。

「母上のことを、お教えください」

「……なぜだ」

呂布は呂玲綺に対して、ぎろりと睨むような視線を向けた。

呂布は娘に対して、この娘の母親に当たる人間の話をすることを良しとしていなかった。

呂玲綺は、母親の顔を見たことがない。彼女が物心ついた時には既に亡くなっていた。

だから彼女は、母親の話を何度もせがんだが、呂布が一向に答えようとしなかったため、話を聞くことを諦めてしまった。それはもう遠い昔の話だ。

もう母親の話をすることはない。呂布はそれでいいと思っていた。

だから今この瞬間、呂玲綺に再びその疑問を投げかけられることというのは、大層不服であった。

「……ふと、気になっただけです」

呂玲綺は、自分と父親の勝利を心から願っている。どれだけ逆境の中でもがき苦しもうとも、最後に笑うのは自分たちである。そう高らかに宣言するだけの自信があった。

それでも、心のどこかに押し寄せる不安というものが完成に消えたということでもない。

呂玲綺は漠然とだが、今このとき、自らの母親のことを聞いておかねばならぬような気がした。今聞かねば、取り返しのつかないようことになる予感があった。

その予感というものを、呂布も薄々は感じていたのかもしれない。

「弱い、女だった」

「弱い?」

呂布がぽつりと呟く。呂玲綺は、反射的に聞き返した。人の母親を形容するにしては、余程相応しくない言葉だったからだ。

「そうだ。弱い女だった」

「……父上に適う人間などおりませぬ。父上と比べてしまえば、誰もが弱い人間でしょう」

呂布は、この娘の言葉に既視感を感じた。

それはこの娘の母親……乙女もかつて、似たようなことを言っていたのだ。それを今、呂布は思い出した。

何気ない会話だった。だが一度思い出すことができたからだろうか。かつての光景は鮮明なものとなって、呂布の頭の中を彩った。

「お前の母親も、似たようなことを言っていた」

「母上が?」

「そうだ。お前は、母親に似ている。その雪のような髪の色。肌の色。誰にでも物怖じせぬその態度。……心は、強い女だった。お前の母親は、強い人間だった」

弱いと言ったのかと思えば、今度は強かったのだという。普段ならばおかしくて思わず吹き出してしまいそうになる呂布の言葉に、呂玲綺はただただ聞き入っていた。

自分が鬼神の娘であること。同時に、この雪のような清らかさを受け継いでいるのだということ。

呂玲綺は、心の中に初めて知ったことを刻み込みながら、薄暗い空を見上げた。雪が止むのには、まだまだ時間がかかりそうだった。

「勝利を、天上の母上にも捧げましょう」

呂玲綺は天に向かって、武器を掲げた。呂布も無言で、愛用の方天戟を重ね合わせた。



下ヒが陥落するその瞬間も、雪は降り続けていた。それは、乙女の涙であったのかもしれない。

(20240628)
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