少女A
※夢主がヤンデレ。バイオレンス
その日も、袁紹はいつものように乙女の邸宅に入り浸っていた。
「私、袁紹様の元にいられて幸せですわ」
「そうであろう! 名族の庇護下において幸せでないとは、ありえぬことだ」
袁紹は少しおだててやればすぐに調子に乗り、自らの力を誰であろうと誇示する。これでは金があろうが力があろうが、卑しい行いにしか思えない。
愛しい妻のためだといって、迷子になりそうなくらい大きな屋敷を袁紹は乙女に与えた。袁紹は執務が残っていても乙女の元を訪れて至福のひとときを過ごしている。
乙女がそのような悪態を心の奥底で吐いていることすら、袁紹は気がついていない。なんと愚かな男だろうかと乙女は思った。
「私、ずうっと袁紹様のお傍にいたいですわ」
「もちろん、お前はこの私と共にあるのが定められた道である」
猫なで声を出して乙女は甘える。こうして袁紹に従順な態度を示したのはいつのことだっただろうか?
乙女はもはや、これが自分の素ではないのかと思い始めていた。本当は違ったはずだ。この男を憎んでいたはずなのに。頭のおかしい人間を揶揄して頭のおかしい人間の真似をしていたら、本当に気が触れてしまったのだという人の話を聞いたことがある。それが本当ならば、きっと自分もそうであるのだろう。
乙女はもう、引き離された夫の顔すら思い浮かべることができなくなっていた。夫と聞いて思い浮かぶのは、このきんぴかに身を包んだ男、袁紹しかいないのだ。
彼女は元々市井の女として、慎ましく生きていた。そして慎ましいながらも許嫁がいた。
その許嫁との婚儀の折である。突然見知らぬ男二人が式典を荒らしにやってくると、そのまま花嫁として着飾った乙女を連れ去ってしまったのだ。
そこからどうなったのか、乙女も混乱と絶望からなのかあまり覚えていない。ただ袁紹という自らを名族だと称した訳の分からない男の妻となっていた。
許嫁があの後どうなったのかも、あの時袁紹と共にいた……曹操という男がどうなっているのかも乙女は知らない。
ただ近頃の袁紹の言葉を聞く限り、曹操は袁紹にとって大きな壁となっているような気がした。
袁紹は乙女が自分から何かをするということが気に食わないらしく、身の回りの世話も全て女中に任せている。そのような調子であるから、乙女は世の中の情勢すら理解することができない。軟禁状態といえる。そうまでして袁紹は彼女を縛り付けているが、ふとした時にもらしたのだ。曹操との決戦が近づいているのだと。
乙女はそんなことどうでも良かった。どちらが勝って版図を広げるのだとか、全く興味はない。この袁紹という下衆な人間と手を組んで花嫁を攫ったのだから、曹操も同じような輩であるに違いない。
ただ袁紹がこっぴどくやられて防ぎ込む姿を見るのも乙女は面白いだろうなと思った。
慰めてやればさらに媚びを売ることができるだろう。自分がこんなことを考えていることもこの男は分からないのだろうと乙女はほくそ笑んだ。
官渡で起こった戦いは、袁紹の大敗に終わった。乙女は相変わらず閉ざされた屋敷の中にいる。袁紹はよほど乙女の存在を知られたくなかったためか、彼女がここにいるということすら曹操軍には知られることはなかった。
だが袁紹の息子の妻は、曹操の息子に攫われその妻となったらしいということを、乙女は女中の噂話の中で知った。
下衆の息子は下衆だ。乙女は顔も知らない曹操の息子のことを内心罵った。とはいえ袁紹の息子の妻だったという美しい女性のことも乙女は知らない。身近なところで起こっているはずなのに、酷く遠い地での出来事であるように乙女は感じた。
しかし、官渡の敗戦以降、あれほど袁紹が入り浸っていた乙女の屋敷に変化が起こっていた。
袁紹は乙女に会いに行かなくなってしまったのである。これも乙女にとってはどういう経緯でそうなってしまったのかよく分からなかったが、大方別の女に現を抜かしているのだろうということは大いに予想ができた。実際、噂好きの女中はそう言っている。敗戦を慰めてくれたのがたまたまその女だけだったからだとか、久々に様子を見に行ったら思いのほか自分好みだったとか、そのような話は乙女の自尊心を大いに傷つけた。
あの男の顔を見なくて済む。それは喜ばしいことではないか。男の目が届いていないのだから、この屋敷の中でも、屋敷の外でも自由に振る舞うことができる。実際彼女は女中に代わって料理を作ることも増えたし、屋敷中を歩き回って庭園の花を愛でることも増えた。
だが乙女の心の中は以前よりも満たされなくなった。認めたくなかった。だが認めざるをえなかった。
なぜ袁紹は自分の元に来ないのだろうか。自分の人生を犠牲にしてお前に尽くしてきたのだ。お前のためにこの屋敷に縛られることを是としてきた。お前のために、お前が喜ぶような化粧をして、服を着て、反吐が出るほど甘い声で甘えてやった。
なぜだ、袁紹。乙女に渦巻いていたのは憎しみだった。だがただの憎しみではない。袁紹と、そして今袁紹と共にいるのであろう自分以外の女に対する激しい嫉妬の炎が燃えていた。
「袁紹はどこにいるの」
乙女は袁紹を、もしくは袁紹の寵愛を受けている女をどうにかしないと、この炎は鎮火しないと思った。
近頃、炊事場に立っていた甲斐があった。研いだばかりの包丁を隠し持ちながら、乙女は女中に尋ねる。
女中はただならぬ様子の乙女にすっかり怯えているようで、がたがたと体を震わせながら最近の袁紹がよく訪れているのだという屋敷の場所を伝えた。
そのままの足取りで、乙女は屋敷を出る。久々に吸った外の空気は美味だった。
女の屋敷はそれほど遠い場所にあることもなく、乙女は迷うことなく辿り着くことができた。これならば自らの居住している屋敷のほうが幾分迷いやすいだろうと思った。
屋敷の警護人は見慣れない女がいるということで不審がられたが、袁紹からの言いつけなのだと男の名前を出せばすんなり通ることができた。袁紹の名を出しただけでへこへこする警護人を後にして、なんともばかばかしいと乙女は苛立った。
袁紹様のお后様に会いに来たのだと。そう告げると使用人はまたもや簡単に部屋を案内した。
こんなに平和ボケしているから、官渡の戦いとやらでは曹操に負けてしまったのではないか。戦のことは露ほども知らない乙女だが、袁紹の愚かさは嫌という程思い知るようになった。
部屋に入ると、そこには女がただ一人。
袁紹が居ないのが心底残念だと思った。女は無表情でいる乙女を見て何かを言おうとしたが、それが声としてこの世に出されることなく女は絶命した。
乙女が喉元に包丁を振り下ろしたのだ。目を見開いたままどさりと転がる女を見てもなお、乙女は眉ひとつ動かさなかった。
ただ汚らわしい女を掃除しただけだ。初めて人を殺したということへの恐怖など、乙女は微塵も感じなかった。
勢いのままに人を殺めてしまった乙女が至って冷静にこの後どうするのかを考え始めた時、どたどたと足音が聞こえた。
この女は声一つ上げていないのだから、騒ぎを聞いた人間などいないはずだ。
乙女が血に濡れたまま振り返ると、そこには激しく憎悪を抱いた対象が呆然とした状態で立っているのだった。
「お、お前は……なんということを……」
丁度このとき、偶然にも袁紹は女の元を訪れようとしていたらしい。
愛を囁く対象が血を流して血に伏せている。そして、それを引き起こしたのもよく見知っている人間だ。
袁紹は乙女を見る。彼女は彼を見るや否や、けたけたと狂ったように笑った。
「袁紹様。私、言いましたよねえ? ずうっとお傍にいたいって。私なんかより、この女が大事だったということ……そうでしょう?」
「だ、だからといってだな……お前は、このように、」
「私をここまで追い詰めたのは、あなたですよ。いや……初めから、私は追い詰められていた。あの日あなたに全てを奪われた日から」
彼女の目には深い闇が広がっていた。
袁紹は今になって、やっと事の重大さに気づいた。あの日、曹操などと花嫁泥棒などをしなければ。袁紹は、こんな時にまで他人に、それも敗戦の屈辱を味わった相手に責任転嫁しようとする自分を嘆かわしく思った。
(20240611)