さよならは言わない
乙女が張遼と共に曹操軍の一員となってからある程度の年月が過ぎた。あの時曹操に降伏したという選択は間違いではなかった。そう思っているのは乙女だけではない。張遼もだ。だが呂布は死んだ。陳宮も死んだ。張遼が今現在、いなくなった二人のことをどう思っているのかは分からない。同僚とはいえ、そのようなことを聞く間柄ではないからだ。

だが乙女は未だに二人のことを忘れることができなかった。そして、あの日から消息を経った呂布の娘、呂玲綺のことも。

父親譲りの武勇を持ち着丈に振る舞う彼女のことを好ましく思っていた。ただでさえ男ばかりの軍であったから、同年代の女性というだけでも乙女は彼女のことから目が離せないと思っていた。

それだけではない。乙女が彼女から目を離すことができないと思うようになったのは、もう一つ大きなきっかけがあった。

二人でとある地を攻めたときのことだった。多勢に無勢といった有様で、ほかにいた仲間たちは次々に倒れていった。援軍が来るという便りだけを目標として、それでも必死になって戦うしかなかった。だが悪天候も重なり、まさに絶体絶命だった。

そのとき、乙女はそれでも諦めずに戦おうとしていた。呂玲綺もそうであるはずだと彼女は思った。だが少しばかり、様子がおかしかった。

戦況が膠着状態となったとき、呂玲綺は誰にも見られないような物陰に隠れて、ひっそりと涙を流していたのだ。

乙女はぎょっとして、思わずその光景に釘付けとなった。その涙は単純に戦を恐れているとか負けてしまうかもしれないという漠然とした不安ではなく、もっと深いなにかがあるように思えてならなかった。乙女の足音が聞こえたのか、呂玲綺はすぐに涙を拭っていつものようにしゃんとして歩き出したから、乙女は急いで、逃げるようにしてその場から立ち去った。

鬼神の娘であっても、あのような姿を見せるものなのか。乙女はそれから、以前にも増して彼女のことを案じるようになった。その戦いは結果として援軍が間に合い辛勝することができた。そのときの呂玲綺はもう涙の欠片すら見えなくて、あの光景は幻だったのかもしれないと乙女は思ってしまった。だかそのことをきっかけに、乙女は彼女をできるだけ、一人にしないようにした。涙など、似合わないと思った。

だが下ヒを最後にして、ついに乙女は呂玲綺と道を違えてしまった。彼女がどうなってしまったのか、生きているのか死んでしまったのかすら分からなかった。

曹操軍として戦うことに不満はない。だが彼らは呂玲綺の消息を乙女に伝えることはなかった。追求してみたこともあったが、そもそも消息を誰も知らないようだった。つまり、呂布や陳宮と異なり、誰も彼女のことを捕縛したり斬首したりをしたということでもないのである。

生きているのだろうか。そうであるならば、曹操や曹操に降った自分たちののことを、恨んでいるのだろうか。

乙女の頭の中にあるのはそれだけだった。いつだって呂玲綺のことを案じていた。仮に恨まれていたのだとしても、それはこちらがとやかく言えることではないのだから、それでも良かった。ただ彼女の姿を見たい。一度だけでもいい。それだけだった。



「乙女殿。知っておられるだろうか」

ある日、張遼は乙女に尋ねた。何のことだろうか。乙女は聞き返すと、張遼は呂玲綺に似た外見の女を見かけたのだという人の話を話し出した。

それは紛れもなく彼女本人であるように乙女は思った。彼女は独りで、盗賊や山賊から民を守っているらしい。それが真実かどうかではなく、まず彼女が生きているのだということを早く知りたかった。

「私、彼女に会いたい」

乙女は張遼にそう言った。彼女が孤独に苦しんではいないか。あの頃のように涙を流していないか。それだけが気がかりだった。

張遼は何かを考え込んでいるような素振りを見せたが、やがて乙女の言葉を承諾した。

もしかすると、乙女が呂玲綺を追ってそのまま野に下ってしまうかもしれないと危惧したのかもしれなかった。

「大丈夫ですよ。私はこの身を曹操殿のために使うのだともう決めていますから。ただあの子にもう一度だけ会いたいのです。私がこう言うのを分かった上で、わざわざ私に伝えたのでしょう。あなたからすると、私に伝えずに黙っていても構わないもの。このようなこと」

「……そうだな。貴公の言うとおりだ。くれぐれも、無理はなされぬように」

張遼は少しだけ笑ってそう言った。きっと彼も、この情報を伝えるかどうか葛藤したはずだ。彼の思いに報いるためにも、自分はここに戻ってくる必要がある。そして、彼女に会いにいく必要がある。乙女は早速支度をして馬に飛び乗った。



白い髪の女が、次々と賊を倒している。そのおかげで治安が良くなったのだと。そんな声を乙女は自らの耳でしっかりと聞いた。やはり呂玲綺なのだ。乙女は彼女がよくいるのだという森の中に足を踏み入れた。

山の奥底に、佇んでいる人がいた。その後ろ姿は紛れもなく彼女だ。乙女は感動で、体が震えてしまいそうになった。

「乙女か」

呂玲綺は、振り返るまでもなくそう言った。

「玲綺」

乙女も彼女の名を呼ぶ。振り返った女はやはり呂玲綺その人だった。

「お前ならば、会いに来てくれると思っていた」

彼女は何も変わっていない、と乙女は思った。やっぱり生きていたんだ。乙女は思わず涙ぐんだ。

「ずっと、玲綺に会いたいと思ってたの」

乙女は彼女に近づく。呂玲綺はその手を取って、愛おしく握った。

「私もだ。……私は、生きていたぞ。父上がそう言ったから」

「呂布様が?」

「父上は、私を逃がしてくれた。生きろと言ってくれた。生きることの意義を、生き残ったことの意味を探すために、私はこうして歩んできた」

呂布も、常に彼女のことを案じていた。

鬼神であっても、人の親なのだ。乙女は今は亡き呂布に、感謝の念を示した。こうして呂玲綺が在るのは、彼のおかげだ。

「お前も、生きている」

「そう。私も生きている。……曹操殿に降ったけれど。あなたからすれば、嫌なことかもしれない」

「いいや。私はお前たちを恨んでなどいない。ただ、お前のことが心配だった。父上たちの仇に仕えるという重圧に耐え切れるのか。私はずっとお前のことを思っていた」

「私はもう大丈夫。けれど、私もよ、玲綺。同じことを思っていた。私、ずっとあなたのことが心配だった」

二人は抱擁しながら、互いの思いを吐露した。肌の温もりは、心をも暖めていくようだった。

「私たちは、互いに要らぬ心配をしていたのかもしれないな」

呂玲綺は笑った。

今の彼女が涙を流す姿など、全く想像できないと乙女は思った。

「でも、どうして今になって……」

乙女は呂玲綺に回していた腕を解いて、しっかりと彼女を見据えた。なぜ今このときになって、彼女は自分の存在を示したのだろうかと思った。

「私は、この中華に縛られない生き方をしようと思う。もっと広い世界をこの目で見たい。生きるということは、自由ということなのだから。だから、別れの挨拶をしたかった」

「そんな、せっかく会えたのに、別れなんて」

「そうではない。私たちは、心で繋がっている。あの日から今までの間、私たちはずっと繋がっていたではないか」

「玲綺……」

姿形が分からなくても。互いを思いやる気持ちさえあれば。

理想論かもしれない。だがそれでも乙女は彼女を信じようと思った。

「それに私は、もうあの頃のように涙を流したりなどしないからな」

「そ、それって……」

呂玲綺は少し困った風にして、眉を下げて笑った。

彼女が涙を流した姿を見たのは、あの時の一回きりだけだ。

「お前、私が気づいていないとでも思ってたのか? お前の気遣いには感謝しているが……」

見られていないと思っていたのに、思い切りばれていたというのか。乙女は少し恥ずかしくなった。自分一人で舞い上がっていたのだ。呂玲綺から目を離さないでおこうと、一人で義務感を感じていたというのか。

「だが、本当に嬉しかった。お前が私と共にいたということ。その全てが。私は独りが嫌いだ。だが、独りであっても、一人ではない。お前はそれを教えてくれた」

乙女はそんな言葉に、はにかんだ。今の呂玲綺ならば、もう案じる必要はなさそうだと思った。



「乙女殿」

乙女が呂玲綺と再開し、そして別れを経てから数日が経った。

張遼が乙女に呼びかける。いくら元々は仲間だったとはいえ、二人は曹操軍の一員であるのだから呂玲綺のことを直接話すのは気が引けるものである。

乙女は張遼の言いたいことを読み取って、精一杯の笑顔を向けた。

「あの子は、大丈夫です。そして、私も」

張遼もずっと乙女と呂玲綺のことを想っていたのだろう。あまりそのような感情を表に出すような男ではないが、かつての仲間を捨て切れるほど情がない男のようには、乙女はどうしても思うことができていなかった。だがそれは間違いではなかったようだ。

「それならば、本当に良かった」

張遼はそれだけしか言わなかったが、その表情は柔らかいものだった。

生きるって素晴らしい。乙女は青空を見上げた。この空の下のどこかに、呂玲綺もいるのだ。何も難しく考える必要など、どこにもありはしないのだ。

(20240701)
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