きかないで、いかないで
背中に伝わるごつごつした木肌の感覚と、胸元に突きつけられる穂先の痛み。胸が上下する度に喉からは掠れた呻きが漏れる。額から垂れるのが血か汗かは定かではない。擦ったように輪郭がぼやける視界と、鼓を叩くように痛む頭のせいで意識も朦朧としてきた。どうやら終わりが近いらしい。

「――何故」

そんな折、穂先を突きつける彼の声が鼓膜に届く。語調は固い。視界がぼやけているため表情は見えないが、声音からしてきっと苦しい顔をしているんだろうことは察した。伊達に友人やってたわけじゃない。

「何故、蜀を裏切ったのだ」

その問いにふっと口角が緩む。彼ならするだろうと思っていた。なんら不思議でない質問だ。しかしこの期に及んでまだ蜀の武将としての一面を貫くとは、わかっていても堪えるものがある。旧友との別れというのに随分寂しい奴だなあ。

「答えろ、乙女」

「……魏に、先を見たから」

「蜀は滅ぶと、そう言いたいのか!」

張り上げた怒号と共に穂先が微かに食い込む。怪我人相手に怒鳴るなよ、頭が痛くなったじゃん。悪化した頭痛に眉根を寄せ、なんとか息を絞り出して痛みを逃がす。口からは息と共に血があふれた。首元が、胸元が血に汚れてしとどに濡れていく。

「――なあ伯約」

字名を呼ぶ。親しい友人を呼ぶ時みたいに。食い込んだ穂先が揺らいで微かに離れる。動揺を感じ取った。国を違えても変わらない友人の気性に、こんな時でも嬉しく感じた。

「私らは負けたんだ。魏に負けたんだよ……」

劉備殿の仁心を受け継いだ諸葛亮先生に感銘を受け、劉禅殿の臣下になった。戦を嫌い、血を嫌い、たとえ暗君との烙印を押された君主であろうとも、自分たちが蜀を率いていけばいいと思っていた。しかし現実はそうはいかなかった。すべてに於いて魏に敵わなかった。気づいた時、国に捧げる命が惜しくなった。だから自分は敵国に降った。気づいた時に、私の中での北伐は終わっていた。

「そんなことはない!今回とて前回より成果を上げた!敵わない相手ではないのだ!なのに何故それがわからないのだ、お前は……っ」

叫ぶ姜維の声はひたすら駄々をこねる子供のようで、それがなんとも悲しく胸に突き刺さる。憐れな奴だとも愚かな奴だとも思い、同じように仕方ない奴だと思った。しかし仕方ない奴だと呆れながら手を貸したあの頃には、もう戻れない。色々あったけど、なんだかんだ楽しかったよ。欲を言えば、もう少し遊び心ってものを覚えてほしかったな。まあ、生真面目がお前さんの取り柄ってやつとも言えるけどね。日頃言いたいことは言う性分だから特別言うことなくて困るね。――ああ、そうだった。忘れてた。

「約束……。守れなくてごめんね」

魏を倒したあかつきに義兄弟の契りを交わすっていう約束してたね。言い出したのは自分なのに、勝手に破ってごめんよ。視界が白く染まっていき、目蓋がゆっくり下りてくる。もう駄目みたいだ。呼吸の間が遠ざかっていき、腕が膝から落ちる。

「…………私を置いていかないでくれ、乙女……っ」

意識が途切れる寸前に聞こえた彼の声は、泣きじゃくる子供が縋るようだった。おいおい、こんな時に寂しがるなんてやめてくれよ。
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