誓う
※くっつくかもしれない世界線

赤壁の戦いが集結してからというものの、乙女の気分は周囲の沸き立ちに対して沈んでいた。

結局のところ、乙女が知る未来と同じ結末を迎えることはなかった。典韋がいて、郭嘉がいる。彼らを失わずにいられたのは、乙女が顛末を知っていたことだと曹操は彼女に告げた。それを防ぐために生み出された策を実行するのは紫鸞の役目だ。

もっとも、乙女がいなかったとしても、紫鸞ならば天命を凌駕するなど容易なことだろうと乙女自身は思ってしまっている。

事実、今も尚紫鸞は曹操に頼りにされ戦い続けているが、乙女のほうはというとそうでもなくなってしまっている。

赤壁の戦いが終わった後、乙女は曹操と直接会う機会もあった。感謝を伝えられると同時に、曹操という男の恐ろしさを再確認した。

近い将来の話だ。曹操に切り捨てられるかもしれないと感じた。これからの未来のことは、何も分からない。用済みであるのと同義であるし、本当に歴史が変わってしまったことによる影響がどこまで広がってしまうのかと思うと怖くなった。

蝶の羽ばたきが竜巻を起こす、なんて言葉があるが、鳳凰の羽ばたきが大災害を起こしているようなものである。そう思うと、次第に夜も眠れなくなるのだった。

眠れないだけならまだしも、近頃はわけの分からない夢を見るようになった。

起きてしまえば何の夢を見ていたのかその記憶は薄れてしまうが、それがよくないものだという認識だけはできていた。

誰かに、何かを尋ねられていた気がする。

乙女はそれとなく、元の時代に戻る日が近づいてきたのかもしれないと思った。

以前紫鸞に対して寝言で「帰りたい」と言ってしまっていた日を思い出す。最近の夢の中でも、「帰る」なんて言葉が出ていたような気もした。全て曖昧ではあるが、そのままにしておくわけにはいけないことには違いなく、夜に眠ることさえ怖くなってしまうのだった。

「乙女」

「あ、……すみません。うとうとしてしまって」

読書をする、ついでにもらった菓子でも食べないか。といった、どちらかというと後者が口実だろうと思われる会合を紫鸞に誘われた乙女だったが、書を読み菓子を食べるどころかうたた寝してしまっていたようだった。

夜に眠れていないという弊害が紫鸞といるときにも出てしまうなんて。乙女は自身に呆れたが、紫鸞はそんな様子を見ても気分を害することもなく、優しげな眼差しで見守っている。

「以前は反対の立場だった」

「そうですね……最近の紫鸞さんは、寝付きも良いって。元化も喜んでましたよ」

「最近は……よく眠れる。乙女は、眠れていないのか」

「うーん……多分、たまたまですよ」

紫鸞の口から直接聞くことはなかったが、元化はよく紫鸞の体調を心配していた。

夜にはうなされることが多く、寝付くことができない。そのせいで少しの時間でも眠ってしまうが、物音に敏感で少し音を立てればたちまち起きてしまうのだという。戦の中で生きてきた彼らしいといえばそうだが、眠りが浅いのは大問題だ。

そんなことを言っていた元化だったが、ある時を境にぱたりとその話は止んだ。

元化は紫鸞の記憶を取り戻す手伝いをしているというし、もしかしたらうなされなくなったというのは記憶を思い出したからだろうか。紫鸞の口からそのようなことを、乙女は一度も聞いたことがない。

最も、言わないから彼のことを信頼できないのではなく、むしろ軽々しく言わないからこそ乙女は彼のことを深く信頼しているのだった。

乙女も変な夢を見た、最近はよく眠れていない、などということを自分から言うつもりはなかった。

紫鸞は曹操軍の要だ。紫鸞から誘ってくれることは単純に嬉しいものの、それ以上の時間を削らせるようなことでもない。

曹操にとってはどちらも自らが勝つ上では大切にしなければいけない駒だった。だが今やもうその役割を乙女は果たし終えたと言っていい。

変に心を寄せられるのも、まだ見ぬ未来のことを思うと受け入れることなんてできない、と乙女は思う。

「……誰もいないから。聞きたいことがある。本当は初めに聞こうかと思った。けれど、できないなと思った」

「どうしてですか」

「聞きたいことを、その答えを、あなたの口から直接聞きたい。……それだけが、会いたかった理由だけではない。二人で過ごす時間が、好きだから。それに水を差すのは、おかしいだろうから」

「紫鸞さんが望むなら、なんでも答えますよ」

そう返したものの、乙女の内心はどぎまぎしている。

紫鸞の言葉は、飾らない。実直で、乙女の胸の中に突き刺さる。妨げるものなど何もない。

乙女は紫鸞のことを信頼しているし、紫鸞もそうであるからこうして二人きりの時間を作っている。

嬉しい言葉だったが、こんなことを言われてしまうと未来のことも相まって萎縮してしまう。

別れの悲しみなど、少ない方がいいに決まっているのだ。初めから出会わなければ、言葉を掛けられなければ、一匙の悲しみを掬う必要もなかった。

「まだ、帰りたいと思うのか」

「……また、鋭いことを」

「あなたがなぜここに留まり続けているのか。どこから来たのかは今もずっと分からないが……そこで学んだ知識を、あなたは買われているのだろう。だから、その対価として大切にされてきた」

「そこまで、知っていたのですか」

「……風が教えてくれた」

「なんですか、それ」

乙女は失笑した。冗談が上手いのか下手なのか。

未来から来たということを知らないのは、最後の良心なのか。しかし、そんな小さな違いはどうだっていいのだ。

「紫鸞さんに優しくされると、帰りたくなくなっちゃいますよ。だって、何となくですけど……私と紫鸞さん。少し似ているから」

「……良かった」

「……良かったですか?」

「以前はあなたが帰りたいと願ったならば、その望みを叶えたいと思っていた。今は……できそうにない。もう誰も失いたくはない。誰が何を言おうとも、あなたを帰したくない」

紫鸞のこのような表情を初めて見た。

紫鸞が秘めているものはなんだろうか。

彼の持つ夜明けを映したような瞳に、底知れぬ炎が垣間見えた気がした。

「ありがとう、紫鸞さん。……私、ここにいてもいいのかなあ」

「自分が守る。だから……ここにいてほしい」

本当のことは互いに言わないままだ。互いの秘めるものは、ぼかされている。それでも良いという思いはあの頃から変わらなかった。

「なんだか、今夜はよく眠れそう。私の夢の中におばけが出てきても、紫鸞さんが助けてくれそうだから」

「あなたが望むなら。いつでも駆けつけよう」

夢の中で帰る方法がある、なんて言われたとしても。

紫鸞の為に自分はここに留まるのだ、と言い切れるように思った。

邪なことを考えずに生きてきたのに、結局親愛の念を抱いてしまっているということは否めない。乙女は慌てて、結局手を付けられていない菓子を頬張った。

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