歩む
乙女は紫鸞に連れられて遠乗りに出かけた。彼と遠乗りに行くのは初めてではない。紫鸞が手綱を操る馬の背に乗ることは、始めは若干の怖さもあったが結局は楽しいという気持ちが勝ったものだった。

普段から紫鸞を始めとする武将たちは、馬と共に行動する。共に戦う仲間だからこそ、その扱いには細心の注意が必要なものだと思っていたから、そんな馬に乗せてもらえるという驚きが乙女にはあった。同時に、そんな大切な存在を共有することを許可される程度には信じられているのだと思うと、誇らしかった。

この時代で過ごす上で不便なことは多かったが、その不便なことを裏返すと出現するのはこの時代だからこそ味わえる楽しみだ。

その楽しみを乙女が享受してきたのは紫鸞のおかげだ。寡黙な男だったが、思いのほか彼は優しい。どこまでもお人好しで、それでいて他者から憎まれることも疎まれることもない程度の実力と人望がある。

誰のどんな頼みであっても、断る姿を見たことがなかった。個の武に優れているだけではなく、書物を読んで学びを深めていることもあったり、優れた洞察力を活かして人を助けていることもある。

助けられているのは自分も同じだな、と乙女は思った。紫鸞は乙女のどんな頼みも聞き入れてくれる。

ただ、有望な将だけではなく、得体の知れない存在である自分にも同じように接してくれることに対する負い目は、確かに感じていた。

なぜそんなに優しくしてくれるのだろうと思う。他の人と同等の対応だとしてもだ。

だがそんな思いも、目の前に広がる景色を見ていると、少しは晴れていく。

自然に親しむ、なんてことを乙女がしたのは遠い日の記憶にしかない。

紫鸞の案内で連れてこられたのは見晴らしのいい丘で、大きな湖が見えた。水は透き通っていて、夕焼けの光が反射して煌めいている。

周囲には誰もいなかった。木々の揺れる音、鳥の鳴き声が聞こえる。

「紫鸞さん」

紫鸞は寡黙で、自分からはあまり話さない。それでも彼を訪ねる人が絶えないくらいに人は彼を離さない。

事実、彼にだから話せるようなことがある。自然に、話したくなってしまう。乙女もそれを強く感じ取っていた。

やっぱり、思い切って聞いてみるべきなのだ。普段紫鸞に無理を言っているときにはそこまで思い当たることもなかった。けれどもこの日は違った。ここで尋ねなければ、今日、たった一度そう思ってしまったことをきっかけにして、これから先いつまでも頭の中に疑念が残り続けるように思った。

「私、何にも持たないし、何にもできないけど。紫鸞さんにいつもこうやって無茶ぶりして……迷惑、じゃないですか」

紫鸞が繋ぎ止めている馬がふいに嘶いた。応援しているのか小馬鹿にしているのか。どちらでも良かったが、何となく感じていた心細さは少し和らいだ。

「……迷惑じゃない」

紫鸞の瞳は、いつ見ても綺麗だ。乙女は何の確証もないのに、こんなに綺麗な瞳を持つこの人ならば、つまらない嘘はつかないだろうと思ってしまった。

答えを知るだけでは満足できない。これはわがままなのだろうか。

「本当に? 私……ふと思っちゃいました。例えば、紫鸞さんが私のことを良く思っていないとして、ここに私を置いていくことだってできちゃうでしょう」

そうなれば、乙女はきっと生き延びることはできない。紫鸞を始め、彼女が誰かと共に行動するということは、その人に命を預けるということと同じだった。

「そんなことはしない。いつでも馬には乗せる。あなたが望むなら、どこまでも連れて行ってみせる」

「どこまでも、ですか」

この世界にいる限り、乙女は自由にはなれない。けれども紫鸞が言う言葉は現実味がなくとも嘘には聞こえなくて、揺れることのない真っ直ぐな眼差しに吸い込まれそうになった。

真実をぶつけられたからといって、これまでの負い目が全て消えるわけではない。けれどもわだかまりはすっと昇華されていく。

どこまでも。途方のない行為であり、非現実的でもあった。

「……あなたが帰りたいと望むのならば、それを助けたい、とも思う」

「え……?」

乙女は思わず、紫鸞を見る目が泳いだ。同時に、誰かに聞かれていたならばどうしようとも感じた。当然誰もいないことは分かっている。誰かがいたとしても、紫鸞の声量では届かない。その上で、乙女は反射的に周囲を見渡した。それ程衝撃的なことだった。

紫鸞はいつものように、既に唇を一文字に結んでいる。やっぱり、嘘を言っているようには見えない。

「言うかどうか、迷っていた。けれども、時折見るあなたの表情が、まるで……それに触れてほしいと言っているように見えた。……以前遠乗りに出かけた帰りだ。あなたはきっと、夢の中で何かを見たから、『帰りたい』と言っていた」

「夢の中……そう、ですか……私、そんなこと」

馬の背に二人で乗る場合は、手網を操る人間が後ろに座るものだと乙女は聞いたことがある。しかし、紫鸞は乙女を後ろに座らせた。いつでも掴まってくれて構わないという紫鸞の言葉もあり、帰りには紫鸞の背に掴まりながら眠ってしまったことがあった。きっと紫鸞は、それのことを言っている。

紫鸞が、他の誰にもない特別な何かを持っているという察しはあった。

この時代を確かに生きていながら、その名は決して歴史に残ることはない。だがその存在は、歴史を大きく動かしている。

その力があるからこそ重宝されているのと同時に、そんな彼に少しだけ親近感を寄せていた。

そこに甘えすぎてしまっていた。あの時の行いは軽率なものだったと乙女は思った。自分から「知られてしまう」ようなことをする必要などどこにもないのだ。

「……あなたがどこで生まれ、何をしてきたのか。分からないことも多い。けれども、あなたとは……何かが似ている、気がする。あなたのことをもっと知りたいと願うのは、おかしいことだろうか」

「おかしくないですよ。私も同じことを思っていますから。でも……私が生まれた場所に辿り着くことは、それこそこの世界に桃源郷を見出すことくらい、難しいことですよ」

乙女は、素直に未来から来たとは結局言えなかった。

言うことができなかったのは、紫鸞にそのことを言ってしまえば、本当に帰る手段を力づくで見つけ出してしまいそうだと思ったからだ。

帰りたいという気持ちが嘘であるとは言えない。それでも、紫鸞が失った記憶を探し求めているように、乙女もこの時代に来た意義を探し求めている。せめてどちらかの謎が解き明かされるまでは、ここにいるべきだと感じた。

風が吹いて、揺れる木々から葉が落ちた。

「付いている」

紫鸞が乙女の肩に付いたままの葉を落とす。彼はそれ以上、乙女自身のことについて何も言わなかった。

何も言わないという優しさが、二人の最も似通っている部分であるとも言える。何も言わなくても、仲間であることには変わりなかった。


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