縛る
曹操

乙女が部屋に戻ると、そこには既に先客がいた。ぎょっとして思わず後ずさりしてしまいそうになるも、男の突き刺さるような目線が災いして大人しく留まった。男は乙女を見ても、瞬きひとつしない。彫刻作品のように、背筋を伸ばして立っている。

「乙女。今日は部屋から出るなと言っていたが」

「だって、ずっと部屋にいても面白くないですよ。紫鸞さんに会いに行っていただけで、変なことなんてしていません。どうせ外に行っても皆さんがいるからいいじゃないですか」

なんでここにいるんですか。とは聞けなかった。愚問だからだ。聞いたところでこの男、曹操が乙女に寄り添うはずはない。そういう人間であるということを知っているのだから、無駄なことをする気にはなれない。

「お前の存在は、我が軍のみが把握しておけばいい。この付近にに使者がやって来るから気をつけよと言いつけておいたが……お前には通用しなかったようだ」

確かに今朝の見張りの人数がやけに多かった、と乙女は思い返す。ただでさえ隠れ家のような場所であるから、存在を察知されることが考えづらいという事情があるにしては、だ。しかし、今日は紫鸞から買い出しの誘いを受けた日だったから、無下にはできなかった。

紫鸞の名前を出せば見張りの男も引き下がったのだが、曹操にとってはそれでもこうして自らが出向くほどには気に食わなかったらしい。

紫鸞のことを高く評価しているにも関わらず、こうして乙女を待ち伏せしているくらいなのだから、余程気分を害したことだろう。

「別に、私のことくらい知られてもいいと思いますけど。何も知らない人からすれば、私はただの女ですよ」

乙女のことを不自然に思う人間は多い。曹操が「拾った」女であるということ。紫鸞や、紫鸞が信頼する元化、また曹操やその他にある程度の力や地位を持っている将と行動する姿がよく目撃されていること。

兵卒が知る乙女という人間の特徴はその程度だ。

曹操に近しい将ですら、乙女の正体を知らない者もいる。

だが察しのいい人間ならば、乙女がただの女ではないと勘づいているだろう。

「私がこうして、ある程度の自由を保証しながらも囲ってはいるのだ。誰がお前の正体を嗅ぎつけにかるか分からぬ。本来ならば檻にでも閉じ込めるべきであると何度思ったことか。お前は私の手が届く内で生きていかねばならない。いや、そうでないとお前は生きていくことはできぬ」

曹操の手によって生かされているのは事実だった。

恩はある。だが、乙女は彼の情ではなく理のみを正しさだとする考えを理解することができないでいる。

人としての心を、どこか遠いところに捨ててきたような人だ、と思った。そうせざるを得ない生き様を送ってきたことを乙女も知っている。

それでも、この人は人として大切にしていかねばならない何かが欠落していると感じる。

自身の目的の為に他者の血を流す。踏み台とする。その責任を負うためには自身が冷血な人間として振る舞うほかない。そうであるから、不器用で歪んだ愛情を抱く。決して素直にはなれず、弱さを見せることもない。

なんと寂しい人だろう。その寂しささえ隠し通す生き様なんて、辞めてしまえばいい。乙女からすれば、曹操という人間と分かり合うことなんて不可能だと思う。

彼がこの先歩む未来を知っているから尚のことそう感じるのだ。乱世の集結を見届けることもないまま命が尽きる。「包み隠さずに全てを言え」と言われたから、乙女は知っていることを残らず話した。その折も曹操は取り乱すことなく、また乙女の言葉を偽りだと糾弾することもなかった。

その様子を見て、この男ならば既に記された未来さえも覆してしまう予感がすると乙女は思ったものだ。恐ろしい人だと改めて感じた。

「可哀想な人」

それでも。寂しい人、恐ろしい人という評価は、彼のことを表す一番初めの言葉としては相応しくないと思った。

曹操は、未だに部屋の扉近くから動けないでいる乙女へ距離を詰める。伸ばされた手は乙女の顎に触れた。薄い体は扉に緩く押さえつけられる。

目と目が合う。互いの唇が触れそうなほど近くにある。乙女は目を逸らさない。逃げ出す気持ちは初めからない。だからと言って全てを奪われるほど弱くもない。

「そんなに、逃げられたくないのですか? ただ未来を知っているだけの、何の力も持たない女に。未来を変える力を持っているわけでもないのに」

曹操は、一切表情を変えない。

昔はきっと、この人だって屈託なく笑っていたのだろうに。

こんな状況の中でも、そんなことを平気で考えてしまう程度には乙女は余裕を保っていた。どうしてかは分からなかったが、曹孟徳という仮面を被ったこの人の内に巣食う、誰にも知られぬ孤独を感じてしまったからなのかもしれない。

「仮に、お前が劉備や孫権の手に渡ると想像しただけで身の毛がよだつ。お前が元の時代に帰ろうものならば血反吐を吐いてでも私の元にお前を連れ戻す。自分から逃げようものならば、今度こそ私はお前から自由を奪うだろう。私だけの女として生き永らえさせてやる」

失うことを極度に恐れているきらいがあるようだった。これまでのことがそうさせてきたのだろう。その性質が強い独占欲となって作用している。「私の為に、ここに留まってくれ。お前の知識が必要だ。他の人間にそのことをかくすためにも」と素直に言うこともできず、力を誇示しちらつかせる。そうでないと己が抱く情を示すことすらできない。

そう考えると。随分と見た目に似合わない幼稚な男だ。

逆に言うと。乙女が連れ去られようものならば。曹操はそこでやっと、感情をむき出しにして乙女を今度こそ仕留めにかかるというわけだ。

こんな女相手に脅し文句を言い、最終手段を実行することは容易いことであると匂わせる。

乙女は曹操に生殺与奪の権を握られているが、同時に曹操の弱みを握っているようなものだった。それがどうにもおかしくて、乙女は思わず笑ってしまいそうになる。

自分の存在が、権力者を支配している。曹操は乙女を縛ろうとしているが、実際のところは彼自身も縛られている。互いの存在は、連理の枝のように機能していると言ってもいい。

「私は絶対に逃げませんよ。……だって、曹操さんのその仮面が剥がれ落ちるところが見てみたいから。きっとそれは、覇道を成し遂げた先にしかないのでしょうけど」

「私の前から逃げぬという覚悟を持つのなら。お前の知らない未来を見せてやろう」

唇が触れた。

こうでもしなければ、曹操は乙女を繋ぎ止めることはできない。

そんな短絡的な思想で繋いだ鎖なんて、すぐに朽ちていくだろう。

そう乙女は考えながらも、曹操の行為を受け入れた。心地がいいとか悪いとか、そんな次元に存在するものではなかった。

屈するしかないのではなく、曹操という人の奥底に眠る子どもじみた孤独を否応なしに読み取れてしまったからだ。受け入れることで、彼の慰めにでもなればいいと思った。

「楽しみにしていますね」

その挑発を受けて、曹操がやっと笑った気がした。

これまでの言動、行動には似つかわしくない柔和な笑みだった。

あまりにもその差は歴然としている。だから、この男が笑ったのではなく、乙女から客観的に見て笑っている気がするだけなのだ、と自分を納得させた。

それでも、気のせいだったとしても。彼が笑うという行為そのものは未だ捨て去っていないことに乙女は安堵した。

この笑みを見ることができたというたったそれだけのことであるというのに。

これまでの全てを、そしてこれから曹操が自分に抱くかもしれない欲を赦してしまいそうになるのは、この男のことをどこかで憐れみ続けているからだろうか、と乙女は思った。
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