見抜く
「あれ」

乙女が目を覚ましたとき、自分がそれまで何をしていたのか、という記憶が曖昧であるということに気づいた。

慌てて寝台から飛び起きると、頭がズキズキと痛む。昨晩、酒を飲みすぎてしまったのだ。紫鸞が酒を水のように飲んでいることに対抗して、つまらないことをしてしまった。元化は言うまでもなく呆れていたはずだ。

だがそれからの記憶があまり残っていない。確か、危険だから送ろうという二人の声を振り切って、乙女自身の足で帰ってきた……と考えるのが自然である。帰ろうとしたときまでの記憶は朧気にあった。

だが、本当だろうか? 乙女の服装に一切乱れはない。水差しには水がきちんと入っている。
ここを出た時はほとんど空の状態だったはずだ。

使用人もいるにはいるが、任せっきりにしてしまうと本当にやることがないので結局乙女自身がほとんど家事を行っているし、今日は周囲を見張る兵士もいなかった。この辺りは曹操のさじ加減が大きく影響しているが、乙女は知る由もない。

とはいえ、全て自分で行ったものだと確信を得ることはできない。気味の悪さを感じつつも、乙女は水を飲み喉を潤した後、眠気と頭痛から逃れるために寝台に逆戻りした。窓からは日が差していたが、起き上がる気にはなれなかった。

次に乙女が目を覚ましたとき。窓から差し込む光は橙色になっていて、乙女はまたもや飛び起きそうになったのだが、それ以上に飛び起きざるを得ないことが目の前で起こっていることに気づいた。

「おはようございます」

「な、なんでいるんですか!? 張コウさん!」

寝台から飛び出し、勢いよく立ち上がって驚愕の声を上げる。頭がぐらりと揺れたが足に力を入れてぐっと堪えた。

これまでにも乙女の部屋に許可なく足を踏み入れる者はいたが(怒っても仕様がないような人ばかりなので、乙女はもう何も言わずにいる)、問題なのはそれが誰であるかである。張コウという人はこういうことはしないだろうという固定観念がどこかであったのだが、それがたった今崩れ落ちた。

「なぜ、と言われましても」

優雅に足を組んで椅子に座っているままの張コウが、目を卓上に遣った。

何を言っているのだ。そう思いつつ乙女は目線の先を追う。

「……なんですか、これ」

そこには書き置きが残されていた。

『明日、改めて訪問します』という文で締められている。

要約すると、今日彼が尋ねてきたことは決して偶然ではなく、この文さえ読んでいればこうして動揺する必要もなかったということである。

乙女は水を飲んだことを除いて、寝台から一歩も動いていない。卓上に残された書き置きに気づくこともなかった。

「あなたが千鳥足で帰っているようでしたので。そのまま放っておくわけにもいかないでしょう。私が介抱して差し上げたのですが、記憶にはないようですね。寝台にあなたを寝かしたのも、水を補充したのも私ですよ」

そうであるとしても、勝手に部屋に上がっていい理由にはならないだろう。乙女は呆れつつも平然としている張コウを見下ろす。普段は首を高く上げて視線を合わせているから、こうして彼を見下すことで不思議な気分になった。

「……それは感謝しますけど。わざわざ、今日もここに来るなんて。なんでですか? 張コウさん、私に興味なんてないと思っていたのに」

「私があなたに興味を持たないと。どうしてそう思われたのです? 私はそこに興味を抱きますよ」

質問を質問で返されるとは。乙女は、この人に建設的な議論を求めるのは間違いかもしれないと思った。

「だって、あんまり人に興味ないのかな、と思っていましたから」

「心外ですね」

薄く微笑む張コウだったが、その眼光の鋭さは萎えることはなかった。

乙女は戦を知らない。彼らが戦場でどのようにして槍を振るい、兵を指揮し、命の駆け引きを自らの手で進めているのかを知らない。

張コウという人間の人となりとして乙女が知っている最大のものは、戦の中において強烈な美学を重んじているらしい、というものだ。

人を動かすことや戦い方に興味を強く示す一方で、その人自身の抱く心情や理想そのものにはあまり興味がないのだろうと乙女は思っていた。

張コウに特別人間味がないと言っているわけではなく、そのような傾向はこの時代に生きる人なら多少は皆持っているものなのかもしれない。

仕える人間を違えることも、かつての仲間と敵対することも、この時代ならば何もおかしいことではない。

それでも、張コウは人一倍、戦場での在り方を、そして戦うことでしか得ることができない愉悦、高揚感というものを大切にしている人なのだろうと薄々感じている。その感覚は、乙女が一生分からないものだ。

「それで、どうしてわざわざ部屋の中まで来たのですか。いくら非番だとしても、こんなことまで」

「あなたを助けたことを口実にして、あなたのことをもっと深くまで知りたいと思った次第です。私が知らない、あなたに秘められたものを」

礼はそれで十分です。

なんとも強引で、迷惑な話でもある。悪趣味であるとも言える。

だが、歯が浮くような告白じみた台詞でも、この人が言うと何でもないような言葉に聞こえた。

実際、本当に言葉通りの意味でしかないのだろう。非力な女を、下心もなく介抱し、目覚めるまで何もせずただ傍にいただけの男だ。

乙女は、そんな張コウと目を合わし続けることに耐えられなくなって寝台に腰を下ろした。

張コウが、乙女の出自を打ち明けるに値する人間であるかどうか、今までの積み重ね、そして今現在の状況を併せ持った上でも判断するには至れなかったからだ、ということもある。

「……あなたが知っていること以上のことなんて、何もないと思いますよ」

無意識に、乙女は警戒を強めた。

もし乙女が未来から来た人間であることが張コウに都合の悪いものだったとして、それ自体は乙女の存在を脅かすものには繋がらないだろう。

だがそれでも、乙女にとっては感謝はすれど自ら助けを求めたわけでもない行為でここまでの対価を求められるものだとは思ってもみなかったし、そこまでの礼を返すほどの価値があるとはやはり考え難かった。

「私が知っているあなたは、静謐の美を備えているように思います。必要以上のことは無理に発言せず、身近な人間であっても全てを打ち明けることは滅多にしない。……違いますか?」

「……違わない、ですけど」

「敵を欺くには味方から、とも言いますから。戦場の中にあってもそう珍しくないことです。何かを隠し通すということにはそれ相応の真価がある」

「私が隠していることを、あなたに話す確証はありません。私、ただでさえ変な噂を流されることも多いのに。疑い深くなるのは当たり前です」

曹操に大切にされているというだけで良からぬ噂を吹聴する者もいる。挙句の果てには人間ですらないのではと嘯く者もいた。

乙女の正体について知る者は少ないが、この時代の人々にとって異質な存在であるという気配は容易に読み取られているということだ。乙女が警戒するのは当然だろう。

「中々手厳しい。……ですが、今の問答でよく分かりました。ある程度の答えを得ることができた。それだけで目的はほぼ果たされたと言ってもいいでしょう」

乙女が、張コウの婉曲的な表現に苛立ってきた頃だった。これだけの会話でなにが掴めるというのだろう。そんな乙女の態度に気を悪くすることもなく、張コウはやはり微笑を浮かべたままだ。

自分だけはこうして苛立っているというのに、対する相手は余裕を保ったままという現実に、さらに乙女は業を煮やしそうになった。

「私は、今のあなたに全てをさらけ出せと言えるような、下品で低劣な感性を持ち合わせてはいませんよ。秘められた輝きこそが、あなたの魅力と言えるでしょう。……これで十分だと言いたいところですが、いっそうあなたに興味を抱いてしまいました」

「もう、勝手にしてください。あなたがそんなに変な人だって今までは思ってなかったのに」

「いつか、あなたが笑顔でその秘密を明かしてくれることを期待していますよ。……寝顔も大変、可愛らしいものでしたし。あのように油断したあなたを見ることはできるのは僥倖というもの」

「私の寝顔の話なんて、しなくていいですから! 恥ずかしくなるようなこと言わないでください!」

「酔っているあなたはなりふり構わず縋りついてきましたよ。どちらのあなたも可愛らしい。……まあ、今日のところは深追いしません。あなたが自分から、私に心を許した上で話すということが重要ですから。無理に引き出したいわけではありませんからね」

それでは、またお会いしましょう。

それまで微動だにせず姿勢を崩さなかった張コウは、そんな捨て台詞を吐いてから早足で部屋を出ていくのだった。

隠している秘密どころか、無防備な姿を思い切り見られている。改めて突き付けられた現実に、乙女は赤面した。大体、こんな男にこれではどちらが本当に守りたい秘密なのか分からない。

最後に何か言い返してやりたいという乙女の気持ちとは裏腹に、張コウの歩幅は思いのほか大きく追いつくことができなかった。

「張コウさんの馬鹿!」

絶対に、未来から来たなんて言うものか。そんな乙女とは裏腹に、張コウは後ろから降ってくる怒号をいなすように手を上げるだけだった。

張コウという男に対する心象が、良くも悪くも変化してしまったのは言うまでもない。
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