変わる
郭嘉
一人で城下を歩きたい。そう以前夏侯惇に向かって漏らせば、呆れられながらもしっかりと説教された。
夏侯淵に言えば、苦笑いされながら宥められた。
曹操には、始めから言わなかった。言ったところで、取り合ってもらえないのは明らかである。
乙女からすれば、それでもいい加減一人で出歩きたいという気持ちが消えることはない。
確かに乙女は戦う術を持たないし、何かあった時にツケを払うことになるのは乙女の身を誰よりも案じ、失うことを恐れている曹操だ。夏侯惇からも夏侯淵からも、せめて紫鸞がいるときにしろ、と何度も言われ続けてはいる。
が、とうとう我慢できなくなって、乙女は城下を歩いていた。
近頃は誰とも会わず、部屋に籠って押し付けられた針仕事に勤しんでいた(これも不必要に出歩かせないための策に違いないと乙女は考えている)から、外の空気がいつもにも増して美味しく感じた。市井の人々の暮らしに直接触れることができる。今の乙女にとっては貴重だった。
だが、その自由な時間もあっという間に遮られることになる。
「おや。一人で出歩くとは曹操殿が黙っていられなくなりそうだ」
「……最悪」
「奇遇、といったところかな。こうなれば、私に着いてくることが身のためだと思うけれど」
「せっかく一人で、やっと来たのに。……これじゃ意味がありませんよ!」
「何かあっても、私が守ってあげるというのに」
「私はそんな言葉を掛けられても嬉しくないですよ。郭嘉さんはどちらかというと守られる側じゃないですか。皆その頭の良さを買ってるのに。何かあったら皆さんに顔向けできません」
「こう見えて、私は剣術に自信がある。あなたにも見せてあげたいものだね」
綺麗な宝石や装飾品が並べられている店先にいたのは郭嘉だった。乙女は彼を見た瞬間に冷や汗を書いたが、郭嘉は一見人の良さそうな笑みを浮かべているだけだ。
だがここで逃げればどうなるのか。どう考えても郭嘉はこのことを言いふらすだろう。大人しく従うしかないに決まっているのだ。実際、郭嘉からは無言の圧が見えた気がした。彼を躱すような策が思いつくわけでもないし、話術で郭嘉に勝てるはずもない。
とはいえ。通常ならば郭嘉の言動も行動もひたすら癪に障るものだったが、そうも言ってはいられない現実がある。
乙女の知る未来がそっくりそのままこの世界でも訪れるのならば、こうして互いに軽口を叩くことすらもできなくなってしまう。
それを知っていても中々素直になれないのが、乙女の正直な気持ちだった。
郭嘉がこの先、命を落とすということは既に知っている。それでも彼が簡単にそんな運命を辿るとは思えなかった。現実に存在する人として接すれば接するほど、簡単にいなくなってしまうという未来を信じられなくなった。
曹操には、全てを話し終えている。
曹操は、自らにとって不利となる状況がこの先訪れると知ってなお、眉ひとつ動かさなかった。何よりも理を重視する彼が乙女の言う非現実的な言動を信じるのも、全くもって虫のいい話である。
虫が良すぎる、有り得ない話だからこそ本当に未来が変わってしまうかもしれないとも思った。少なくとも曹操が乙女の言葉を受け入れたその時点で、元ある歴史の一地点が塗り替えられている。本来持つべきものではない希望が、確かにあった。
そんな状況の中、変に郭嘉を気遣ってしまうのもまた違うような気がした。無理に取り繕って怪訝に思われたくはないし、このように尖った態度を取ったからといって郭嘉が引き下がるわけでもない。
「良い機会だし、あなたに似合うものを贈ろう」
「いらないです、こんな高そうなもの。郭嘉さん色んな女の人と仲が良いんでしょう。私じゃなくてもいいじゃないですか」
「そう言わずに。これも縁だからね」
半ば押し付けられる形で郭嘉が乙女に渡したのは髪飾りだった。見るからに高級品で、乙女がこの世界に平凡に生まれていたなら手も足も出ないようなものだと一目で分かる。
「私の形見だと思ってくれてもいいかな」
「やめてくださいよ。縁起でもない」
乙女の胸が、どきりと震えた。
乙女から見る郭嘉の表情はいつもと変わらない。顔色も悪くないし、重い病を患っているようにも見えない。しかし、この発言を受けてしまうと、「そういうこと」が間近に迫っていると解釈できてしまう。
郭嘉は「冗談だ」と言ってはいるものの、冗談に聞こえるはずもなかった。
「親しい人の形見のように、大事にしてくれたらなら嬉しいな」
「普通に、大切にしてくれたらいいって。そう言ってくださいよ。……そんなに、言わなくても……大事にするのは、当たり前じゃないですか」
「まあ、あなたならそう言ってくれると思っていたけどね」
猫は死に際、飼い主の目が届かないところに隠れてしまうと乙女は聞いたことがある。
郭嘉は紛れもなく人間だ。それでも。こんな会話をしていると、彼はまるで猫のように、苦しむ姿を見せないままどこかに行ってしまいそうだと思った。
「次に郭嘉さんとお出かけするまで、使わないで取っておこうかなあ」
「さっきまでつれない態度だったのに。もう次の約束を取り付けてくれるのかい」
「私だって、たまにはそういうときもありますよ」
せっかくの髪飾りを、感傷に浸るためのものにはしたくなかった。約束をすることで、「次」が訪れてくれるような気がした。
未来を知っている自分がここにやってきたということにも、道理があるはずなのだ。
乙女はそう思って、できるだけ近い未来、再び郭嘉と並び立って歩く日が訪れることを願うのみだった。
それから日が経って、乙女の知っている通りに郭嘉は出陣した。
乙女にとって曹操は苦手な部類に入っている人間ではあるが、出陣間際で慌ただしくしているだろうに彼は直接乙女の元にやってきた。
「案ずるな。お前は何も考えなくともよい」
「珍しく優しいですね。曹操さん」
「お前がそのような顔をしているからだ。お前は私に噛み付くくらいが丁度いい。この地にいる限りならばな」
そんなに気を落としていたつもりはなかったが、実際のところはそうでもなかったらしい。
暗に、乙女が曹操の元から離れようものならば何をしでかすか分からないということを仄めかされてはいるものの、結局彼の言葉に平常心を取り戻すきっかけを与えられてしまった。
曹操の言葉は、言葉以上の力があるように感じられたのだ。
乙女はそれでも落ち着かない日々を送り続けていた。
人の目を掻い潜ってまで無理に出かける気分にはなれなかったし、郭嘉から貰った髪飾りを付ける余裕も、やはりなかった。
そんな中で、乙女は曹操たちが帰還したと使用人から聞いた。使用人とは最低限の会話しか普段はしない。誰も説明をしていないのが悪いのだが、単に曹操が大切にしている人だということくらいしか乙女は知られていない。変に手出しをして曹操の機嫌を損ねることを恐れているのかもしれない。だが連日の乙女を察してか、慌てて「郭嘉も息災である」という情報を付け足した。乙女の歓喜は言うまでもない。
最も、戦いを終えた後の処理に加え、郭嘉の立場も大きく変わったということで、暫くは自分から郭嘉の元に行くということはどうにもやりにくいようだった。
だが、それからの乙女はずっと、日をまたいでも絶えず気分が良かった。久しぶりに出かけようと思って、乙女は髪飾りを身につけずに懐に大切にしまってから外に出た。不思議なことに、郭嘉と会えるような気がしたのだ。
戦いの空気を微塵も感じることなどない街の空気。乙女が知っているこの時代の風景は、それだけだった。
「……乙女殿。今日も一人とは、感心しないね」
郭嘉は、以前髪飾りを買ったあの店先にいた。
偶然にしてはあまりにも出来すぎている。偶然でも必然でも、そんなことは今の乙女にとって瑣末にすぎないものだ。
「郭嘉さん! あの、私、今日ここにいたら会える気がしたんです。郭嘉さん……」
なんだか泣いてしまいそうだ。
そんな乙女を見て、郭嘉はくすくすと笑う。自分は全くの部外者だ、とでも言うように。何をそんなにムキになっているのだ、とからかうように。
普段の乙女だったらそんな彼にも間髪入れず言い返していたのだが、そんな気にもなれなくて、ひたすらしおらしくなってしまった。
こんな時にそんなつれない態度を取る郭嘉は、やっぱり本物だ。幻覚でもなんでもなくて。それでこそ郭嘉という人だ。そう考えるといよいよ乙女は堪えきれなくなったが、郭嘉はそんな乙女を人目に晒さないようにして路地裏へと誘導する。
乙女はずっと、郭嘉の腕にしがみついていた。肌の温もりが、布を通して伝わってくる。
「生きているんだ、郭嘉さんが、ちゃんと」
ああ、言ってしまった。ずっと声に出しちゃダメだと思ってたのに。これじゃあ、余計に怪しまれるじゃないか。ただでさえ動揺しているのに。
乙女の脳裏では、そんなどうしようもない呟きが駆け巡る。本当に声に出したのは、郭嘉への熱烈な思いだけだった。
「あなたは、よく頑張ったよ。ずっと一人で抱えてきたのだから。誰も知らない、未知の世界のことを。でももう、私のことを思って悲しむ必要なんてない。私はここで、息を吸って、地に足をつけて、生きている」
「……知っていたの、ですか」
「全てが終わったあと、曹操殿が教えてくれた。私の指示に対して皆が迅速に行動してくれたのも、曹操殿のおかげだ。帰還したら、あなたに顔を見せてこい、とも仰られていた。あなたには、私の隠していた秘密を見破られていたようだったから。この世でいっとう、私の身を案じていたのがあなただったから」
「……曹操さんが」
「あなたが知る未来と同じことが起こるなんて、そんな人生、楽しくないだろう? 曹操殿と私は、同じ考えだった。一度きりのこの人生、存分に楽しまないとね。あなたにだって、退屈は与えないつもりなのだから。そのためにもあなたには、私たちの元にいてくれないといけない」
運命は、確かに変化している。
自分がいることで、そうなったのだろうか。
答えはない。探そうと思っても見つからないものだ。
元々、答えなんてないのかもしれない。
乙女の目から滲む涙を、郭嘉は指を伸ばして拭う。
「あの時の髪飾りは、気に入ってくれたかな」
「勿論、持っています」
慌てて懐から髪飾りを取り出す。保管している間も丁寧に扱われていたそれは、未だ輝きを放っている。
「うん、とてもいい」
乙女が身につけた髪飾りを見て、郭嘉は満足気だった。
乙女も、郭嘉の笑みにつられて微笑んだ。
人目につかない路地裏での出来事だった。華やかさとは無縁の場所だ。それでも乙女には確かに、薔薇色に見えた。