隠す
元化
あ、と声を出したときにはもう遅かった。中々懐かない飼い猫が乙女の腕を引っ掻く。みるみるうちに赤く腫れ、痛みが襲う。

初めてのことではなかったから放っておいたのだが。たまたま外にいた際、真っ先にその傷に気づいたのが元化だった。その性分からだろう、少しの怪我にも彼は口うるさい。現代とは衛生観念も技術も何もかもが異なるものであるから大人しく従うほかないのだが、それでも見つかると厄介だった。乙女は元化が駆け寄る前にさっさと逃げ出そうとするが、戦に出るような人間はおろか、農作業に勤しむ民にも劣る身体能力しか持ち合わせていないため呆気なく捕まった。

曹操や紫鸞たちの把握できるような範囲内でのみ出歩いているものの、自由であるというわけにはいかないから余計に体力が付かない。だから免疫力が低下しているのだと以前元化が言っていたことを思い出した。その頃の乙女はよく熱を出していたのだが、単純に現代とこの時代の風土の違いというものに体が慣れていなかったという一因もあるかもしれない。

ともかく、元化には世話になっている。捕まってしまったのは癪だったが、彼を振り切って駆けるほどでもなかった。幼い少年(であるように乙女は見える) に世話になり続けるということが、少しだけ恥ずかしいのだという小さな自尊心だけが残り続けている。

「乙女殿。腕、見せてください」

「……どうぞ」

今日は随分と素直ですね。と元化が笑う。

少年らしい笑顔だ。本当にこの少年が、膨大な医学の知識を備えているとは到底思えない。

「また引っかかれたのですか。……何もせずに放置していたでしょう」

「だって、面倒だったから」

「大したことがないと思っていても、それが死を呼び込むことだってありますから。気をつけてください」

「痛っ」

消毒も、薬も染みる。乙女はやっぱり振り払ったほうが良かったかもしれないと思った。

「相変わらず、懐かれていないのですか」

「そうみたい。でも、朝起きたときも、お昼ご飯を食べているときも、夜寝ているときも一人じゃないのは嬉しい。紫鸞さんも元化もすぐに出かけちゃうから、あんまり会えないでしょ。たまたま会ったときしかお話できないし。もっと会えたらいいんだけど」

「……そこまで俺のことを買ってくれるなら、傷もすぐに見せてください。そういうときは全然来てくれないのに」

猫は、紫鸞が見つけた。それはぼろぼろの野良猫で、元化が治療していなければきっと助かっていなかっただろう。

忙しなく任務に携わる紫鸞は、猫を飼うような余裕はない。そこで元化は、以前乙女が一緒に暮らす人が欲しいと言っていたのを思い出した。人ではないが、寂しさを慰めることには繋がるだろうと考えたのである。

乙女は当然ながら喜んだ。全く懐かれてはいないのだが、そうであっても隣にいる存在というだけで心強いものだ。

「でも、だからといって私がすぐに怪我ばっかりしていたら、嫌でしょう?」

「まあ、それはそうですけど……大きな傷でもあれば、気が気じゃありません」

「あはは、私を心配してくれるの」

「当たり前ですよ。……医者の地位はまだまだ低いし、俺のことをよく思っていない人だっています。あなたみたいに、強引にご飯を食べようと誘ってきたり、かと思えば脱兎のように逃げ出したり……そんな友人は、貴重ですから」

まさか、元化からそんな言葉が聞けるとは。

乙女と元化の交流は、まさに元化が述べた通りである。

乙女からすれば、元化は曹操たちに付き従う人間の中で一番話しかけやすい。加えて、あどけなさを残す顔つきと敬語を使われているのだという自負が影響して、一番気を遣わずに隣にいることができる唯一の人間だと言ってよかった。

だからこそ、元化にはここに留まってほしくないという思いも同時にあった。

「じゃあ、私がいなくなったら寂しい? 例えば、私が劉備さんのところに行っちゃうとか」

「……そう、ですね。……兵でも民でも……俺は様々な人が死にゆく場を見届けてきましたが。生きているかすら分からないくらい遠くに離れてしまうのも、寂しいことに違いありませんね。あなたのことは……そう思っても、いいでしょう。せっかくの友人、なのですから」

「そっか。私も元化に会えない日は寂しいけど、ずっと会えなかったら寂しいどころじゃないかも」

「本当に……今日は素直すぎませんか? 俺が言えたことじゃありませんけど」

「そうかなあ」

元化の言う通りだった。乙女は表情には一切出さずに思う。

こうして話している分には、元化は見た目通りの少年にしか見えない。

この少年に待ち受ける末路を、乙女は知っている。それはあまりにも惨い。この少年にとって、それが定められた運命であると知っていても認められるものではない。

元化という人間に、そのような重荷を背負わせたくはない。だが同時に、乙女が全てを打ち明ける代わりに負わなければならない責任を背負うことができるとも思えなかった。

元化にとっての“敵” は、紫鸞にとっても、乙女にとっても身近で、大きな存在だからだ。

「じゃあ、元化はさ。今だって色々なところに行ってるけれど、今は紫鸞さんに付き従ってるわけでしょう。紫鸞さん……というよりは、曹操さんから離れようとは思わない?」

たまたま周囲に誰もいないから言えることだ。紫鸞はおろか、曹操旗下の将の前でも、こんなことは言えない。

乙女は曹操たちの庇護下でないと生きることができない。不用意な発言は、例え誰もいない場所でも普段ならばしない。それでも、元化の前ならばできる。

普段元化に小言を投げかけられるのを避けるために逃げるのは一種の照れ隠しのようなものであるし、機会があれば共にご飯を食べるのは心を開いている証拠だ。

自分自身が自由に羽ばたける存在であれば、元化をここから解放してあげたいとさえ思う。それが寧ろ、元化を縛り付けることになろうとも。

「紫鸞殿が見出した英雄こそが、曹操殿ですから。……俺は会う機会なんて全然ないんですけどね。紫鸞殿がここにいる限り、俺はいつでも紫鸞殿が帰る場所に帰ってきますよ」

「……そうだよね」

でも、“その時”が来れば、元化の事連れ去っちゃうかも。乙女が呟いた言葉に元化は疑問符を浮かべる。説明を求める元化の言葉を無視して乙女は逃げ出した。後ろから元化が抗議する声が聞こえる。腕の痛みはとっくに収まっている。
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