In Bottles
真剣な顔をして書簡に何かを書いている夏侯惇を、乙女はじっと見つめていた。やることがないものだから、基本的に乙女は夏侯惇の後ろをついて回っている。鍛錬の様子を見るのもそろそろ飽きたと思ってはいたのだが、こうして静かに作業をしている風景をただ傍観しているだけというのもあまり面白いものではない。窓の外を見れば、風が強いのか木の葉が大きく揺れていた。
やたら彼について回るのは迷惑だと叱られてしまうかもしれないと考えていたが、夏侯惇は存外優しかった。乙女に対して特別扱いをしているようには見えない。優しいというよりは無関心であるというほうが正しいのかもしれない。
だがそれでもいいと乙女は思う。この世界で異物でしかない乙女を救ってくれたのは夏侯惇だったし、彼の傍にいることが許されるのであれば、それだけで十分なのだ。とはいえ、本当に無関心であるのだとしたらそれはそれで悲しいものであるとしか言いようがない。養ってもらっている分際で贅沢な、矛盾しているではないかと思われてしまうかもしれないが、それほどこの地では夏侯惇を頼ることしか生きていられない。だから、仕方がないことなのだと乙女は考えている。
現代では当たり前だった服装をしたままわけも分からず立ち尽くしていたところ、不審な女だと詰め寄ってきた兵から守ってくれたということが夏侯惇との出会いだった。その場で切り捨てられたとしても何らおかしくはなかった。だがどうしてか彼は見ず知らずの女である乙女を連れて帰り、自らの邸に留め置いたのだった。最も、邸に連れ帰ったというだけで存在を秘匿するような器用な真似を夏候惇はしていなかったということもあり、結局夏侯惇はおろか乙女自身も多くの人から怒涛の質問攻めに遭ってしまったわけだが、特に二人は咎められることもなくここにいる。
一時期夏侯惇は面妖な女を囲っている、嫁にするわけでもないのに奇妙なことだという噂が広がっていて乙女は震えあがったものだが、そんな話も気づけば誰もしなくなっていた。夏侯惇がそれを禁じたという線もあるが、曹操が一計を案じたのだろうと乙女は直接聞いたわけでもないのに勝手に納得している。詳しいことは乙女の知る由ではないが、夏侯惇の人脈、影響力は思いのほか大きいのだということは分かった。
分かっているからこそこれ以上のわがままは言えない。既に以前からわがままのようなもので執務をしている彼の傍に何かをするわけでもなく佇んでいるわけだ。自分がいるせいで、要らぬ手間を夏侯惇に強いることになっているのは明らかである。
と心の中では思っている。しかし、実際のところはというと、自分の口というものは想像以上に素直に動いてしまうものである。
「夏侯惇殿の髪って、綺麗ですよね」
乙女のそんな言葉に、夏侯惇は顔を上げて彼女のほうを見た。何をくだらぬことを言っている。……と彼が直接口に出したわけではないが、きっとそんなことを思っているのだろうということは乙女にもすぐに分かった。呆れたと言わんばかりに顔を歪めている夏侯惇を見て、何だか乙女は笑い出してしまいそうになった。
それもそうだ。以前にも似たようなことを言ったことがある。今日のように風が強い日だった。暇で暇で仕方がなかったから、見ていてもさっぱりだと思いつつも乙女は夏侯惇が鍛錬と評して兵たちと打ち合っているのを眺めていた。
夏侯惇の髪は、随分と長い。女の身である乙女から見ても、文明の利器が発達していないこの時代にあそこまで綺麗な髪質を保っているのは純粋に凄いと思った。加えて、体を大きく振りかぶってもその長い髪は視界を妨げることには繋がっていないのだということに気づいた。きっと香油か何かを塗り込んでいるからだろうとは思ったが、それでも嘆息せざるを得ない。事実、乙女の髪は風に煽られ悲惨なことになっていた。そこで乙女は「髪、どうやったらそんなに綺麗になるんですか」と鍛錬終わりでもなお休むことなく慌ただしくしている夏侯惇に尋ねたのだった。大した答えは返ってこなかったが、元から大それた回答を求めているということでもなかったので、特に話がそれ以上広がることもなく会話は終わった。
その時とは少しばかり異なる状況ではあるが、同じような表情を夏侯惇は浮かべていた。特に美意識が高いという風には見られないし、戦うときの妨げにならないように最低限の努力をしているだけ。というように乙女は思っていたが、なぜだかそれも少し違うような気がした。
それを踏まえて再び乙女は尋ねた。髪が綺麗なことを褒めることは二度目で、これといった目新しさもない。彼女のほうから何かを言わなければここで会話は途切れてしまうだろう。実際に乙女はそれ以上何も言わなかったので、夏侯惇は「……それだけか?」とだけ言って再び書簡に目を落とした。
実のところをいうとそれだけではなかった。言っていいものなのかと、珍しく乙女は逡巡する。ただでさえ呆れられているのだから、もっと変な顔をされるかもしれない。それだけならまだいいほうで、俗な言い方をすると、いわゆる「ドン引き」をされてしまうかもしれなかった。この時代の人間にそのような言い方が通じるはずはないだろうが、行為自体は起こりうるはずである。夏侯惇から関心を向けられていないだけならまだしも嫌われてしまってはいよいよ立つ瀬もない。しかし、言って後悔するかと問われたならば、しないと言える自信があった。
「その綺麗な髪、少しだけでいいんです。くれませんか」
夏侯惇の手が止まる。手が止まったほかには何も変化はなく、沈黙が訪れた。ちらりと乙女が横目で外を見るといつの間にか風は止んでいて、本当に時が止まったような気がした。言い回しが絶妙に気味の悪さを生み出していることは明らかでどっと冷や汗が吹き出そうになるが、言ってしまったものはもう取り返しがつくはずもない。耐えかねて乙女は何と言おうかまとまらぬうちに場を取り繕うとした。が、その沈黙は他でもない夏侯惇によって破られた。
「馬鹿なのか、お前は」
やっと顔を上げたかと思うと、これである。おまけにため息も一つ。夏侯惇の反応は大方予想通りだが、取り返しがつかないほど機嫌を損ねたというほどでもなかったようで、乙女はどぎまぎしながらもまだ平静を保つことができた。
「確かに、馬鹿、ですけど。ちゃんと理由もありますから、ね」
本当の理由から入るのも気恥ずかしいものだったからああいう言い方になってしまったのが、だからといって過程をすっ飛ばして本題に入るというものは、もっと恥ずかしいものだった。夏侯惇は相変わらず、乙女の言っていることの意味が理解できないと言いたげな表情をしている。
「その、ですね。私、いつ帰ることになるのかとか、全く分かりませんから。もし私が帰ったとき、夏侯惇殿の髪を見れば一緒にいたことを思い出せるかなって思ったんです。お守りのようなものというか」
「……俺がそれに応じるとでも思ったのか。……人にはやれんぞ、これは」
「……そうですよね。すみません、急に変なこと言って」
本当の理由を先に言ったとして、気持ちが悪いものであるということには変わりはないだろう。実際、乙女も誰かにお前の髪が欲しいと言われたならば気味が悪くて仕方がないと思うし、夏侯惇の反応もごく当たり前のことなのだ。よく分からないまじないに髪を使うという事例もあるし、それがたとえ髪の持ち主に危害を与えないものだったとしても、受け入れ難いものだ。
勿論、乙女に夏侯惇を呪ってやろうなどという思惑は全くない。髪の毛が欲しいという不穏な方向に転びそうな願いではあるが、目的は純粋なものだった。
いつ元の世界に戻ることができるのか分からないが、あるべき場所に帰ることが正しいことなのだとは分かっている。しかし、この世界で過ごしたことが幻となってしまうのはどうしても嫌だった。思い出は心の中に残るとしても、その証がなければ……いつかここで過ごしたことは、一時の夢だったのではないかと感じてしまうかもしれない。
夏侯惇は別にお金に困っているような人間ではないだろうが、彼のほうから何かを贈ってもらうならまだしも、自分から証となるような何かを強請ることはやはりできない。
それならば、と考えて思いついたのが彼の髪だったという話ではあるのだが、上手くいくと思う方が間違いなのだ。
夏侯惇を見ると、彼はそれ以上乙女を責めることもせずに再び書簡に筆を走らせていた。その後も彼はいつもと変わらぬ態度で乙女に接していたから、断られたとはいえ嫌われてはいないということに安心してこの世界における日常を過ごした。
この世界の理がどうなっているのか。知識を得る手段がないため全てが曖昧なままだったが、乙女は夏侯惇の許す範囲で行動する中で知ったことがあった。
結局、噂の領域にしか過ぎないことであるから本当のことは分からない。しかし、噂として広がっている以上、多少は根拠としてふさわしいものなのだろう。
その噂というものが、夏侯惇の左目に関する話だった。片目を隠しているのはおそらく戦で負傷したからだろうとは、武人である彼の境遇を考えれば乙女も分かる。しかし重要なのはここからで、彼は左目に刺さった矢を目ごと引き抜いた時、その目玉を食らったのだという。
親から授かったものだからと。大切な体を粗末にすることなどできぬと。そういった理由で自分の目を飲み込み、再び体の一部とした。
これを噂していた人間は畏怖の気持ちと尊敬の気持ち、両方が混じりあっていたように思う。面白半分のつもり、からかいのつもりで吹聴する輩もいた。つまり、夏侯惇のしたことはどれだけ戦場という乙女から見れば異質な空間であっても異常な行動なのだろう。それが本当であるかは分からない。けれども、本当であったとしても夏侯惇のことを気味が悪く思うことになど繋がらない。兵士たちがどう思っているのかは知らないが、戦場で人を殺すことが正当化されているだけで十分異常なのだから、乙女にとっては気にするまでもなかった。
自分の体を大切にすることそのものはであるが、夏侯惇のその話が本当なのだとしたら、相当意識が高いということは明らかだ。乙女もこのような場所と時代であるから自分の体を大切にしているつもりではあるが、それでも夏侯惇のそれは常軌を逸脱していると思う。それが良いことなのか悪いことなのかは分からなかったが。
と、ここまで考えたところで、ふとあることが浮かんだ。
髪である。髪が長い人間は多いようだが、夏侯惇のように束ねず下ろしたまま髪質を保っている男性というものは、そう多くない気がした。どれほどの間切っていないのだろうか、という微かな疑問を持っていたものだが、自分の体を大切にするがあまり目玉を食べてしまうような人間であるとしたら、髪を切ることも惜しく感じるのではないか。
合点がいった。普通の人間であっても髪を与えるなどそう簡単に受け入れることはできないだろうが、彼の場合なら尚更なはずだ。
これならば仕方がない。元から諦めていたものだが、こういった推測が的外れではなかったのだとすると、もっと正式に謝ったほうがよいではないのかという気がする。夏侯惇は特にあの後からも普段通りのままだったが、彼の中に確立している大切ななにかに土足で踏み込んだようなものだ。
謝らなければ気が済まなくなってきた。乙女はそう思っていたのだが、その日夏侯惇を初めて見た乙女は仰天した。
「ちょっと、夏侯惇殿! 一体どうしちゃったんですか」
「いきなり大声を出すな。……どうしたもこうしたもない」
「だって、髪! あんなに綺麗に伸ばしたのに、どうして切ってしまったのですか!」
長い髪が短く切り揃えられていた。髪を大事にしている理由をあれこれ考えていた矢先の出来事だったから、驚愕と困惑が収まらない。
もしや、先の発言があまりにも気に障ったのだろうか。恐る恐る上目で乙女が見た夏侯惇はいつものように呆れた顔をしていた。
「こうすれば、お前は俺の髪を欲しがるなどという奇行に走ることはないだろう」
「私があんなことを言ったから、そんな、」
自分の軽はずみな発言のせいだ。責任を取る、とは具体的に何をすればよいのか……と思い青ざめていく乙女を夏侯惇は手で制した。
「……そういうことではない。俺がこうすれば、お前はずっとここにいる。そうだな?」
乙女は目をぱちくりさせた。どういうことなのだろう。それは。夏侯惇はそこまで饒舌な人間というわけでもない。これ以上何かを話すようには見えなかったが、だからといって発言の意図を追求することが許されるような雰囲気ではなかった。
夏侯惇が呆然とする乙女を置いて歩き出す。短くなった髪は、以前のように強い風が吹いても揺れることはないのだろう。
意図は何なのだろうか、と考えてはっとした。短い髪ならば、お守りのようなものにはならない。だが、お前にそんなものは不要だ。しかし、お前はいつか帰ったその時の拠り所になるように髪を欲しがっている。そんなこと、許すものか。こうすれば髪を与える余地すらない。お前がこのまま帰っても、辛いのはお前自身だ。つまり、お前にできるのはずっとここにいることだけだ。
とここまで彼が考えているのかは定かでない。が、きっとそう思っているのだろうという確信がなぜだかあった。率直に言って、嬉しかった。
彼の覚悟を知ったのだ。それに答えずにはいられなかった。
「夏侯惇殿、大好き!」
後ろ姿をめがけて乙女は思い切り飛びつく。夏侯惇は何やらうめき声を上げていたが、彼女を無理に引きはがすようなことはしなかった。彼女が推測した夏侯惇の心情は、あながち外れてはいなかったのかもしれない。