Daydreamer
ホウ徳が曹操の軍門に降ってから、まだ日は浅い。とはいっても曹操は彼の実力を認めているためか、彼の元には他の軍から異動した兵たちが集められ、新しく一軍が編成された。
「そなたは、確か」
「乙女です。何か」
乙女もまた、そうした兵の一員だった。ホウ徳から見ると、随分と若い女だ。戦場で人を殺めるどころか、虫一匹さえ殺せるかどうか、分かったものではない。思わずそう感じてしまうほど幼く、未熟であるように見えた。
「夏侯惇殿の元にいたのではないか」
「ああ、その通りです。夏侯惇殿から……何だったら曹操殿からもよーく言いつけられましたよ。ホウ徳殿を早く皆と馴染ませるようにと」
乙女はにっと笑った。背が高く大柄なホウ徳にも臆すことなく話しかけ、笑顔を見せた。
「……ならば、それがしも期待に応え、励まなければな。……しかし、そなただけに限った話ではないが、急な異動ともなるとさぞかし不便だろう。特にそれがしはこのように無骨な人間ゆえ……」
曹操がかき集めてきた人材が揃えられたとはいえ、日が浅いものであるのだから軍を通しての協調性があるとは言い難い。ホウ徳でさえも、特段器用な男ではない。早く馴染むとはいっても、具体的に何をすれば良いのかは皆目見当もつかなかった。乙女が夏侯惇に任せられた「任務」は、想像以上に困難なものになるだろう、とホウ徳は自分が関係することながらもそんな風に感じてしまった。一見気さくに見える乙女でさえも、軍全体を取り持つことはできないだろう。
「ああ、そんなに重く受け止めないでください。私、夏侯惇の所にいたといっても、正規の兵というわけではありませんので。私、傭兵として雇われているだけですから。だから私をどこかの軍に飛ばすという判断も容易だったのでしょう」
「傭兵? そなたのような女性が……」
「まあ、生きる上では色々なことを乗り越えなければいけませんから。ホウ徳殿もそうでしょう?」
ホウ徳を見上げ続ける乙女は、やはり笑みを絶やさずにいる。ホウ徳は彼女の言葉に頷くことしかできなかったが、彼女は自身がなぜ傭兵などという不安定な立場にいるのかまでは分からなかった。
傭兵という特性、つまり死に追いやられたとしても正規の人間のように責任を感じることもないということ。そうであるから、新参者の自分に彼女が与えられたとでもいうのだろうか。それこそ物のように、使い捨ての武器のように。穏やかではない想像をしてしまったホウ徳を見かねてか、乙女は笑みを消し去って心配そうにホウ徳の顔を覗き込んだ。だがホウ徳は首を振るのみで何も答えなかった。乙女もそれ以上会話が弾むような話題を出すこともなかったため、彼女は去っていった。これが初めての会話となった。
それからも乙女は夏侯惇に託された使命を放棄することもなく、ホウ徳に話しかけた。傭兵として世を渡り歩いてきた経験からなのだろうか、彼女とはすぐに打ち解けることが自然とできていた。
そこからまた日が経過し、ホウ徳は曹操軍の一員として戦いに馳せ参じた。本格的な戦は、これが初めてだった。彼は虫一匹殺せないのではないか、と乙女に対して勝手な想像を巡らせていたホウ徳だったが、それは杞憂に終わった。
ホウ徳から見れば幼子の面影を残す女性であった乙女だったが、その武勇は見事であるとしか評することはできなかった。ホウ徳のように全身に思い鎧を纏っているわけではなかったが、彼女も肌を露出させるのは嫌っているらしく、肩や手足には防具を付けていた。女性にはそれだけで負担になるだろう。それでもなお軽い身のこなしから繰り広げられる、剣による一撃、太刀筋はホウ徳の目にも凄まじく映った。
戦いの才はある。ホウ徳は自らの見識の浅さを恥じた。彼女は使い捨ての将などではない。たとえ曹操が彼女のことをそう思っていたのだとしても、ホウ徳はその姿勢に頑固拒否できると思った。
戦というものは一種の極限状態であり、上官と部下が同じ釜の飯を食らい、そして同じ死地をくぐり抜けるものである。一度戦が始まれば長くそのような生活が続くため、自然と強固な信頼関係が生まれやすい。
実際に、寄せ集めのようなものに過ぎなかったホウ徳が率いる軍勢も互いに協力し勝利へと邁進しようという気風が強まってきたようだった。
乙女とホウ徳、二人の関係性についてもそれは同様である。ホウ徳は己の自惚れである可能性を考えつつも、彼女は自身の指示、そして指示の裏に隠された想いを汲み取ってくれているようだし、自身も彼女の言葉を信頼しきっている。そう考えるようになった。
「ホウ徳殿、お見事でした」
陣地に帰還した乙女は、衣服を汚しながらも傷一つ負ってはいないようだった。
「そなたも、見事。……実の所を言うと、それがしはそなたの能力を侮っていた。……情けない限りだ」
「……そうなのですか? 全然気づきませんでした。もっとあからさまに私のことを馬鹿にしてくる人達ばかりですから。ホウ徳殿はお優しい人ですね。それに、嘘をつくのも得意ではなさそうに見えます」
そう言って乙女はいつものように……いや、いつもより少しだけ好戦的な笑みを浮かべた。誰にでもすぐに、友好的に笑いかける女なのだろうとは思っていたが、その笑顔は常のものとは異なるような気がした。
「そなたの言う通り。……それがし、滅多に偽りに満ちた言葉は申さぬゆえ、時に人の気分を害すこともあるやもしれぬ」
「そこまで正直ならば、ご気分を悪くされる方はいないでしょう、きっと。ありがとうございます、ホウ徳殿。自分の腕にもっと自信がつきました」
「……そなたがそういうのであれば、良いということ、なのだろうな」
「そうですよ。夏侯淵殿の部隊も居心地は悪くありませんでしたけど、もしかしたら私はこっちのほうが自分に合っているかも、と思っちゃいました。ホウ徳殿の優しさと懐の深さのおかげかもしれません。……もう遅いですし、ホウ徳殿もお休みになられてはいかがですか。私も少し、休みます」
「あい分かった。無理をするわけにはいかぬからな」
彼女の言葉が真実ならば。ホウ徳が乙女を信頼しているのと同じ感情を乙女も抱いているということだ。この戦に彼女がいて良かったと強く感じた。
その夜のことだ。いくら休息を取る必要があるといっても、味方に紛れて間者が入り込んできているかもしれない。そう思ってホウ徳は鎧を纏ったまま、横にもならず座った状態で浅い眠りに就いていたのだが、見張りの兵とは異なる足音を聞いて目を覚ました。
何者だろうか。だがその足音には既視感があった。敵の類ではないはずだと思い、ホウ徳は天幕から出て辺りを見た。
「乙女殿」
そこにいたのは乙女だった。見張りの兵の視界にも入らぬような物陰に一人で立っている。
ホウ徳に休むことを促した当の本人が何をするわけでもなく、ぼーっと立っている。そっとしておくべきだったのかもしれないが、ホウ徳は彼女の名を呼んだ。好奇心が勝ってしまったのだった。
が、振り返った乙女はこの夜の闇の中でもはっきりと分かるほどに涙を滲ませていたから、ホウ徳は酷く驚いてそれ以上の言葉を続けることができなくなってしまった。
「お見苦しい姿を見せてしまいましたね」
「……そなたは一体、何を」
それでもなお懸命に笑おうとする乙女の笑顔を、この時ばかりは好ましく思うことができなかった。
「あの、ですね……お恥ずかしい限りなんですけども。それでもよければ、聞いてくださりますか。すみません、本当に」
「……承知した」
見張りの兵に不審がられないように、細心の注意を払ってホウ徳は乙女のすぐ傍まで近づく。傷でも隠しているのだろうかと思ったがそういうわけでもなさそうだった。
「……私、自分の家族が殺された日のことを、ずっと夢に見るんです。住んでいたところに賊が攻めてきたんですけど、適わなくて。逃げ出した自分だけ生きていることが嫌で、生き残った私だけがのんきに誰かを愛することもできないと思って、誰にも肩入れせずに各地を渡り歩いていたんです、けど」
長い戦の中で、絆と呼べるものは、目には見えないにしろ、生まれたはずではある。だからといって個人の身の上話を聞き入れてもよい、ということには必ずしも繋がることをないはずだ。
ないはずではあるが、乙女はたどたどしいながらも涙のわけを話してくれた。
乙女にとって、この地は大層居心地が良いものであるらしい。曹操は乙女の実力を早いうちに認め、重用したのだという。生活ができる金さえもらえればよいと思っていたが、実際はそれよりも遥かに上回る報酬が渡された。
報酬のために戦っているわけではないが、自分に良くしてくれる人間の多さにいたく感動したらしく、いい加減に地に足をつけた生活をする決意を固めるべきではないかとも思った。だが自らの生活が良くなればなるほど、悪夢を見る頻度も多くなったのだという。ここにいるのももう辞めたほうが良いのかもしれない。そう思っていたところに案として出されたのが、ホウ徳の元へと馳せ参じることだった。
夏侯淵の部隊から異動することになったのも曹操の言葉がきっかけではあったらしいが、きっとうまくやれるはずだという後押しの言葉は間違っていなかったと乙女は言った。初めは慣れない環境の中ではあるし、忙しく動くだけで居心地の良さなど感じる暇もなかったが、やはり過去の記憶に苛まれるという結末は変えようもなかったのだと言った。
「……ホウ徳殿」
ホウ徳は、半ば無意識に乙女の涙をぬぐった。乙女の、己の名を呼ぶ声で慌ててその手を引っ込めたのだが、乙女は何も言わずホウ徳の腰に腕を回してすり寄ってきたため、己の行動は軽率ながらも間違っていたものではなかったのだと安堵した。
これが、素性の分からぬ女、つまり初めて会話を交わしたあの頃だとしたら。何とも軽率な、辛辣な物言いをすればふしだらな娘だ、とでも思ったのだろうが。だがそんなことはもはや微塵も感じないほどに、ホウ徳は彼女に肩入れするようになっていた。
「ふふ、冷たい」
互いの鎧が、金属が擦れる音がする。自然にホウ徳も、乙女の腰に手を回した。
このように小さな女子が、戦わなければならない。単純に戦で武器を振るうだけではなく、自らの過去とも。何と残酷なことだろうかと思った。
「……気が利かぬ男で、面目ない」
「いいんです。冷たいのは鎧だけってこと、もう十分分かっていますから」
それ以上何かをするわけではなかったが、乙女はそれでも良かったらしい。慰めの言葉すら思い浮かばぬ自分にホウ徳は嫌悪の気持ちすら浮かんだが、きっと慰めの言葉を掛けることが正しいこととは限らないのだと思った。
彼女が本当の意味で安息の地を得ることはあるのだろうか? ホウ徳は自らの不安定な立場と重ね合わせて、この孤独な娘の将来を案じた。彼女に対して何をするべきなのか。すぐにホウ徳の心は決まった。それは随分と軽率な行為であるかもしれない。しかし、もはや自分では止められないほどに乙女への感情が先走ってしまうのだった。
戦いは終わった。ホウ徳は戦後の処理に追われながら多忙な毎日を送っているのだが、戦が始まる前と後で変わったことが一つある。
乙女はホウ徳の過ごす邸で共に暮らすようになった。偶然乙女と出くわした夏侯惇は訝しげな目線を彼女に向けたものだが、夏侯惇が思うような劇的な何かがあれ以降あったということではない。共に暮らすようになったというだけで、表立ったことは本当に何もしていないのだ。
内縁の妻、のようなものなのかもしれない。事実、夏侯惇はそう思っているのだろう。元々彼が世話をしていた武人の女、それもどこかに定住しているわけでもない傭兵として生きる彼女に対して何か思うところがあったのかもしれない。
だがホウ徳の行動は乙女が思っていた以上に情熱的なものだった。正式な婚姻を結んでいるかどうかなど、気にするまでもないほどに。
誰にも言っていないから誰も知る由がないというだけで、ホウ徳自身は今すぐにでも乙女を妻に、と望んでいた。あの戦の件がそうさせたことには違いない。乙女も長い間、他者から与えられる愛には飢えていたし、自分から誰かを愛する決心もつかずにいた。無骨ながらも彼から差し出されるそれを受け入れることは容易だった。だが、それを受け入れながらも結婚することを拒絶、最後の砦を守ろうとしたのは乙女自身だ。
自分自身が家族を得て、かつてのような、いやそれ以上の幸せを得ること。それが何よりも乙女にとって恐ろしいことだった。今でさえ悪夢から逃れることができないのだ。
だからこれは乙女の、というよりはホウ徳のわがままだった。ならば、同じ屋根の下で過ごすだけでも良いのだと。それだけでも、乙女にとっては悪夢を見てしまうほどには「幸せ」の対象となりうることだった。だが乙女は、それを受け入れることを決めた。この地を離れ再び流浪の旅を歩むよりも、ホウ徳の傍にいたいという思いが上回ったのだった。
穏やかな日々とは言い難い。それでも帰る場所が孤独ではないということは、それだけで悪夢の苦しさを和らげている。だがここである問題があった。
元々、傭兵として戦い続ける覚悟を決めていた乙女は、次の戦場にも当然の如く着いていこうとしていた。ホウ徳の妻、ではなくあくまでの一介の部下として。だがホウ徳がそれに対してあまり快く思っていないということを薄々感じていたのだった。
隠し事をしているような気もする。気もする、といったものどころか、事実隠されていることがある。
どうやらこの男は、その点に関しては少し抜けているようだ、と乙女は思った。同じ邸に住んでいるのだから、嫌でも噂は入ってくるのだ。
「ホウ徳殿。次の戦、私を出陣させたくないと思っているのでしょう」
ホウ徳は気まずそうにして乙女を見た後、観念したのかゆっくりと頷いた。乙女もホウ徳の考えていること、思惑、そして次の戦が死地となるだろうということが分かっているだけに、強く言うわけにもいかなかった。
「……その通りだ。そなたは、ここでそれがしの帰りを……」
「そう言いながら、棺まで用意してるの、知ってますよ。……私、置いていかれたくないです。連れて行ってください」
自分の覚悟がないとは思われたくなかった。正式に一軍を率いた経験はないし、志を同じくする主君に感銘を受けたこともない。だが、曲りなりとも武人であることには変わりないのだ。大人しく邸で待つことは耐え難かった。
「死を予感しているわけではない。あれは、それがしの覚悟の証」
「……なら。私も同じ覚悟を決めているということ。認めてくださいますか。もし、もしですよ。どんなことがあったとしても、死に場所があなたと同じところだったら……悔いはありません。幸せなまま、この終わらない悪夢から……私は救われると思うから」
正式な夫婦ではないから、同じ墓の中に葬られるかは分からない。けれどもきっと、ホウ徳はそれを望むだろう。口には出さずとも、乙女は知っている。家人もその意図を汲んでくれるはずだ。
それならば、いつ死ぬのも変わりはない。どうせ、今までずっと、死に場所を求めて彷徨っていたのだ。彼がいなくなったとして、これ以上の寄る辺に巡り会えるのかどうか。乙女は、そんなのは無理だと思った。それならばどんな困難が待ち受けていたとしても、ホウ徳が往くべき道をついていきたいのだ。
「乙女」
ホウ徳はただ腕を伸ばしただけだった。傍に寄ると思い切り抱きしめられる。あの時のような鎧の冷たさは感じない。伝わってくるのは温もりだけだ。何度こうされても、慣れたものではない。けれども心地良かった。
「連れて行って、ください」
抱きしめられているから、言葉は上手く発声できなかった。だが、ホウ徳は聞き逃さなかったらしい。
「……そなたの棺も、用意させよう」
傍から見れば、全く意味の分からないやり取りだと思われかねない。だがこの言葉を聞いた乙女は、ホウ徳の腕の中でいつものように笑った。これ以上の言葉はいらなかった。
悪夢に打ち勝つことは、この人生が終わるその時までできないだろうけれど。同じ墓の中で眠れば、ホウ徳と同じ夢を見ることができる気がするのだ。その日がいつ訪れるか程度の小さな違いなど、今の乙女にとってはどうでもよかった。
戦は近い。
ただ雨の降る音だけが、この静寂の中さざめいていた。