Hunger
知らない天井が見える。どうやら自分はどこかに寝かされているようだ。視界は……鮮明ではない。片目は何かに……いや、目だけではない。至る所に包帯が巻かれているのだろう。一体自分は何をしていたのだろうか。思い当たる記憶はない。だが戦に出たということは確実なのだろう。いつもと同じように過ごしていただけだ。けれども、いつもとは違う。頭にもやがかかったかのようだ。
乙女はぼんやりとしたまま働かない頭を巡らせて考えた。だがここがどこなのかも分からなかった。目だけを動かすも視野の狭まった視界は思うように周りの光景を映し出してはくれなかった。どこかの部屋、それも誰かが日常的に使っているかのような……しかし乙女に見覚えはなかった。
「……乙女殿?」
己の名を呼ぶ男の声、そしてこちらに近寄る足音が聞こえる。その声に乙女は既視感を感じた。
この男のことを知っている。乙女の目に彼の姿が飛び込んできた途端、彼女は痛みを感じることも躊躇わずに寝台から転がり落ちるようにして体を捻りながら床に手足をついた。体中に傷があるのか、至る所が痛む。四つん這いの状態のまま溢れてくる冷や汗にも気づかないふりをして、乙女は男を見上げた。怒りを隠すことなく滲ませながら、睨む。
男はいつも通りの無表情を保っているかのように見える。だがその奥には乙女が知らなかった感情が見え隠れしているようだった。喜んでいる。そう乙女には見えた。
知らない。なぜこの男は私が醒めたことを喜ぼうとしているのか? 分からない。なぜ私はこの男が使っているだろう部屋にいたのか?
「荀攸。なぜ私がここにいる」
「乙女殿。やっとお目覚めに、」
「なぜだ。知らぬ間に私を拉致したとでもいうのか。卑怯な手を使うことなどお前にとっては造作のないことなのだろうな」
荀攸は微かな喜びの色を瞳から消した。つくづく気味の悪い男だと乙女は思った。
「……乙女殿。あなたは……」
「その口を開くな。私をここまで追いこんで満足か? それとも私に殺されたいのか。いくら私が満身創痍であっても、その首を掻きにいく機会があるのならば私はいつだってそうしてやる」
憎い男が目の前にいると思えば。乙女は痛みに耐えながら無理矢理立ち上がる。だが一歩を踏み出した途端に彼女の体はふらつく。荀攸の伸ばした手を振り払うもののまともに歩くことはできずに膝を床に着けた。
「……その傷ではまともに動けないはずです。大人しくしたほうが良いでしょう」
「黙れ。私だけを生かすなど何がしたい」
「本当に分からないのですか、あなたは……」
「お前のような人間の考えることなど分からずともいい」
「強情なところは変わっていないようですね。……仕方ありません。私が憎い、そのお気持ちだけ受け取っておきましょう」
荀攸は乙女の抱く疑問には一切答えないまま、そのまま部屋を出てどこかしらに向かった。……背中を見せても何とも思わないというのか。乙女は腹立たしく感じたが、服の下に巻かれた包帯を覗くと血が滲んでいた。深追いしてもきっと意味はないのだろう。這うようにして寝台に登り再び天井を見上げた。
乙女にとって荀攸は、憎い男のうちの一人だ。彼の軍略と、それを享受する男の手によって乙女の故郷は滅んだ。乙女が大切に想っていた人間もそこに至るまでの戦で多くが死んだ。それからは一族や仲間は離散し各地を放浪しながら戦いに臨み続けている。定住できるような土地も見当たらず、もはやかつての同志のうち誰が生きているのかも分からない。自分しか生き残っていないのではないか。そういった不安に駆られる日々の中で、乙女はあろうことか荀攸の手が容易く届くこの部屋の中にいる。夜が近づくにつれ乙女の傷は疼いた。仇は目の前にいるというのに。歯痒さを感じるしかない状況の中にいる。
自らの手では収まり切れないほどの命を操って、仇なす命を消し炭にしていく。死んだ人間のことなどはなから命ではなく「数字」程度にしか思っていないのだろう。そう思うと軍師という人間が何よりも憎らしく感じるのだ。
それから暫くして、乙女はあの部屋から堅牢な地下牢に移された。食事を持ってきた女にさえ殴りかかろうとした彼女の気性の荒さを封じ込めるために、その手足には拘束が施されている。乙女にとっては屈辱でしかなかった。
どうやら様子を見に来るのは専ら荀攸の仕事となったらしい。乙女がここに移されてからというものの、彼以外の人間はほとんど見ることはなくなった。呑気なものだ、と乙女は思ったが掴みかかろうにも鎖が邪魔でどうしようもできなかった。殺してやる。その感情は燻ることなく燃え盛っている。口汚く罵っても荀攸は顔色ひとつ変えることはなかった。むしろ笑みさえ浮かべているように見えた。この体が万全であれば今すぐにでもその骨を砕いてやるというのにと乙女は常に思い続けている。
荀攸は乙女にそのような憎しみを抱かれつつも甲斐甲斐しく動き世話を欠かさなかった。彼女が殴ろうとした女の代わりでもあるのか食事の世話も請け負っている。軍師様がそのようなことでお出ましになるとはね。乙女は嫌味のつもりで言ったが、荀攸は「俺がこうしたいだけですから」とやはり眉すら動かさなかった。荀攸はその捕虜に出すにしては豪勢な食事を、腕が動かない乙女の代わりに掬って彼女の口の中に運び入れるのだ。まるで赤子のように。乙女は初めは反発していたが、生きている以上腹は減る。どうやっても受け入れざるを得なかった。お前が監視しているのならば構わないだろう、と拘束具を外すことを要求しても聞き入れられることはなかった。
牢の中にいるとはいえ、拘束された手足に赤い跡が残ること以外に不自由は何一つない。身動きがとれない乙女に代わって傷の手当ても全て荀攸が自らの判断で行っている。そこに乙女自身の意思はない。体に触れられる度に乙女は奇声を上げて抵抗した。「それ以上」のことがなくとも、憎い人間に触れられるのはそれだけで死んでしまいたくなるか、さっさと殺してやりたくなった。
このような終わりが見えない毎日がこれからも続くのかと思うと乙女は心底うんざりした。傷は徐々に治りはじめている。捕虜として交換に出されるのか拷問されて情報を吐かされるのかこの男の下で戦うことを命じられるのか。そのどれが適用されたとしても乙女が真に納得することはないのだろうが、どれかはなされるのだろうとは思っていた。だがずっとこのままだ。次の算段は見えない。抗うだけの体力はある。だが心は沈み切ったままだ。擦れて出血している手首の些細な痛みはとっくに気にならなくなっていた。感覚が麻痺してしまっているようだった。
「殺すのならば早く殺してくれ。出口の見えない毎日を過ごすのはもう飽きた」
乙女は荀攸に無理やり突き出された食事をいつものように食べた後力なく言った。目の前にその首を掻ききってやりたい男がいるというのに。手を伸ばせば届きそうな距離にいるというのに。生き地獄のようだ。このような終わりのない苦しみを味わうくらいならこの首を差し出せばよいのだ。乙女はそう思い、実際にその願いを声に出していながらも未だに瞳の中には消えることのない仄暗い炎が燃え続けていた。口ではそう言いながらも、簡単に諦めることはできるはずがないのだった。
「できません」
毅然として言い放つ。予想通りの答えではあった。
「……お前ならそう言うと思ったよ。ならば私をこうやってこんなところで飼い殺しにする理由だけでもいい加減に教えてくれないか」
ずっとはぐらかされていた。乙女が尋ねてもまともに答えることなど一度もなかった。だがこの日の荀攸は違った。常と変わらぬ、暗い瞳。その中に、僅かに炎が宿っているように見えた。それこそ、乙女と同じように。
「……俺たちは一蓮托生。そう誓いましたから」
荀攸は、その場しのぎの嘘を言っているようには見えなかった。だがその態度と言葉は真実であっても、乙女の感情を逆撫でするに過ぎない。事実、乙女は頭に血が上るのを感じた。
「一蓮托生? 寝言なら寝て言ってくれないか。私はお前のことをずっと憎んで生きてきたというのに! お前を殺して、私はやっと使命を果たせるんだ、お前は大勢の人をどれだけ効率よく殺せるのかということしか考えたことのないその頭だけを取り柄にして、ずっと安全な所から人殺しの命を下し続けているのだ、お前が今まで一切受けたことのない痛みを、その心にも、肉体にも味わわせてやる!!」
じゃらり、と重い鎖が床で激しくうごめく音がする。文字通り噛みつかんばかりの勢いで体を荀攸のほうに向かって乗り出す[FN:名前]に対しても荀攸は表立った動揺を見せることはなかった。
だが、そう思っているのは乙女だけなのかもしれない。
「いつか、俺の言った言葉の意味が分かるときが来ます。俺は諦めません」
「私は認めない。……全く、反吐が出る! そのようなふざけた戯言、もう聞きたくはない。早く出ていってくれ!」
「……乙女殿。俺は信じていますから」
「私に指図をするな! ああ、今すぐにでもお前を殺してやりたい……」
荀攸が牢を後にしてもなお、[FN:名前]は叫び続けていた。
何かを隠されている。自分の知らない何かが。何かを知ってしまうくらいならば、楽になってしまいたかった。そんな予感がした。あの男への復讐を糧にして生きているのだから。その復讐心に揺らぎが生まれるくらいならば、生きる価値などない。そう言ってしまえるほどに、憎しみに囚われている。だがそれでこそ、自分を保てる手段であるのだと乙女は信じ続けているのだった。
「おい、知ってるか、あの話」
「なんだよ。そんなにコソコソして。お前らしくないな」
人気のない廊下を、ある男たちが噂話をしながら歩いていた。
「……そりゃ大声で話すような話じゃないからな。荀攸殿のことだよ」
「ああ、あの話な。……奥方は気の毒だったが。戦で深手を負ってそのまま……だろう? 紆余曲折あって結ばれたってのに、報われないものだな」
「その話なんだが、どうやら生きているらしい。びっくりしたよ」
「はあ? でも荀攸殿と一緒に歩いているところなんて、見たことないぞ。以前はよく連れ添っていたのに。よくもまあ、あんなに殺伐とした関係性を上手く築き直したもんだな、流石荀攸殿だとは思っていたが。あんな大怪我の後なら尚更傍にいたいんじゃないのか」
「……あくまでも噂なんだけどな、牢屋の中に監禁されてるんだとさ」
「監禁? 『あの頃』ならともかく、なんで今更……戦いに出したくないだとか、何か理由があるんだったら荀攸殿の邸に置いておけばいいのにな。牢の中なんて気の毒に。せっかく意識が戻ったのに、閉じ込められているってことだろう?」
「それがだ。あの方がここに降ってから以降の記憶が全部飛んでしまったんだって。だから荀攸殿が昔みたいに、思い切り恨まれてる。使用人にも殴り掛かったらしい。牢の中でないと何をしでかすか分からないんだろうな」
「……記憶がないって、これまた厄介な。それ本当なのか? ……でも確かに可能性はあるな。最近の荀攸殿、ちょっとやつれているように見えるし……俺が尋ねにいっても変な時間に席を外しているんだよなあ」
「だろ? そりゃやつれるのは当たり前だと思ってたんだけど、それにしては様子が……いや、いつもと同じなんだけど、どっかに違和感があるっていうか……気のせいかもしれないけどな。何考えてるのかいつもよく分からないことだし」
「本当のことを知りたいところだが……あ、」
一人の男が立ち止まる。「どうしたんだよ」ともう一人の男が声を掛けたのも束の間、彼も立ち止まり目の前を見つめた。
「荀攸殿! こんな時間にどちらに?」
おい、と制止を促す声を振り切って尋ねる。そこにいたのは荀攸だった。見た目は二人が見ても至っていつも通りのようにしか見えなかった。
「……どうしても会いたい人がいる。それだけです」
荀攸はそれだけを言って、さっさと歩いていってしまった。
彼女の記憶が戻らないままだとしても、荀攸はずっと寄り添い続けるのだろうか。男たちは荀攸を見送ってからも考えていた。答えは当然ながら分からなかったが、やっと通じ合った二人がこのような形で引き裂かれるのは、あまりにも惨いと思った。
だが、それが乱世の道理というものなのかもしれない。二人が結ばれるまでの間に荀攸が彼女の故郷に下した業の深さと、故郷の地を踏むこともせず、かつての仲間や一族とは二度と会わない決断をした彼女のことを思い返し、それ以上この話に触れることはなかった。