A Different Kind Of Human
「何見てるんですか」
張コウがやけに熱心な様子でテレビを見ていたから、乙女は不思議そうに尋ねた。彼は自分で入れた紅茶を優雅に啜った後、すぐそばに立っている乙女の顔を見上げる。初めはお湯の沸かし方すら分からなかった彼は、この小さな家の中では自分の思うように振る舞い、自由に過ごしている。
普段そうして動いている彼を見上げ続けていると首が痛くなる。それほどまでに背があまりにも大きいものだから、そんな彼にこうして見上げられると乙女はいつも変な気持ちになってしまうのだった。端正な顔だ、とじっとその瞳を見つめる度に話の本題とは全く関係のないことを感じてしまうのだが、何でもないように振る舞って張コウの紡ぐ言葉が発されるのを待った。
「いえ。大したものではありませんけどね。この世には私が想像しているものよりもずっと、美しいもので満ち溢れていると感じたのです」
テレビは一応置いている、というだけで乙女はほとんど見ることはなかった。なかった、という過去形で示す必要がある理由は、こうして張コウが見ているとつい気になって自分もテレビを覗いてしまうからだ。ふとそれに視線を遣ると、どこかの美術館に芸能人が訪れるという場面が放送されていた。
美術館は、少し前にも行った。彼の言う美しい、という言葉をその言葉通りの意味で受け取るべきではないのだろうということは薄々感じている。単なる口癖だけでは説明がつかないような何かがある気がする。それでも単純に、一般的に見て美しい、と誰もが感じるようなものを彼が好いているのも本当であったし、それならば、と思って思い切って連れて行ったのだった。その思惑は存外的を外しているということもなく、彼は熱心に絵を見ていた。乙女は絵などを見てもその良さは分からないままだったが、彼が楽しそうにしているのを見ていると安堵したものだった。
「……美術館。また今度行きましょうか。以前行ったところとは、別の場所。この辺りに大きな美術館はありませんから、辿り着くには少し時間がかかりますが」
「良いのですか。近頃のあなたはあまり……元気がないように思います。その申し出は嬉しいものですが、何よりも大切なのはあなた自身ですから。それにあなたがいなければ私は何もできませんからね。私一人で生きていくには、少々この世界は難解です。いくら慣れてきたとはいえ、私の力、いえ、あなたの力をもってしてもどうにもならないことがありますからね」
張コウは組んでいた足を解いた。適当に乙女が見繕った服を着てもらっているのだが、それでもなかなか様になっていると思う。整った顔だけでなく、すらりと伸びた長い手足、そして均整のとれた体。彼が元からこの世界の住人であれば、モデルとしてやっていけそうなくらいだ。最近は共に服を買いにいったこともあるので出かけるときは彼の好きなようにしてもらってはいるが、家にいるときは[FN:名前]が勝手に買ってきた服を何も言わずに着ている。気を遣ってのことなのか本当に気に入ってくれているのかは定かではない。財力があればもっと彼の好きなようにしてもらうことができるものなのだが、なかなかそうもいかない。
元気がないと張コウが乙女を形容するのにはそういった部分も含まれているのかもしれない。悩むようなことでもないのだろうが、どうしても彼の好きなようにしろとは到底言えないこの状況が、酷くもどかしい。張コウは何も文句ひとつ言わずにここにいる。だが乙女は、この男をここに閉じ込めておくに値するような人間ではないのだと自分を評している。
美術館に連れて行ったのだって、自分のエゴに過ぎないのだ。彼にこの広い世界を見せるためだと思ってやっていることが、本当に彼のためになっているのか。考えてもきりがないことだが、考えざるを得ない。事実、美術館のほかにも様々なところに連れ出してはいるが、張コウが、というよりは単に乙女が行きたいからそうしているという場合も少なくない。
そうはいっても頻度は多いものではないし、美しいこと、美しいものが好きだという彼の知的好奇心が満たされているのかは、やはり定かでなかった。
「元気がないように見えますか。張コウさんが来てから、ですよ。私の居場所は確かにここにあるんだって思ったのは。それまでは何で私、毎日必死で働いて、こんなことしてるんだろって思っていましたから」
悩みは尽きないが、この言葉もまた真実だった。一人で生きているということ。仕事を終え飯を食べ風呂に入って寝て、次の日もまた同じことの繰り返し。これでは何が楽しいのかが分からない。だが張コウがこの世界にやってきてから、日常に鮮やかな色が戻ってきたように感じたのだ。大昔からここにやってきたなど到底信じられないものであったが張コウのいうことが嘘であるとは思えなかったし、彼があるべき場所に帰るための方法が分からないまま今に至っている。
自分の居場所は、彼のためのものなのかもしれない。自惚れているようなものだが、こんな風に考えてしまうからこそ、彼には思うように過ごしてほしいのだと乙女は思う。その手立てが分からないから、こうして彼に悟られるまでに鬱屈としたものに覆われている。彼がいるから自らの意義に気づいたというに、これではまるで意味がない。――情けない。この一言に尽きる。
「居場所、ですか」
「はい。私が今まで自分に意味を見いだせずにいたのは、こうしてあなたに出会うことでその意味を見出すためだからなのかもしれない。そう考えたんです。ですから、きっと気のせいです。私、張コウさんから元気を貰っていますから」
「……それなら、良しとしましょうか。いえ……それを判断するのは、少し烏滸がましいですね。私はあなたのような人に出会えて本当に嬉しく思っています。あなたでなければ、私は今頃どうなっていたことか。所詮ここでは、私は世の理を知らない幼子のようなものですからね。世が映ろうとも、美しいものは絶えず存在する。それをあなたと共に感じることができることがどんなに素晴らしいものか。……とはいえあなたの美に翳りが見えてはいけません。一番大切なのは、何よりもあなた自身。今夜は早く寝たほうがよろしいのでは」
「……張コウさん。そう、ですね。やっぱり私、疲れているのかもしれません。早く寝ます、今日は。明日も休みだから、ゆっくり寝てからお出かけする計画を考えましょうか。……おやすみなさい」
悩んでも解決できないことなど、この世にいくらでもある。彼の言う通りだ。次の日になれば少しはこの答えのない問いに対して、答えを求めるのではなく答えを待つことに繋げることができるのかもしれない。乙女は自分の部屋に戻って、暗い部屋の中でベッドに寝転んで天井を見上げた。
考えるくらいならば早く寝ればいい。分かっているものの、乙女は目を閉じたいとすら思わなかった。
結局乙女が張コウに自由に生きてほしいと思っている理由は何なのか。改めて考えると、それすら自分勝手な思想の押しつけに過ぎない。
自由に、彼の求める美しいもの、美しいことをこの世界の中から見つけ、その良さに心を満たしてもらう。それを望んでいるのは、この世界の良さを知ってもらいたいからだ。――もし彼が元の世界に戻る決断を迫られたとき、少しでもこちらの世界を選ぶ余地を与えるために。
それほど彼のことを好いている。だが、好いている人間の持つ気持ちよりも、自分のことばかり優先している気がする。醜いと、乙女は心の底から思った。張コウが一番嫌うようなものではないのか、これは。こんなことを思ってしまう程度に、長い時を過ごしている。けれども関係性が進むことはない。むしろ、進んでしまっては辛くなるだけなのだ。そこまで知っているにも関わらず、彼への気持ちはどんどんと泥沼に沈むように澱んでいく。
乙女の周りにいる人たちは、人の悪口を言うことも、人を蹴落とすことも厭わない者ばかりだ。実際、乙女もそのような環境下にいるからか、そういった思考に毒されているという自覚はある。だからこそ、美しいという感情を何よりも大切にする張コウが眩しく感じた。しかし、それでも彼のようにはなれない。
張コウの、この世界における寄る辺としてありたい。清い気持ちだけを持っていたいのに、そうなってはくれない。これならば、仮にその時がきたとして、彼がこちらを選ばなくても当然だと思った。
その次の日になっても乙女の「元気のなさ」が完全に解消されることはなかったが、張コウは何も言わなかった。
言わないというものも、一種の優しさだ。張コウが気づいていようとも、本当に気づかなかったのだとしても。相変わらず張コウはいつも通りに生きている。乙女が出かける場所を提案すれば喜んでそれに乗ってきたし、二人で食卓を囲むのは楽しいものでしかない。
その日の夜中のことだった。乙女がふと目が覚めて、茶を飲みにリビングに足をそっと踏み入れようとした時だ。
女が一人で住んでいるこの家に、いきなり転がり込んできた男が一人きりで眠れるような場所など存在しない。空いている部屋があるという都合の良い話は当然ながらなかった。
たまたま貰い物のソファーがあるということで、張コウにはそこで寝てもらうことにしているというのが現状だった。邪魔でしかないソファーが役に立つことに喜び半分、窮屈な寝相を敷いてしまうことに対する申し訳なさ半分といった所ではあるが、こればかりはどうにもならない。
曰く、「戦場で敵からの奇襲に備えながら眠るよりはこの程度、造作もありません」とのことではあるので、乙女はその言葉に甘えている。
その言葉通り、乙女がトイレに行くのに目を覚ましたときなどにちらりと眠る彼を見れば、特に苦しそうな顔をしているわけでもなく寝息を立てているのだった。
というのが常なのだが。
眠らずに真っ暗な部屋で張コウはソファーに座ったまま、何もないところをじっと見つめていた。暗い中でも、彼が座っている姿は鮮明に浮かび上がる。まさか起きているとは。それだけでも予想外で腰を抜かしそうになってしまったのだが、彼の目つきが普段の穏やかな姿とは異なり、まるで……戦場で敵を一瞥しているかのような冷たい瞳をしていたから、乙女はぎょっとして、それでもなお彼から目が離せないまま立ちつくしてしまうのだった。
そうか、この人は……戦場に立って、武器を振るって戦っている。それが当たり前の世界で、理由はどうあれそうやって生きてきたのだ。急に戦うことを辞めるということを強いられて、受け入れることなど難しいに決まっている。生きる世界が違うって知っているはずなのに、知らなかった。これならば、彼がいつか決断する日にこちらを選んでもらえないのは当然だ。
刹那の間に、渦巻いた。やはりこの人は、ここにいていい存在ではないのだ。きっとこの人の求める本当の美しさはここにはないのだ。そう思うとなんだか、無性に涙が出そうだと乙女は思った。
「……ああ、乙女殿。少し、見苦しい姿を見せてしまいましたね」
「眠れないのですか」
「そういうわけでは……ないのですが。なぜだか目が覚めてしまいました」
張コウは、普段と変わりないように見えた。特に自分を偽っているようには見えないのだ。きっとそれは、戦場で舞う彼も、こうして佇んでいる彼も、美しいものを愛でる彼も、全てありのままの姿であるからなのかもしれない。
そのようであるから、乙女は彼の言うことをそのまま受け入れてなんでもないように再び部屋に戻ることもできた。しかし彼女はそうすることを選ばず、張コウの隣に腰掛けた。二人きりで過ごすことには慣れてしまったが、こうして今にも体が触れそうな距離まで近づいたのは初めてだ。触れたい、とは思わない。一度その温もりを知ってしまうと、戻れなくなりそうだったからだ。
「……この世には数多の美しいものがある、と私は言いましたが」
「はい」
「私は、あなたが思っているよりもずっと、卑陋な人間であるのかもしれません。この美しさを私が享受していいのか迷いが生まれるほどに」
「どうして、ですか」
何も分からないふりを、乙女はした。このまま知らずにいればどんなに幸せか。けれどもそれを許してくれる人ではないのだろう。しかし、張コウの言葉は、乙女が想像していたものとは少しばかり異なっていた。
「もし……ですよ。私が帰る、なんて日が訪れたそのとき。あなたには私とともにあってほしいと思っていたのです。あなたの居場所を奪うことになったとしても。……それは全くみって、美しいなどとは言えません。けれども、これこそが私の本心なのです」
「……」
どうして綺麗なことだけを考えられないのだろうかと乙女は思っていた。美しさとはかけ離れた仄暗い感情を抱え続ける自分はなんて醜いのだろうと。
しかし、人間であるのだから、そういったことを考えるのは当たり前だったのかもしれない。彼のような人ですら、同じようなことを考えている。彼も同じように、抱え続けていた。自分が本来生きるべき場所で、本来生きることが許されない人と共にありたい。
ある意味自己中心的なものでしかないが、とどのつまりは、互いを大切に思う気持ちの強さがためなのだ。
「私は武人としてしか生きられぬ身。あなたを生涯に渡って幸せにすると言い切ることはできないでしょう。こちらの世界とは、あまりにも全てが違いすぎますから。それでも、かの地でしか見られぬ美の姿というものを、あなたにも知ってもらいたいのです。あなたとともにありたいという気持ちは、それを踏まえてもなお確かにこの胸の中に存在するのです……少々身勝手に過ぎましたね。けれども私はこういった人間なのです。ああ、己を律することができない私を、どうかお許しくださいますか」
「許すだなんて……私が生きているのは、あなたの居場所としてあるためです、きっと。あなたが望むのならば、私はどこまでもついていきますよ」
ありがとうございます。それだけを静かに呟いて、目を伏せた。彼の微笑は、やっぱり美しいと乙女は思った。
きっと彼がいう本当の美しいものはやはりここにはなく、彼の言う世界でしか見ることはできないのだろう。それでも良かった。隣に立つことが許されるのならば、それで。
「迎え」が来る日がいつになるのかは分からない。しかし、昨日までのように一人で悩むことはもうないのだろうと思えば、乙女はほっとするのだった。
自分の居場所を確固たるものだと認識したのは、彼がいるおかげでしかないのだ。その彼が言うのであれば、この世界を捨てることも惜しくなかった。そう思うほどに彼のことが好きなのだ。
その気持ちが伝わったのかどうか分からないが、張コウは乙女の手をそっと取って握った。大きくて優しい手のひらだ。このままここで眠ってしまってもいいかと乙女は思って、何も言わずに目を閉じた。分からないこと、まだ知らないことだらけではある。けれども、少し前進した。そう思えば、愛おしい時間だった。