The Seed
遠呂智から反旗を翻し、目的を遠呂智の討伐に切り替える。曹丕だけでなく他の人間からしてもその判断は間違っていなかった。事実、曹丕と同じように遠呂智に立ち向かう勢力の結束は強まっていたし、今この時が作戦を実行するに相応しいということは明らかだった。
上手くいくはずだ。いや、上手くいく。そんな確信を持っていたはずだった。
だが今曹丕はたった単騎で森の中を駆けている。作戦は失敗に終わった。妲己達の力を侮っていたのだ。彼の周囲にいた兵は気づけば一人残らず姿を消していた。はぐれてしまったのか、討たれてしまったのか。
そんなことはどうでもいい。そう思えるほど、曹丕はもう自分のことしか考えられなくなっていた。再び遠呂智と同盟を結ぶ? いや、敗北を喫しているのだから、同盟を結ぶまでもなく良くて属国、悪くて処刑の可能性もある。特に曹丕はそれほどの権力を持っているのだ。……曹操亡き後の、曹魏の後継者として。
曹丕は馬を走らせているが、長く走っているせいなのかどこかに矢などによる傷を負っていたのか馬の調子もあまり良くはなかった。ついに暴れ出し曹丕の指示を受け付けなくなったため、曹丕は必死で馬を押さえつけてから勢いよく飛び降りた。曹丕自身も負傷している為、傷が大きく傷んだ。
人一人分の重みから解放された馬は大きく嘶いて、曹丕になど目をくれることもなくどこかに走り去っていく。馬の鳴き声で居場所を悟られはしないだろうか。曹丕は懸念を感じながらも静かに歩き出した。武器はある。それだけが救いだった。最後に己の身を守るのは自分自身でしかない。
ここはどこなのだろうか。そう戦場からは離れていないはずであるから別働隊と合流を急ぎたいものであったが、自分が今どこにいるのかの見当をつけることもできなかった。平静を失って逃げているうちに、把握しきれていない地に足を踏み入れたのかもしれない。木々が見渡す限り一面に広がっていて、空は葉で覆われている。光はあまり差し込まず、薄暗い。戦国と三國の地が混ざりあったこの世は酷く不安定で、曹丕達もはっきりとした地理を理解することは不可能に近いのだ。
人の声はしない。喧騒から遠く離れている。曹丕はこの世に自分しか存在していないのではないかという錯覚を覚える。
そうして、どれだけ歩いていたのだろうか。森の中を抜けることもなく、時折風に吹かれて木の葉が揺れる他には一切の音もしなかった。獣が蠢いている様子もない。
しかし、そこに一軒の家屋があった。そう大きくはない。
人は住んでいるのだろうか? だが入らないという手はない。休まずに、再起を測ることだけしか考えていなかったが、ふと腰あたりに手をやれば衣には血が滲んでいた。傷の手当てをすることが優先だろう。曹丕は常と変わらぬ堂々とした態度で扉に手をかける。鍵は掛けられていなかった。
「だれ」
女がそこにいた。奇怪な衣服を纏い、手には見慣れぬ薄い板を持っている。剣を持ってさらに傷を隠そうともしない曹丕の様子を見て、女は小さく悲鳴を上げた。
「……この家の主か? 一人で住んでいるのか」
「……分かりません。気づけば、ここにいたから。私の他には、誰も」
見るからに女は怯えている。それも当たり前かもしれない。女は何も持っていない。おそらく何の力も持っていない。いくら女が襲いかかったとしても、傷を負っていようとも、一人くらいなら対処ができる。普段の曹丕ならそんな考えは決して持たなかっただろうが、今の曹丕は違った。女の信を得て、一刻も早く休み、それからこの地を離れたいのだという気持ちが強かったのだろう、彼は自分から武器を置いて手を広げた。
「……私は見ての通り、お前を害するつもりはない。ただ傷の手当てをする必要がある。暫しの間、ここを使わせてもらう。いいな」
曹丕はずかずかと歩み寄った。いつもそうしているように。だが自分以外の人間にやっと会えたという安心感がいつの間にか彼の心を占めていたのだろう、傷の痛みははっきりと彼を襲った。
「だ、大丈夫ですか。とりあえず、ベッド、貸しますから」
ぐらりと揺れる体を、女が支えた。曹丕はぐっと足裏に力を入れて耐える。思っていた以上に体の状態は悪い。女は曹丕の腕を取って自らの肩に回した。曹丕はされるがままだった。
「……」
曹丕は何も話さず、女もまた同じだった。寝台に寝かされ、女が適当に持ってきた包帯を巻き同じく適当に持ってきた服に着替える。女が着ている服と随分違うものではないかと尋ねると、これもここにあったものだという。差し出された水を飲むと、欲していた潤いが喉を満たした。
眠ってしまっても良かったが、不思議と目は覚めていた。曹丕の傍にいる女は、心配そうにして見つめている。
「……外では何が起こっているのですか」
おかしなことを言う。この世界は誕生してからずっと遠呂智が勢力を伸ばし、人々はそれに抗うもの、従うもの、それぞれの野心を抱えながら戦いに明け暮れている。この女はどうやって暮らしているのだろうか? 曹丕は分からなかった。
「私は戦いに負けた。たったそれだけのことだ。……お前こそ、ここで何をしていたのだ。こんな所で女が一人で暮らしていけるとは思えぬ」
「戦い? ……私、何も知りません。だって気づけばここにいましたから。ずっと一人でいます。食べ物はまだありますけど、それがなくなったらきっと私は苦しんで死んでしまうのだろうと思っています。何にも分からないから」
「……お前はどちらの人間なのだ。それくらいは分かるだろう」
世界に歪みがおこり、戦国と三國は一体化した。妖魔ならともかく人間はどちらかの世界からこちらに誘われているはずだ。だが曹丕はこう尋ねながらも、目の前の女はどちらにも属していないのだろうという気がした。有り得ないことだが、そうとしか思えなかった。
「どちら? 何の話ですか。私は本当に何も知りません。あなたは普段から武器を持って戦っているのですか? それならば私はきっとあなたたちの知る世界の遥か未来から来ているのでしょう。この家にあるものもよく分からないものばかりだし……私のいた所と比べると、大昔なんだってことは、分かります」
本当に何も知らないのか? 本当に未来の人間だというのか? 曹丕は勘ぐったが、女の言うことが間違いであると言い切ることができなかった。
何しろ、何をするにも手際が悪い。寝台に転がされた曹丕であったが、実のところ傷の手当は結局曹丕自身が終わらせたし、水を持ってくるだけでも長い時間が費やされた。一人で暮らし続けているにしては全てが不慣れだ。そして女が着ている服は曹丕でさえも見たことがないものだったし、手に持っている板のようなものも同様だった。
未来から来た、いや正確には意思に反して飛ばされてきた。この世界が不可思議な成り立ちと動きによって存在している以上、このようなことも起こりうるのかもしれない。
「何も知らないのならば、それでいい。……知らぬほうがいいこともある」
「ふうん。……あなたはきっと、その話しぶりからするときっとそれなりの身分の人なのでしょう。別に、何でもいいですけど。外で戦いが起こっているのなら、あなたが持っていたような恐ろしい武器で殺されてしまう。それならここにいて一人で死ぬのと変わりませんから。ここなら死ぬときを自分で選べる」
戦乱から隔絶されたまま生きるなど不可能だと思ったが、現に女はそうして生きている。女の身の上などどうでもいいと思ったが、ひと時のことだとしても平穏のまま生きているこの女のことがほんの少しだけ羨ましく感じた。だがやるべきこと、使命が残されている以上、これ以上女のことを知るつもりも、自分の身の上を打ち明ける必要もないと思った。
しかし、ちらりと見えた女の顔はこの世のあらゆるもの全てに憂いているように見えた。何かを渇望しているように見えた。特別、美人な女というわけではない。単純な造形の美でいえば、甄姫のほうがずっと美しい。だが、それでも美しかった。曹丕の心を捉えるほどには。この女に戦いの才などあるはずはない。だが絶望を隠そうとはせずとも、それでいて瞳の輝きは失われていない。率直に、欲しいとだけ思った。死なせるには惜しい人間だ。
この家が元々誰のものであるのか……それはこの女が知らない以上、曹丕にも分からない。だがこの家のものが全てなくなれば女は生きることすらできなくなるだろう。あまりにも哀れだ。きっと女は無理に力に物を言わせて囲うようなことをせずとも、住む場所や食べるものさえ用意すれば自分の頭で考えることもせずに後ろを付いてくるのだろう。金をちらつかせればなおのこと。そのような卑しい女など、曹丕の眼中にはない。だがこの女ならば悪くない。この女が未来から来たということは、誰にも言う必要などない。自分だけが知っていればいい。いずれ役に立つかもしれない。本当に未来から来たのならば。
「ならば私が全てを与える。金も食い物も全て」
曹丕は傷の痛みに気づかない振りをして、寝台から身を起こした。未だ立ったままの女を改めて見上げる。
「……あなたこそ何者なの? どちらにせよ今のあなたは何もできない。たとえ金があったとしてもそんなもの私は食べられない。生きるのに必要なのは誰だって水とパンでしょう。私が欲しいのは毎日ご飯を食べられるだけのお米や野菜。その種すらここにはないのだから。私が肌身離さず持っていたスマートフォンだって、ここじゃただの板。何の役にも立たない。あなたの傷が治って、あなたが私に食べ物を持ってくるまで、何日かかるというの」
「私は明日ここを立つ。……戦力はまだ残っているはずだ。そう遠くないうちに見つけ出す。私が直接動けるかは分からない。だが必ずお前を私の元に連れていくと誓おう。準備が整えば、すぐに」
女の発する単語は所々曹丕にとっては意味が分からないものが混ざっていた。だがわざわざ意味を尋ねるようなものではなさそうだったから、何も言わなかった。せめて馬さえあれば、この痩せている品のない女一人程度どうにかなったものを。曹丕は自分を取り巻く状況を忌まわしく思った。この女が欲しい。常であれば簡単に叶ったはずだ。今までそうしてきたのだから。だが今回ばかりは違う。知っているが、認めたくなかった。認めたくなかったから、こんなに軽はずみな発言ができてしまうのだ。ほら見ろ、女は心底侮蔑的な目を曹丕に向けている。その立場で、人ひとりを果たして救うことができるとでも言うのだろうか、お前は。そう言わんとしている。
「……きっと無理ですよ。私はあなたたちとは違う。生きるべき場所、知っている言葉、何を食べるのか、どうやって生計を立てているのか、全てが……だから、いいんです」
「強情な女だ。この私が全て与えようと言うのだ。私の言葉を拒まない人間などいない」
「そんなに自信がある人は、こんな怪我をしてうちに転がり込んではこないでしょう」
「ふ、お前の言う通り……かもしれぬ。面白い。さらに興味深くなった」
「私はあなたに興味なんてありません。早く帰るためにも眠ってしまってはどうですか。こんなところにいても何にもならないでしょう。あなたのようなお人ならば」
半ば無理やりといった形で、曹丕は女の手によって体を再び寝台へと預けることになった。
私は諦めぬ。曹丕は目を閉じた。一刻も早く戦を終わらせて、この女を奪いにやってくるのだと決意した。
「我が君」
愛しい妻の声で曹丕はうたた寝から目を覚ました。
「……甄」
「私が気づいた時には既に、座ったまま眠っておられましたから……声をかけるべきか、迷いましたわ」
「いや、いい……」
「どうかしまして?」
「私はここを立つ。向かうは山崎の方面だ」
「まあ、今から? そんな遠くまで……お一人では危険ですわ。すぐに護衛を呼んできましょうか」
「……いや、いい。私一人でないと意味がない。甄よ。私はな、今すぐに手に入れなければいけないものがあるのだ」
「……お聞きしても?」
「女だ。お前のように美しくはない。だが欲しい。あれはきっと役に立つ。この世の行く末のためにも」
「……我が君がそこまで仰るなら。仕方ありませんわね。我が君の心を射止めしその女性……私も気になりますわ」
曹丕は多くを語らなかったが、そのようなことは今までも多々あったので甄姫は受け入れることができたのだろう。
曹丕は彼女に感謝して発った。
あれは夢の中の光景だった。現実ではない。曹丕は敗北などしていない。山崎の戦いでは曹操が帰還し、勢いを得た魏軍はそのまま遠呂智を倒した。
だがあの夢で見た女は間違いなくあの場所にいる。自分が迎えにいく必要がある。きっとあの女は自分を呼んでいるのだ。あの夢の中で曹丕は、自分が直接動けるかは分からないと言った。だがあれは曹丕本人が窮地に立たされていたからだ。今は違う。このおかしな世界は、一定の秩序のままにここにある。今ならば曹丕自らが動くことなど雑作ない。
曹丕はそう確信していた。夢は夢、所詮この現実には何の意味ももたらさないのだと、言い切ることはできなかった。
そうと決まれば休む暇などなかった。決戦の前哨戦となった山崎の地から離れた所にある森の中。曹丕は馬を走らせた。夢の中とは違って敵に追われる心配はない。遠呂智の脅威が消えた今、表立った反乱は起こっていない。精々警戒するのは賊や獣だけだ。最も、夢で見たあのままであるのならば、賊も獣も気配すら感じられないのだろう。それは現実ではないはずなのに、本当に起こった出来事であるように鮮明な光景が曹丕の脳裏に蘇る。
無我夢中に駆けているのは、あの頃と同じだった。時間の感覚などとうに忘れている。そうしてどれ程経過したのだろうか? 記憶、それも現実でないものを頼りにしているのだから、簡単に辿り着けるはずがない。
だが、曹丕の執念が為せる業だったのだろうか。今、彼の目の前には夢と変わらぬ家屋がぽつねんと立っていた。
夢であって、なおかつそれは現実のものだった。その様子は大きく変化したようには見えない。周囲に生茂る木々の様子も、葉で日が差し込まず夜ではないのに薄暗い辺り一帯も、全くと言っていいほど同じだ。曹丕は馬を繋ぎ扉に手を触れる。やはり鍵はかかっていない。
勢いよく扉を開け中に入った。そこには夢で見た通りの、だがその記憶よりもやせ細った女がいた。
「あ、……」
女は小さく声を上げた。何か奇妙なものを目の当たりにしたかのように、目は見開かれ体がふらりと揺れる。明らかに夢の中で曹丕を初めて見た時の反応とは異なっていた。
「私を知っているな。約定通り、お前を我がものとする。悪いようにはしない」
「……本当に来るなんて。夢の中だけだと思っていました。夢の中でも、私は救われないのだと思っていたのに」
「私は約束を違えぬ。たとえ夢の中であろうとも。……安心しろ、当面は争いなど起きぬ。私はそれを保つだけの力は持っている」
「……そう、ですか。あなたが何者なのか、名前すら知りませんが……こんな見ず知らずの女を連れていきたいと言うのならば、従いましょう」
「やけに素直だな。夢の中では抗っていたというのに」
「……生きるためには、もう形振り構ってられなくなりましたから」
女は痩せていること以外は何ひとつ変わっていないようだった。夢で見たあの日の光景から時間は経っているのだと推測できる。夢で言っていたように、ここにある食料は減っているのだろう。
他に何かないのか? 曹丕は立ち尽くす女をそのままにして部屋を物色する。女は慌ててその背を追った。
「お前は言った。金など食べられないと。……この建物が一体なんであるのか、お前だけでなく私にも理解が及ばぬ事だ。だがな、ここにはなぜだか知らぬが大量の貨幣、そして金銀がある」
曹丕でさえも驚くほどに。これだけのものがあれば、この女どころか一体何人の人間が食べていけるというのだろうか? だがそれはかつて女が言ったように、食べられるものではない。最後に残るのがこれだとして、飢えたその先に欲することになるのは金銀財宝ではなく食べ物でしかない。
「私、それがあってもどうにもなりませんから。あなたの好きなように……すればいいでしょう」
これは何を暗示しているのだろうか? 女は何も言わない曹丕に困惑しながらもその様子を見守っている。
何か正解が定まっているわけではない。だがこれは、権力に溺れた人間の行く末を示しているように曹丕には思えた。
金だけがあっても、意味がない。その金をつかう場がなければ、生きていくことさえできなくなるのだ。何かがあっても、満たされなければ意味がない。それは金だけではなく、権力も同じ。
この世界で、曹丕は文字通りの覇者となった。生死が分からなかった曹操が帰還した後も、彼は自らが再び表に立つことを望まずに曹丕に全てを託したのだった。曹魏を束ね遠呂智を倒した曹丕が、欲に溺れることのないようにすることが目的だったのかもしれない。この女がそれを望まずとも、世界はそう望んでいたのかもしない。曹丕が第二の遠呂智になることを阻止するために。
それならば、曹丕が選ぶことができる道はただ一つだ。
「……いや、いい。これらは捨て置く。……お前だけを我が国に連れていく。着いてくるがいい」
「……はい、あ」
「どうかしたか」
「これ。きっとあなたには理解の追いつかないものだと思うんですけど……これを暫く見続けてくれませんか」
「……ああ」
女が出したのはスマートフォンだった。カメラの画面へと切り替わり、二人の顔が映し出される。曹丕がこれを知っているはずがない。だが従わない理由もなかった。自分の顔がそのまま小さな板に写っていることは何とも信じ難いものだが、未来から来たというこの女の言うことであるから、深い詮索はしなかった。
小さくシャッター音が鳴る。女は確認せずにスマートフォンを仕舞った。仕組みが気にならないわけではないが、今すぐに聞き出す必要もなかった。
「ありがとうございます。……もうすぐこれ、使えなくなりますから。もう大丈夫です」
曹丕は頷く。そうして部屋に残っている貨幣や金には目もくれず歩いていった。
私はお前という種が咲き誇る手助けをするだけにしよう。
曹丕は自分の後ろを着いてくる女に対して、そう決心した。覇の道はまだ遠いものだと思った。