Dance On The Moon
その女と初めて会った于禁の感想はというと、曹操の縁者であるにしては無知でありすぎるのではないか、というものだった。最低限の礼儀はあるにせよ、曹丕のように何かの才があるようには見られなかったし、箱入りの娘であるにしても世間には疎すぎるのだ。
何しろ、字の読み書きすらまともにできたものではない。それを日常生活で通じる段階にまで引き上げろというのが、曹操から于禁に課された命令だった。暇なときだけでいい、無理強いはしないという条件の元だったが、曹操の命令を無下にできるはずもなかった。
なぜ私が。そう思いながら于禁は執務の傍ら、女が提示された文字を見ながら書き写しているのを見たり、彼女の分からない文字があれば読み方を教えるという作業に勤しんでいる。
はっきり言って、効率が悪いという一言に尽きる。于禁よりも暇な人間はいるはずであるし、そのような者に頼めば女にとっても早く読み書きを習得することができるだろう。曹操のことも分からなかったが女が何を考えているのかもよく分からなかった。
「……于禁殿。お願いがあります」
作業の途中で、女は手を止めて于禁に顔を向けた。無知ではあるが、怠惰な人間というわけではなさそうだ。そう思っていたのは彼女がいつも最低限のことしか話さず自分のやるべき事を務めていたからである。曹操といる姿を見ていても、それは変わらないようだと思った。だから、いつにも増して真剣な眼差しを向ける女の言葉を聞かないという選択肢は存在しなかった。
「私にできることならば」
女はふっと笑った。いつも何かに怯えているように強ばった顔が緩む。そのような表情をさせているのはひとえに自分の自他共に対する厳しさゆえだ、と于禁は思っていたため少し面食らった。曹操やその血を濃く受け継ぐ曹丕、そして親戚筋にあたる男曹休といった、彼ら一族の浮かべる笑みとは似ても似つかなかった。
「ありがとうございます。……私の名前、本当は別にあるんです。今度からは乙女と、呼んで頂けますか。……曹操様には、言わないでくださいね」
「……は、では、乙女殿、と」
「……ああ、とっても嬉しい。久しぶりに呼ばれました、その名前を」
僅かに頬を染める女を見て、于禁はそれ以上なんと言えば良いのか分からなかった。
これが良い事なのか悪いことなのか。どちらにせよ于禁は彼女の申し出に是を示すしかなかった。そういう立場でしかない男だからだ。彼女の私事を深く知るつもりもなかった。曹家に連なる人間であるはずの彼女には、何か大きな秘密が隠されているのかもしれない。それを知りながらも、乙女はおろか曹操にもその正体を詰め寄ることはなかった。ただ責務を果たすだけだと于禁は思った。
乙女と彼女は言った。その女の本当の名を知ってから、初めての「勉強会」だった。
以前に会った時と、彼女は何も変わっていないようだった。普段何をしているのかも詳しくは知らないままだったが、曹操が時折挙げる話によれば、于禁に大層感謝しているのだということだけは知ることができた。きっとその感謝が彼女の秘密を受け入れたということだと曹操は微塵も思っていないのだろう、彼女の偽名と思しき名を曹操は呼び続けていた。
「于禁殿」
この字は何と読むのですか。時々投げかけられるその言葉も、幾度と聞けば執務を妨げるまでもなく、それすらも自然な流れとして執務に組み込まれているような気がした。これまでは執務を途絶えさせるだけでしかなかったそれも、今はどうとも思わない。だからきっと、今回も同じように分からない箇所があったのだろうと于禁は思った。
「この字は、」
「いえ、そうではないのです……ごめんなさい。また、聞いてほしいことがあるのです」
「……何なりとお申し付けを」
前回と同じだった。本当の名を呼んでほしいという願いは簡単に叶えることができる。だがいくら于禁とはいえ、全ての願いを聞くことはできない。しかし、于禁の言葉に笑う彼女はやはり曹操と二人でいるときに覗かせていたような表情を凌駕するほどに可愛らしく目に映るのだ。それを見れば、思わずどんな願いでも聞いてしまいたくなるようだと于禁は感じたが、慌ててその感情を胸の奥底に隠しこんだ。
「于禁殿。そう改まった話し方じゃなくて、もっと……そうですね、あなたが普段部下に接するような話し方で、私ともお話ししてくれませんか」
願いそのものは、前回のものと同じく大したものではなかった。だが、それを実行できるのかと言われれば、そう簡単にできるはずもなかった。彼女はその立場に相応しい待遇を受けるのが当然であり、臣下はその立場を越えるようなことはできないのだ。
「あなたのようなお立場の方に、そのようなこと……いたしかねます」
「……私、本当の名前を言いましたよね。名前と同じように、この身分も本当のものではないのです。曹操様は私を拾ってくださっただけ」
きっと彼女は曹操の親戚筋にあたる人間などではない。薄々気づいていたから、さほど驚くべきことでもなかった。むしろ、そう打ち明けられたことにかえって安心する。しかし、他家の人間を養子にするなどありふれているし、血が繋がっていないということなどは于禁の忠誠心を揺るがすものにはならない。とても部下に対するものと同じ態度でいるなど、できるものではない。彼女にとってはそんな理由、言い訳にしかすぎぬのだろうが。
「それが真実だとして……あなたが曹家に連なる人間であるのは皆が知っている事実。私一人がそのようなこと、お受けすることはできかねます」
「本当に、私……あなたが思っているような人間ではないのです。曹操様の親戚だって、皆が知っているから、曹操様を相手にするときのように皆は私を見る。けれども私はそんなに高貴な女でも何でもないのです。だから、お願いします。こうして二人でいるときだけでいいのです。私のことを部下のようだと思えないなら、それでも構いません。対等に接してくれるのならば、それ以上のことは望みません」
「…………」
「お願いします、どうか」
于禁はため息を堪えて言った。
「……本当によいのだな」
「はい。こうして二人でいるときだけで、構いませんから、ね」
それで、この人の笑った顔を見ることができるのならば。お許しください、殿! 于禁は心の中でのみ曹操に謝罪した。嬉しそうにしている彼女の本当の意図を知る術はない。踏み込む手段もない。だがもっと彼女のことを知りたいと于禁は思ってしまった。そんな自分をどうしても戒めたいという気持ちが働いてしまったのか、その日于禁は彼女の名を呼ぶことができなかった。
「私、曹家の人間としてあるべき力を備えることが本当にできるのでしょうか。それが、心配で仕方ないのです」
于禁と乙女の勉強会は依然として続けられていた。近頃は字の読み書きだけでなく、曹家の人間として持つべき教養も彼女は学ぼうとしていた。実のところ于禁は軍事ならともかく詩となってはそこまで造詣が深いわけではなかったのだが、結局彼女の要望で二人はここにいる。彼女の心配事は切実なものだった。
「……乙女。お前の努力には、目を見張るものがある。この調子ならば、気に病む必要もないだろう」
慣れというものは恐ろしいものだ。あれだけ本当によいのだろうかと葛藤していたものの、結局于禁は敬語を使うこともなく乙女と話している。彼女が喜んでいるからこうしているわけであるが、他の者に目撃されたならばどうなることか。もっとも曹操たちが周囲にいるときにはこれまで通りの口調を使っているわけなのだが。
「そう、ですかね……私も誰かのところにお嫁に行かなくちゃならない日が、きっと来ますよね。それまでには何とかしないと、と思っているのですが、どうにも……」
「一日でどうにかなると思わないことだ。お前が勉強していることは少しずつでも力になっているはずだろう」
「ありがとうございます、于禁殿。……やっぱり一人で生きていくのは、難しいですよね、この世界だと……」
「何か気掛かりなことでもあるのか」
乙女は口を噤んだ。言いたくないことがあるのならばそれでいい。無理に立ち入るつもりはない。今まではそう思っていた于禁だったが、彼女と自分の間にのみ交わした約束といい、こうして二人でいることを許され続けているこの状況といい、この現実というものは于禁に心境の変化を及ぼした。ここまで彼女に何か隠されたものがあるということを知りながら何も気にせずにいるのは、それこそ不誠実なことなのではないかと。
「何を言っても、信じてくれますか」
「……ああ」
今更退く必要などあるまい。乙女はよかった、と小さく呟いた。どんなことが話されたとしても、彼女と過ごす時間を隔てる材料にはならないだろう。
「私、この時代の人間ではないんです。だから……何も分からなかったままの私を拾ってくださったのが曹操様というだけで……だから、私……何も知らないんです。曹操様の元を離れても大丈夫なようにと思ってはいるんですけど、なかなか……すみません、こんな話。やっぱり、信じがたいですよね」
「いや、信じよう」
「……本当ですか? いえ、自分から言い出したことなのに疑うのはおかしいですよね……でも驚いているのです。そんなに簡単に受け入れてくれるなんて」
「実のところをいうと、お前の出生にはまだ何か隠されていることがあるのではないかと疑っていた。未来から来たなどこれまでの私なら一蹴していただろう。だがお前が嘘をつくとは思えぬ。そう感じる程度には長く時を過ごしている」
無知であり常識すらろくに知らない女。見た目の年齢以上に幼さを感じさせる振る舞い。名前が二つある。そしてそんな立場ではないからと于禁に対等な関係を望んだこと。全てこの世界に馴染みがないがためなのだ。そう考えると不可解な彼女の一面全てに納得がいく。
「そう、ですか……自分でも驚いています。于禁殿に秘密を打ち明けるなんて、初めは思っていませんでしたから。でも、やっぱり嬉しいです。于禁殿も私のことを信頼してくださっていて。だからもし私が未来に帰れなかったとしましょう。でもここで生きる以上、殿方の後ろ盾がなくては生きられませんから……どこかに嫁いだとしましょう。于禁殿以上に自分を曝け出してもいいと思う人がいるのか……不安になるのです」
ならば私の元に来ればいい。喉元まででかかったその言葉がそれ以上発されることはなかった。どうしてなのかは于禁にも分からなかった。あくまでも自分は彼女の師であって、夫となるべき人間ではないのだ。無垢な彼女と並ぶには、己の手は汚れていると思った。彼女はそれを知らない。だが知らないままでいてほしいからこそ、何も言うことができないのだ。
その日は何か所用があるらしく、乙女の来訪は遅れることになっていた。だがそれにしても遅い。こちらから迎えにいってやるべきだろうか。だが入れ違っては却って面倒だ。そう思っていても自然と足は動くもので、外に出ると乙女は空を見上げたまま立っていた。良からぬことに巻き込まれたわけではないということに安心するが、なぜこんなところに、と不思議にも思った。
「于禁殿。遅くなってしまってすみません」
「……お前に何かがあったのかと思ったぞ」
「ふふ、于禁殿に心配されるかもしれないとは思っていたんですけど。月って、いつの時代でも綺麗だって思ったんです。私の住んでいたところと変わらずにそこにあるんです」
「月が、か。……私にはあまり、その良さは分からぬ」
良さは分からない。だが、時を隔てても変わらないものが存在するということは、それ自体が美しいものなのかもしれないと于禁は思った。彼女の住んでいた世界は全てがこの世と異なっている。話だけを聞いていても、全く想像すらつかないと感じることが多かった。だが月は同じなのだ。変わらぬままにそこにある。
「良いとか悪いとか、そういうものでもありませんよ。……もしですよ、もし私が于禁殿と離れ離れになってしまっても、月は絶対にあるんです。月だけは変わらないんです。だから、私がいなくなったら……この空の、月を見て、思い出してくださいね」
彼女は于禁と目を合わせることなくただ月を眺めていた。
「……私と共に歩むことは、できぬというのか」
求婚などできるはずもない。彼女は弟子のような存在で、自分の隣に立ち続けてもいい人間ではない。そもそも情を抱いていたとして、それがこの世にありふれている夫婦間のそれと一致しているのかどうかを于禁が判断する方法はない。だが于禁の本心は、自分ですらも気づかぬうちに零れ落ちていた。彼女がこの言葉をどう受け取ったのかは、分からなかった。
「そうなれば一番いいのかもしれません。けれどこれからの未来を考えると……于禁殿も辛いだけですから。どうせ別れてしまうのならば、幸せな思い出と共に消えてしまいたいのです。そうして月を見上げるのです、かつて抱いていた憧憬とともに」
「なぜ未来が辛いものであると……」
そこまで呟いて、于禁は気づいた。……わざわざ尋ねるまでもない。彼女が何も知らないのはこの時代の言語や文化。時が経てば廃れていき、今や書物の中でしか確認できないことがある。それは人も、世の移り変わりと同じ。彼女は、未来において相応の教育を受けてきたのだという。つまり、無知だと思っていた彼女がこの先の未来を知らないのだとまでは言い切れないのだ。于禁自身が辿ることになる末路を知っている可能性も、否定できない。皆まで言わずとも、彼女が何を言いたいのか分かってしまった。
「本当に全てが終わった先、あなたが私を待っていてくださるのならば、私がここにいることが許されるのならば……私は全てを捨ててでもあなたの元に参りましょう」
「いつまでも待とう。……お前の気が済むまで」
振り返った乙女は、悲しみを湛えているかのような表情をしている。「月が隠れても決して絶望しないでください」と言った彼女の真意がそれ以上語られることはなかった。