The River
「王異。酒を呑むのか寝るのかどちらかにせぬか。……事情は分かるが」

司馬懿は仰向けになり、膝を立てながら寝ている王異に声を掛ける。その王異の近くには酒が半分ほど注がれた杯がひとつ。半分しか酒が注がれていないのではなく、注がれた酒を除いたものは全て飲み干してしまったのだった。彼女が酔い潰れるなど、天地がひっくり返りでもしない限り有り得ないことだ。そうは言っても傷心の部下のことだから、と思って司馬懿は様子を見に来たのだが、上から見下ろした彼女はいつもと寸分変わらず、どれだけ呑んでも赤くなることのない顔を司馬懿に向けていた。

「今動くと、涙が零れてしまいそうになるのですよ、司馬懿殿」

少なくとも、司馬懿は王異が涙を流す姿を見たことがなかった。一族を滅ぼされた時に涙は枯れました。そう呟いた王異の横顔は今でも覚えている。今もそうだ。特段、彼女が涙を流していたようには思えない。だが彼女の言葉が嘘であるとは思えなかった。

王異の友人が昨夜亡くなった。流行り病ということであったが、薬を飲んでも快癒することはなく、その生涯を閉じた。司馬懿はこの部下とその友人がどのようにして友誼を深めていたのか、正確には知らない。

未来から来たと宣う女だった。不審な動きと言動を見せるその女を引っ捕えよと命令したのは司馬懿だったが、そこに静止をかけたのが王異だった。何を勝手なことを、と司馬懿はこの多くを語らない部下に憤慨したものだが、彼女のその一言があったおかげで女は生き永らえることができた。……それも、もう過去のこととなってしまったのだが。

「……ならば、酒はもう呑む気はないと。それならば越したことはない。気が済むまでそうしているといい」

司馬懿は、王異にかける言葉を知らない。人の心に寄り添う術を知らない。女には、そして王異には同情するものだが、どうすれば彼女の心が休まるのかまでは、分からなかった。司馬懿にとっての女は、最後まで得体の知れぬ人間だったという表象にしか過ぎないからだ。だが王異はかえって司馬懿の、本質を避けるような物言いに気を良くしたらしい。僅かに口角を上げて、「何とも司馬懿殿らしい慰め方ですね」と言った。

王異に対する懸念が消えたわけではなかったが、変な気を起こしているわけではなさそうだということに安堵した司馬懿は背を向けようとする。だが王異の司馬懿の名を呼ぶ声に再び振り向いた。

「何だ」

「……話を聞いて頂けますか。乙女がいない夜を越えるのは久方ぶりなものですから。私を慰めるためだとでも思ってください」

「……分かった」

そう言われては断ることもできない。司馬懿は王異の隣に座る。開け離れた窓から空を見ると、星が良く見えた。心做しか常よりも星の数が多いように目に映る。それは川のようだった。

王異は未だに仰向けになったまま、同じようにして空を見ている。司馬懿が自身の頼みに応じてくれたことに安心したのだろう、ありがとうございます、と小さく呟いた。


司馬懿の時折見せる優しさは、好ましいものだ。上官として尊敬できる人間だとずっと思っている。そのようなことを彼に直接言ったわけではないが、自分の言葉を受け入れ友人……乙女のことをそれ以上悪く広めるようなこともせず、周囲から彼女に対する圧や不審感を牽制したことも感謝している。だが司馬懿は、あくまでも上官としての関係だ。対等に話せるような相手ではない。

対等に話せるような人は、とっくにこの世を去っている。西涼の死神によって、皆散っていった。その頃の思い出に縋るしかなくて、死神への恨みを募らせながら日々を生き抜いてきた。その感情はもはや、恋のように体を蝕んでいく。だが、本当の恋は、そうではないのだと。そして、もう得ることのなどないと思っていた温もりを再び教えてくれたのが乙女だった。

初めは同情のつもりだった。司馬懿にあらぬ疑いを掛けられていた乙女が、間者でもなんでもないのだということを王異はそれとなく感じ取っていた。自分と同じ、つまりこの世界で孤独に生きることを運命づけられた人間なのだということが、王異に伝わってきたのだった。彼女が何も言わなくとも、独りで先の見えない暗闇をさ迷っているのだということは容易に分かった。自分も同じだから。その一心で彼女に近づいた。哀れもうと思った。全ては自身の裏返しだ。それは鏡の中の自分に話しかけるようだった。

だが、乙女は鏡の中の自分、つまり王異のように誰も恨むことなどせず、過去に思いを馳せることもせず、ただ自らの運命を受け入れていた。

「家族の元に帰りたいとは思わないの?」

ある時の話だ。未来からたった一人で、文化も何もかもが異なるこの地にやってきた彼女に、王異は言った。王異には、もう家族はいない。乙女はそれを知っている。独りで寂しいわよね、私も同じなのよ。だから、仲良くしましょう? 王異はそんなことを囁いて彼女に近づいたからだ。

帰りたい、会いたいのだと彼女が言えば、会いに行ける家族がまだ生きているだけいいじゃない、と嫌味でも言おうかと思った。帰る方法は分からない。初めからそんなものは存在しないのかもしれない。そう分かっていても、まだ自分よりは救いのある状況だ。彼女とは同じであって同じではない。彼女の家族は殺されてなどいない。王異の心境は複雑だった。彼女を慰めたいのか嘲笑いたいのか、それとも自分と同じような女が自分と同じではないことを認めたくないだけなのか。分からなかった。

「初めはそう思ったこともあったけど。王異がいるから、まだ帰りたくないな」

「私が……? こんな女といてもつまらないだけでしょう」

優しく、接してあげているつもりだった。打算のようなものも含まれていたのかもしれない。だが心の底から乙女のことを思いやっていたわけではなかった。自分よりも辛い境遇を今まさに享受している彼女を見て、安心したかっただけなのかもしれない。王異から見た乙女という女は、どこにも居場所のない哀れな女だったからだ。王異には、少なくとも居場所だけはある。この国は、そして司馬懿を始めとする人間は王異の能力を認めている。乙女にはそれすらない。

「ううん。……私も王異と同じよ。だって、自分の小さい頃を知っている人なんて、この世にいないのよ。私以外の、私といた人はもう皆いなくなったものとして私の中で扱わないといけないの。そうして自分の感情を殺しているからこそ、私は私でいられる……でも、家族を愛していた気持ちは、どうやっても消えない。だからこそあなたがいてくれて、本当に良かった。好きよ、王異。あなたがいるから、私は自分を壊さなくて済んでいる」

「……そう。私と同じ……そうよね、愛しているわ、乙女。私も……」

死神への執着が恋にも似た感情を呼び覚ますように。乙女を通して回想する過去の記憶も、そして乙女自身へ抱くこの哀憐、若干の羨望も、紛れもなく愛なのだと王異は初めて気づいた。自分と同じような存在である彼女。本当に欲しかった言葉は、「家族の元に帰りたい」というものではない。「王異と一緒にいたいの」その言葉が欲しかった。ただそれだけのことに気づくのが、遅すぎたのだった。乙女を離したくはない。元の世界に戻りたいなんて、そんなことを許せるはずはない。せっかく掴んだ光だというのに。その想いが強すぎるからこそ、素直な言葉が浮かばなかった。たったそれだけのことだったというのに。

乙女が病に倒れてから、王異は欠かさず彼女に会いにいった。そうして、無事を祈ると同時に乙女に話をせがんだ。武人の直感というものは、侮れない。王異は心のどこかで、乙女はもう助からないのではないかと思ってしまった。そんなはずはない、と思いたかったものだが勘を捨て切れることもできない。それならばと思って、自分と同じような存在である彼女の意思を、思想を、全てを受け継いで行こうと王異は考えたのだった。事実、彼女の予感は当たった。乙女は「同じ人間でも、その生まれた時代や場所によっては、普通だったらすぐに治るような病でも太刀打ちできない場合があるの。私はきっとそれね」 と言って薄く笑った。

そんな彼女が話した中の、ひとつの話にしか過ぎない。だがそれは王異の心を占めた。そんなものがあった。


王異は司馬懿ではなく、未だに窓の外で輝く星を見ながら話し始める。流れ星が刹那、流れた。

「乙女が話してくれました。私たちは死ねば川を渡らなければいけないのだと。そうしてから、生前に犯した罪に応じて次の生が決まってゆくのだと 」

「川?」

「はい。私の故郷の皆も、その川を渡っていったのでしょう、と乙女は言っていました」

王異は良く覚えている。「仏教の考えってこの時代にはもう伝わっているはずだから……あと何十年かすれば、もっと一般的な思想になるかもしれない」乙女は確か、そう言っていた。そんな未来のことを知っているというのに、それでも人の死後のことは曖昧なままであるらしい。なんだか不思議だと王異は思った。

「ならば、乙女も、その川を渡ったと」

「はい。きっとそうなのでしょう。乙女は、私がやって来るまで川を渡らずにいると言ってくれました」

王異は体を起こした。窓から差し込む月明かりが彼女の白い肌を僅かに照らした。

「涙が零れるのではなかったのか」

「私の流す涙で川ができるのならば、それでも構いませんから」

「……王異。良からぬことは考えるな」

王異は、きっと司馬懿が自分を誤解しているのだと思った。比喩のつもりだったのだが。王異は冗談の通じぬ司馬懿に、ふっと頬を緩めた。

「冗談です。安心してください、司馬懿殿。私はあの死神の首を掻き切るまでは死ねません。以前の私ならばきっと、復讐を遂げれば私には何も残らないのだと思っていました。けれども今は違う。最後まで懸命に生きて、その先でまた、再び乙女に会いにゆくのです。私はそう約束しましたから。軽率にこの身を散らすようなことはしないでしょう」

それならば、よい。司馬懿はまるで娘を案じるような目を王異に向けた。

「お優しいですね、司馬懿殿は」

司馬懿自身には、きっとそのような自覚は毛頭ないのだろうが。乙女もそう思っているはずだ。王異は彼女が司馬懿に対して何も恩を返せなかったと言っていたことを思い出した。






それから月日が経ち、王異は戦に出陣した。乙女が亡くなってからは初めての戦だった。だがここである問題が起こった。

王異が率いている部隊が壊滅的な状況に陥っているということを聞き及んだ司馬懿はその知らせを持ってきた男を睨み、なぜそのような事態になるまで私に知らせをよこさないのだ、と酷く怒りを顕にした。部下への怒りは勿論のことだが、王異に対する憤りもある。本当のところはどうだか分からないが、あのような会話を交わした後の戦だ。戦に私情を持ち込むことはしない。その言葉を彼女の口から聞いた頃から信じ続けてはいるが、今のこの状況からはそれを信じても良いものなのか。やはり彼女に限ってそのようなことは、と思いつつも明確な答えは出なかった。

司馬懿の送った援軍が幸をなしたようで、王異達の瓦解は已の所で食い止められた。だが被害を被ったことは目を背けることができない現実としてそこにあったし、王異自身も大怪我を負った。一時期はその意識すら危うい状況だったと聞き司馬懿は肝を冷やした。まるで乙女が「川」に引き込もうとしているようにも感じ取ることができたからだ。先日の王異とのやり取りは司馬懿の心を乱した。

そのようなことを踏まえると、司馬懿は彼女を見過ごすことができるはずもなく、見舞いにいかないわけにはいかなかった。彼の足は王異の元へと自然に動き出していた。

「王異。怪我の具合はどうだ」

「司馬懿殿。……わざわざ、ありがとうございます。まさか来てくださるとは思いませんでした。幻滅されたとばかり思っていましたから」

「幻滅? なぜそう思う」

「乙女のことを考えるがあまり、うかつな行動を取ってしまったと思われても仕方ありませんから」

王異の臥せる寝台の傍には花が飾られていた。他にも見舞いに来た人間がいたことを匂わせるそれに司馬懿は安堵した。彼女の体には包帯が巻かれていて、そうでない部分にも痛々しい傷跡が残されていた。

「……確かに、そう受け取ることも不可能ではない。だがあの戦の責任はお前ひとりのものでもあるまい。……お前が無事ならば、それでよい」

王異は少しだけ、口角を上げて笑った。まだ本調子ではないのだろう、彼女の白い顔は一段と白かったが、笑顔は変わっていないようだった。

「ところで司馬懿殿。私の意識がなくなってしまった頃、なのでしょうか。乙女に、再び会うことができました。一時の幻、のようなものでしょうけど」

「……乙女が?」

「はい。川は本当にあったのですね。約束通り、乙女はそこにいました。けれどもまだ私はここに来るべき運命ではないのだからと、追い返されてしまいました。……乙女も、一人で、寂しい思いをしているはず。それでも、ずっと私がこの命を全うするまでをここで待っているのだと、言ってくれました。私は彼女との約束のために、生きなければいけないのです。たとえ復讐という目的を失ったとしても」

乙女が、己の抱く寂しさから王異を引きずりこもうとしているのではないか。司馬懿はそのようなことを考えてしまっていたわけではあるが、どうやら杞憂だったらしい。所詮幻、それは現実のものではないのだろうと頭では分かっていても、王異の言葉を信じたくなってしまう。司馬懿は自らの心にもそのようなことを感じ、享受する一面が残っていたということに驚いた。だがそれが、こうして己の身で地に足を付け呼吸している、生きているということなのかもしれなかった。


その日、司馬懿は夢を見た。そこには乙女がいた。本当にわけが分からなかったのだが、紛れもなくそこにいたのは乙女だった。

川など、どこにもないではないか。そもそもここは一体どこだというのか。司馬懿はその頭脳をこねくり回して考えたが、夢である以上なんとでもいうことができる。司馬懿は考えるのをやめて乙女を見た。振り返った彼女は、司馬懿と初めて会った頃と同じ姿をしていた。

「なぜ私に会いに来た?」

司馬懿がそう尋ねると、乙女は困ったような表情とへたくそな笑顔を浮かべた。

「もう一度王異に会っても良かったけど、今度こそ私の袖を掴んで離してくれそうにないと思ったから。だって、夢から目覚めないと、軍議に遅刻しちゃうでしょ」

「……今度こそ?」

「王異はきっと強がってると思うけど……ううん、私も強がってる。本当はね。もっとゆっくり話がしたいけど、そういうわけにもいかないでしょ。王異はまだやるべき事が残っているから、ちょっと強引にしちゃった。でも王異が川を渡るのは、ずっと先のことだから。仕方なかった。司馬懿殿も何だかんだでお世話になったから、会えてよかった。王異によろしくと言っておいてください」

「あやつが寝坊したとしても、多めに見てやる。……だから、気が向けばでいい。王異の元にも顔を見せてやれ」

「嬉しいことを言ってくれるのね。……やっぱり王異の言っていた通り。あなたは自分が思っているよりもずっと優しい人よ。王異もそうだった」


翌朝、司馬懿は寝坊した。全く、何と忌々しいことか! そう思ったものだが、その話を聞いた王異はそれまでに見たことがないほどの純朴な笑みを浮かべて笑ったため、そんな些末なことなどどうでもよかった。この部下は、本当によい友人を得たものだと思った。
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