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徐晃には無欲な副官がいる。無欲といえば徐晃も大概ではあるが、その副官、乙女は拍車をかけてそうであるといえる。欲がないということは慎ましいだとか誠実であるとかそういった性質にたとえられることがあるが、そんな徐晃から見ても彼女のそれは常軌を逸しているように感じられる。欲がないということは現状に不満を抱くこともなく、それゆえに裏切るということに関しては何の心配もないということになるのだろうが、それを差し置いても彼女は一般的に無欲な人間の持つような気質とはかけ離れているのだ。人のことをとやかく言うような立場ではないが、彼女を見ていると欲というものは別に悪いものではないのだ、と徐晃は思うものである。

「乙女」

「何でしょうか」

徐晃は彼女の名を呼んだ。忠実な副官は間を置くこともなく声に従い振り向く。

「……その外套、いい加減に新調するべきではないか」

「でも、まだ使えますよ」

乙女の纏う外套は裾が破れていて、裾以外の部分も穴が空いていたり色が褪せていたりする。彼女は度々無茶な戦い方をするせいで、外套だけでなく鎧もすぐに駄目にしてしまうのだった。身を守るものだけではない。体に見合わぬ大きな剣を持って駆け回るものの、鎧の隙間に傷を負って帰ってくることは日常茶飯事だ。はっきりいって、今回の彼女の言葉もなぜそうまで渋るのか、徐晃にはさっぱり分からない。

「本当に使えると、心の底から思っておられるのか?」

「思ってますよ。本当です」

「……」

徐晃はじろり、と乙女のぼろぼろになっている外套を再度見つめる。鎧にも大きな傷が入っているままであるし、これも使い物にならなくなる日はそう遠くないだろう。その時も彼女はぎりぎりまでその惨状を見ないふりをするのだろうということは言うまでもない。

無欲である、というのはこのように自分の衣服、戦装束、武器などに関して一切のこだわりも執着もないというものであった。無欲ですあるということの根拠として分かりやすく彼女の外見を判断材料にしているわけであるが、それ以外のものに金を使っているという話も特に聞いたことがなかった。

「分かりましたよ。……そのうち変えますから」

「そのうち、ではそれを新たにする前に貴公の身に危険が及ぼう。そうなったとして尻拭いをするのは拙者の役目だということを忘れられては困る」

「うーん。手厳しいですねえ。さすがは徐晃殿」

「……金銭の面で問題を抱えているわけではなかろうに」

「まあ、それはそうなんですけどね。確かに徐晃殿が周りからとやかく言われるのは私の主義に反する部分もあるので、きちんと対応しますよ」

「拙者が指摘する前にそうしてもらいたいものだが」

別に、こんなやりとりは今回だけに限った話ではないというのに。徐晃は、軍務に関しては至って忠実でありながらも自らのことには一切の興味を示さず、また自らが周囲に対してどのように認識されるのかを理解しようとしない彼女に常々唖然とさせられる。そうはいっても、徐晃も決して乙女が憎いからといってこのように棘のある諭し方をしているのではない。自らの追い求める武に実直、ひたむきな徐晃をここまで呆れさせ、また若干の苛立ちすら呼び起こされる彼女は稀有な存在だといえる。

二人の付き合いは短くない。短くないからこそ、余計に乙女は無頓着、かつ徐晃の指摘を仰ぐまで自分では何の対処をしないのかもしれない。

そうであったとしても、だ。あまり勝手なことをされると徐晃とて気分は良くない。彼女だけではなく軍内全体の士気にも関わってくるようなことだ。

もっとも、武勇には優れている女である。体格差をもろともせずに敵に突っ込み、大剣を馬上でも構わずに振り回して戦果を挙げて帰ってくる。徐晃が何かを言わずとも最適な判断を重ねて結果を残してくる。そうであるからこその副官ではあるし、日常における素行の悪さに目を瞑ることさえできれば本当に優秀な部下といえる。

事実、徐晃も自分の手の内で収まるには惜しい女だとは思っている。彼女は副官という地位に留まるのではなく、一軍を率いる立場となっても良いはずだ、とさえ思う。

ただそれを簡単に良しと言えない事情もある。結局は素行の悪さ、という一言に集約されるのだが、彼女の勇敢さというものは蛮勇であるという見方もできる。命令はこなしてくるものの、傷を負って帰ってくるのはもはや当たり前となっている。

「死んでないんですよ。ですから、何も心配なんていりません」

そう言って、笑いながら帰陣した日の乙女が辿ってきた地面には血の道が形作られてきたことを徐晃はよく覚えている。鎧の隙間からとめどなく垂れる血は今すぐに相応の処置をするべきほどのものであったが、乙女は徐晃によって強引に止血をされるまでずっとへらへらとしていた。その笑みはかえって狂気を醸し出しているようにも見えた。

今もそうだ。徐晃に何を言われても、笑みを絶やさずにいる。愛想が良いだけだと言えばそれはそうかもしれないが、彼女の無欲さに隠された意味があるように感じられるのと同様、この笑顔を純粋な目で見ることは徐晃にとってもはや不可能なことであった。

……昔はもっと自分を顧みながら戦っていたはずだ。今や乙女の、その恐れを知らぬ戦いぶりには憧れる者もいると聞く。はっきり言うと彼女の戦い方は彼女だからこそ成せるものであるから、迂闊に真似をできるようなものではない。昔のように、お淑やか……とまでは言わずとも、徐晃が苦言を呈することのない範囲で武勇を披露してもらえるのならば、それが一番良い形である。きっと乙女にとってもだ。徐晃はそう信じてやまない。彼女がまだ新兵の頃から面倒を見ていた徐晃は、未だにその頃のまだあどけなさを残す姿をはっきりと覚えている。

「……徐晃殿は、私が死んだらどう思います? やっぱり、悲しいですか?」

「その悲しみを生み出さないためにも、貴公には自らの体を労わってもらわねばならぬな」

乙女は不満げな、面白くなさそうな顔をした。何と答えれば良かったのか、徐晃はさっぱり分からなかった。






つまらぬ誤解を与えてしまった、と徐晃は後悔した。

誤解を与えてしまったというのは、乙女に対することではない。曹操に対することであるのだから、徐晃にとっては一大事だ。

乙女に、一軍を率いる権限を与えても良いのではないかという打診があった。乙女に直接意向を尋ねる前に、徐晃に確認を入れたいと思ったのだろう。曹操直々のその提案に、徐晃は言葉を澱ませた。

単に、今乙女を手放すのは戦略的に見て惜しいということ、そして彼女の戦い方、考え方その他諸々を鑑みた結果、まだその域には達していないのではないか。そう感じた結果であるのだが、徐晃の真面目に乙女のことを考えている様子がよほど鬼気迫るものだったのか、曹操は苦笑いして提案を自ら却下した。

これだけなら誤解は生じなかったはすだ。曹操も苦笑いをするくらいならばここで話を終わらせれば良かったのだ、と徐晃は思ったものだが後の祭りでしかない。むしろなぜこのようなやり取りをしておきながらあのような話を続けたのか。甚だ疑問であった。曹操が語ったのは以下の通りである。

ならば乙女を嫁がせるというのは……あやつは荒っぽい部分も確かにあるが、それも戦場にあるからであろう。質実な生活を送っているようであるし、武人の妻ともなればその生活を補佐するのに十分な働きを見せるはずだ。わしとて、あの者の体に傷がついておる姿を毎度のように見るのは好ましいものではない。おぬしが乙女に対してしかる処置を取っている、ということは知っているが、それでも思うところがないわけではない。それはおぬしもそうであろう……?

そのような事を、曹操は言っていたはずだ。正直な所を言うと、徐晃は自分がこの時どんな表情をしていたのか、何と言ったのかをよく覚えていない。ただ曹操がやはり苦い笑いを滲ませながら冗談だ、と言っていたことは覚えているので、普段ならば彼に見せることなどない、俗に言うならば酷いとしか言いようがない表情を浮かべていたのだと思う。それはあくまでも部下である乙女を手放したくないという思いからであるのだが、曹操の二つ目の提案に対してもこのような態度をとってしまった。曹操は最終的にとんでもなく面白いものを見たとでも言いたげに口角を上げながら去っていったものだから、徐晃は彼を引き留めるべきか迷った。だが今引き留めたとして、何を言ったとしても、全てが言い訳にしか聞こえぬであろうから結局そのままにしてしまった。

恐らく曹操の中では、徐晃が要望を渋ったのは乙女のことを少なからず好いているからだという図式が完成されていることだろう。

何とも情けない話だ。この面白くもなんともない話を、乙女が知らないことを切に願うしかない。

だがここまで考えて、あることが徐晃の脳裏を掠めた。

仮に乙女がこの話を直接聞いたとして、彼女は何を言うのだろうか。

一軍を率いて戦いたいのか、それとも嫁いで家庭に入るのか。これは彼女の選択であり、彼女が決めなければいけないことだ。

なぜ自分がこうまでして、彼女の可能性を閉ざそうとしているのだろうか。徐晃は深く恥じ入った。欲深い、とはまさにこのことなのかもしれない。無欲だ、と周囲に認識されている彼女は何を思っているのだろうか。






「乙女。なぜそのように傷を負っているのだ」

曹操との間に誤解が生じてから、それが解けることもなく日が過ぎた。乙女のほうはというと何も徐晃に言ってくる様子はない。この間、戦があるわけでもなかったので徐晃が小言を漏らすこともない。……そのはずだった。

馬を走らせ帰ってきた乙女は、新調した外套を血に濡らし、手足に包帯を巻いていた。普段から鎧は最小限、軽装を好む彼女のことであるから、常人よりも怪我を負いやすい。なぜそれを分かっていて対処をしないのか。言った所で変わりはないが、徐晃にとっては理解し難いことである。まだ自分で怪我の処置をしているだけマシなほうではあるが、軽率な行動では、と思わざるを得ない。

「散歩していたついでに賊を懲らしめようと思ってですね……思ったより手こずりましたけど、首は取ることができたしたよ」

へらりと笑う乙女は、傷の痛みを感じていないかのように見えた。

「……いくら貴公とはいえ、軽はずみな行ないは軍規にもとるぞ。いくら武勇に優れていても、命を落とすのは一瞬のことゆえ。一軍を率いるならば尚更だ」

徐晃は自身の立場になぞらえて言ったつもりだったが、先日曹操から言われた乙女に関することを匂わせるような発言になってしまったと口に出してから後悔した。徐晃個人の意思はともかく、乙女自身はどう思うのか、分かったものではない。

「あ、殿から伺いましたけど。私、別に今以上の地位はいらないので。今以上に自分以外の人を背負うとか、そういうの、興味はないんです」

「なにゆえ、そう思うというのか」

欲はない。乙女はどこまでもそうだというのだろうか。彼女がこの件を既に知っていたということも驚きだったが、曹操に直接断りを入れたということなのだろうか。

乙女が自分の手元から離れることはないのだろうという事実に安堵している部分もあるようだ、と徐晃はどこか他人事のように感じた。

「こういうことを言うと徐晃殿だけじゃなく殿にも変な目を向けられてしまうと思いますけど……まあ、徐晃殿だけなら良しとしましょう。こうやって血を流して戦うのも、全て無駄。私はそう思うようになったのですよ」

殿がこんな言葉を聞けばなんと思うことか。徐晃はひやりとした。だがその反面、乙女の言葉はそれほど突拍子のないものである気がするものだと、徐晃ははっとした。

「……そうであるからこそ、貴公は自らの命すらも軽く見ている。そう言いたいのだな?」

乙女という人間を支配しているのは、欲がないということではない。全てに対する諦念だ。何をしても無駄だと思っているから、何も求めようと思わない。だから、以前「私が死んだらどう思いますか」 などと聞いたのだ。大切な部下が死ねば、悲しむに決まっている。それは彼女も承知の上で、そうではない別の答えを求めていたのだろう。徐晃の言葉に、乙女は不敵な笑みを浮かべた。

「その通りです。馬鹿みたいに戦って、相容れない人達を蹴散らして……それで本当に世は治まるのか、と私は戦いを通じて思うようになりました。けれども皆、それを辞めようとは思いませんよね。私も今更、軍人を辞めるとは決心し難いところがあります。ですが、こう思うようになったのですよ。私が死ねば、少なからず悲しむ人はいるでしょう。悲しみの連鎖は今までも、これからも続く。ではそれを断ち切るにはどうするべきか? 戦いを辞めれば済みますよね? 私の死を見て、戦うのが馬鹿らしいと思う人がいれば上等です。戦うことは無駄なことだと思う人がいるのならば、死ぬ価値は十分ある」

徐晃を見上げる乙女は挑発的な目を向けている。戦うことを通じて己が使命や目的を果たすことを生業としている徐晃にとっては、ある種の侮辱であるとも言える発言だった。

彼女の言うことも、全てが間違いであるとは言い切れない。だが徐晃は彼女が死んだからといってこの生き方を捨てることなどできないだろう。

「貴公がその命を捨てたとして、戦いは終わらぬ。無論拙者もだ。……貴公がそうやって傷を負うことを厭わない理由はよく分かったが……」

「別に、徐晃殿にそうなってほしいだなんて初めから思っていませんよ。あなたはそういう人だってことくらい知っていますから。でもこうやって、毎回色んなところを怪我して、それでも戦い方を改めない馬鹿な女が馬鹿な死に方をする。それを見てああ、こんなにも戦って馬鹿なことなんだって思う人が一人でもいれば、それでいいのです。あなたがどう思ったとしても」

「……拙者は貴公を失うことなどできぬ」

乙女の瞳が僅かに揺れた。気のせいかもしれない。そう捉えることもできるほど、微細なものだった。饒舌、というわけでもない徐晃の発する言葉にどんな意味が込められているのか。それを容易に読み取ることができるほどには、互いを信頼しきっている。それは、年月を得て変わってしまった乙女であっても、変わらない。

変わらないのは徐晃も同じだ。だがこうした彼女の思想を知ってしまった今、変えざるを得ないものが徐晃に芽生えた。

「徐晃殿。私が今よりも高い地位に立つことが気に入らない。その上私の戦い方も、気に入らないのでしょう。さらに私が嫁ぐことも許しはできないと。……殿から聞きましたよ。あなたがそんなに欲深いだなんて、思いませんでした」

揺らぎながらも、自らを譲るつもりはないのだろう。

欲深い。その通りだと徐晃は思った。清廉さの正反対に位置するそれは、確かに徐晃の内にある。曹操との会話の後に感じたそれは、その時よりもさらに燃えていると思った。徐晃もまた揺らいでいる。その先に見えるものは異なっていたとしても。

「貴公の言う通りだ。拙者は欲深い。今まさにそれを、改めて強く実感した所存……やはり貴公を手放すわけにはいかぬ。部下としてだけではなく、命そのものがだ。どんな手段を取ったとしても失うことはできぬ。拙者のこの気持ちを嗤いたいのならば、そうするがいい。だが簡単に諦めるつもりもないゆえ」

「どんな手段を取っても? まさか、私が戦場で死ぬことができないように閉じ込めるおつもりですか? それとも私の意志など構わずにどこかの男のお嫁になるか。私は自分の子ができたとしても絶対に戦場になど立たせませんよ。馬鹿らしいことに違いはありませんから」

「その両方だ。拙者が貴公を娶れば済むだけの話だろう。戦うという手段を、まずは貴公から失くす。…………話はそれからでござろう」

あ、と小さく声上げて、顔を抑えた乙女は分かりやすく動揺した。徐晃でさえも己の言葉には驚いたもので、いつの間にか冷や汗をかいている。慌てて咳払いをしたが、だからといって撤回に至るはずがない。こんなに不毛な言い争いをしているというのに、さらに不毛な結末へとなだれ込みそうだ。

――欲深くないわけが、あるものか。徐晃も、乙女も、所詮人として生きているのだから、欲を持たないはずがないのだ。

「……私、負けませんよ。……絶対に! こんな世の中を、そこら辺にいるありふれた女と同じように生きるなんて、そんなの何よりも自分が許せない!」

乙女の包帯が巻かれた腕が伸ばされ、徐晃の首元をぐっと掴む。白い包帯には血が滲んでいた。彼女の腕など徐晃にかかればすぐに引き剥せるはずだったが、彼はそうしなかった。その気になれば簡単に折ってしまえるほど、細い腕だ。そのまま引き寄せれば二人の距離はすぐに縮まる。喚く乙女の赤く染まった頬を見ていると、徐晃はさらに欲が沸き起こるのを感じた。自分らしくない、と思う余裕すらなかった。あまり馬が合わない部下、という彼の中での彼女の評価は一転しそうだ。

「最後に勝つのは貴公ではない。……その結果が貴公にとって悪いものではないということを、約束しようではないか」

我ながら強気な発言に出たものだ、と徐晃は他人事のように思った。

「もう、徐晃殿の馬鹿! 」

引っ掴んだ首元を離して、乙女は地団駄を踏みながら背を向けた。普段の彼女からは考えられないほど取り乱している。あのような姿を見るのは徐晃からしても珍しいものだった。

昔の彼女に戻ったようだとぼんやり思う。

曹操の誤解を解く必要はなくなってしまったのかもしれない。徐晃は彼女の背中を見送って、それからやっと赤面した。

とにもかくにも、この乱世を早く終わらせないといけない。眼前に聳え立つ問題から目を逸らすかのように、徐晃は考えてもきりがないことを無理やり考えた。が、それでも徐晃の、彼女に対して一度でも抱いてしまった邪念は消えてくれないのだった。
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