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その男を初めて見たのは戦場だった。どんな戦場であっても一番槍として駆け回る勇猛な男がいるらしい。それくらいしかその男のことを知らなかったから、どんな男なのかと乙女は戦慄していたが、遠くから見る限りは実直に戦っているだけの青年に見えた。

だがその戦いぶりは、少なくとも乙女の目には異様な光景に思えた。武器は鈎という一風変わった金属製のもので、それを両手に構えている。一番槍、という噂に違えぬその立ち回りは凄まじかった。彼の手の内にある双鈎は、単に人を殺めるためだけには働いていない。その切っ先は、腕や指を撫でればそれは容易く吹き飛んだし、手綱を切れば落馬させることもできる。直接の死までとはいかずとも、戦力、そして士気を下げるには十分だ。怪我人というものは死人よりも厄介な存在であるし、彼の戦いというものは理にかなっていながらも残酷であるように感じられた。

遠くからその光景を眺めていた乙女が弓を番える。楽進はそれを知ってか知らずか奪い取った馬に乗って去っていった。敵ながら鮮やかな引き際。これでは命中するはずがない。乙女は弓を下ろした。

恐ろしい男だと思った。乙女が指揮をしていた兵の中にも、楽進に傷を負わされた者がいる。もう助からないであろう、と感じられるほどに血を流してすぐには死ねない苦痛を味わっている者もいる。それならば槍で一突き、そのまま絶命するほうが楽であるに決まっている。だが、不思議と憎い男だ、とまでは思わなかった。それは、楽進自身が怪我を負うことを良しとしている、自らの命さえどうでもいいのだ、と思いながら戦っているように感じられたからだった。もしあの弓が命中していたら、と乙女は考えたが、殺すに値する人間ではないと思ってそれ以上のことは考えなかった。




次にその男と会ったのは、乙女が楽進の主君に降ってからだった。

初めて楽進を見かけた際には殺すには値しないなどと考えていた乙女だったが、辿ることになった現実はむしろ正反対で、乙女こそが命の危機に晒されていた。

楽進は変わらずに、一番槍の名を背負って攻めてきた。乙女は自らの主君に献策したが受け入れられることはない。そんな中で楽進は相変わらずの武勇を見せつけていると聞いた。あの武器が戦場に残す傷跡は凄まじく、彼が攻めてきたと聞くだけで狼狽する兵も多くいた。兵の様子に加えて、主君は話を聞き入れようともしない。それどころか乙女の翻意まで疑ってかかった。裏切り者の烙印を押されるのも潮時だろうか。乙女はその主君と命運を共にすることなく降伏した。悔いの気持ちはなかった。

かつての主君は、その勢いは衰えたとはいえかろうじてその地を堅守している。しぶとい、その一言に尽きる。だがそれも時間の問題であることは明らかだった。新たな主君に実力を認めてもらうために、自分が戦わなければ。……それこそ、一番槍となってもいい。乙女はそう思って支度をしていたが楽進はその様子を良しとしないようだった。

「乙女殿。……やはり、一番槍は、その……私にお任せいただけないでしょうか」

「なぜです。降将の私こそが行かねば、意味がありません。実力不足とは思われたくありませんし、私、弓以外の武器だって使えます」

楽進は果たしてあの頃の乙女の戦う様子を見ていたのかどうか。それは分からなかったが、能力を侮られているようでは困る。乙女がそういうと、楽進は慌てて首を振った。その謙虚な素振りは、本当に戦場で恐ろしいともいえる立ち回りをしていた男だったのか? 乙女はその落差に驚くも、彼が嘘をついているようにも演技をしているようにも見えなかった。これが素であるというのならば、大したものだ。だがそれでも一番槍にこだわる理由が分からなかった。

「いえ……! そうではなく。私の性と、いいますか。とにかく、先陣を切るのは私にしてほしいのです。……申し訳ありません、出過ぎた真似を」

「あなたがそう言うのであれば私は従うしかありません。……ご武運をお祈りしましょう」

「…… 乙女殿。ありがとうございます。では私が先陣を。私はただ、ああやって突撃することしかできませんから。自分のできることを精一杯務める。それだけです」

切り込む姿はさながら獣のようだと思っていたが、その本人は獰猛さとはかけ離れた男だった。必要以上の丁寧さと礼儀正しさが伝わる。一番槍にこだわる理由を直接知ったわけではないが、自らの命を軽く見ているようだ、とは思った。

自分にはできないことだ。乙女は先陣を切る楽進のようにはなれないと思った。この軍にとって乙女は元々敵だった人間だ。中には彼女のことをよく思わない人間もいる。そうであるからこそ力を示さないといけないのに。彼が帰ってきたら労いと感謝を真っ先に述べないといけない。乙女は弓を持って、今自分にできる役目を果たそうと動き出した。




「楽進殿。……その血は」

手にした双鈎には血がべったりと付いていた。敵として彼と出会った時は恐怖でしかなかったものだったが、味方となれば違う。死に限りなく近い怪我を負わされた敵兵を見ても、きっと今の自分は何とも思わないのだろうと乙女は思った。むしろ、士気を削げたのだからありがたいことなのだと思う。そんな己の二重規範には幻滅するものだったが、楽進の真っ直ぐな目を見ているとそれは間違いではないのだろうと勇気づけられるような気がした。相容れない正義を制する手段として暴力が用いられる。そうやってこの世界は動いているのだ。……ずっと昔から。だがその先にはきっと暴のない世が待っているはずなのだ。奇麗事というには血塗られているかもしれない。しかし、こうでも思わないと生きていけない。楽進はどうなのだろうか。

「少し、油断してしまいました……が、これくらいならば平気です。ああ、こちらは私の血ではありませんので、心配はいりません」

「……あまりご無理なさらぬよう」

こうして間近で彼のことを見るまで気が付かなかったが、もう完全に癒えることのない傷も多くあるようだった。

そんなに頑張らなくても、いいのではないか。そこまで言えるほど親しくはなかったから、乙女はその言葉をそっとしまった。楽進のおかげで戦況が有利に動いているのは確かだったし、そもそもの前提として乙女はこの戦に口を出すほどの立場ではない。

「なんとありがたいお言葉……! 乙女殿こそ、その……私が言えるような立場ではありませんが、目の前のあの兵たちの中には、見知った人もおられるでしょう、から……ご自愛ください、どうか」

楽進はどこか感じる後ろめたさを隠すようにして、歯切れ悪く声を発した。

「……優しいですね、楽進殿は。でも、私は平気ですから。それよりも早く手当てをしたほうが」

乙女の境遇を案じての発言だったのだろう。だが 乙女は、元々の主君に対して何の未練もなかった。それよりも気がかりなのは楽進のことだ。いくら慣れているとはいえ、その体が既に傷跡だらけとはいえ、治るはずの真新しい傷ならば、適切な処置をしなければいけない。

「はい……そうですね。 乙女殿の言う通りです」

戦場であるのだから、悠長なことはしていられない。 乙女は手早く楽進の傷の当てをして再び赴く彼の姿を見送った。

彼のように敵陣に切り込みたいのだという思いは消えることがなかったが、楽進がしきりに「あなたは後方支援に回ってください。それだけでよいのです」というものだから従うほかなかった。彼が戦の全てを掌握しているということでもない。彼の独断だろうし、従う必要があるのかといえば分からなかった。だが自分に何かがあれば彼の夢見は悪くなるだろうと思って素直に従った。

元々は敵だったのだ。裏切る可能性を視野に入れているからこその判断なのだろうか。それ自体は覚悟の上だった。疑いの目を向けられていても不思議ではない。だがあの簡単な嘘すらつけなさそうな男の後ろ姿を見ていると、まだまともに話すようになってならそう日は経っていないというのに心の底から彼の無事を祈りたくなったし、自分が懐疑の目を向けられているのは耐え難いと思った。表向きの、言葉だけものだけではない。こうやって比較的安全な位置にいるだけでなく、彼を守りたいという気持ちを持つこと自体は悪くないはずだ。

乙女はそう思いながらも結局彼の言うことを律儀に守ってしまった。楽進は再び帰ってきた後、自分のほうが泥と血に塗れているのにも関わらず 乙女の無事を喜んだ。

「そんなに心配しなくても、大丈夫ですから。楽進殿のほうが危険を犯しているのに」

「いえ、私はこれくらいしかできませんから。平気です。あなたが無事でいてくださるなら、それ以上の喜びはありません」

どうしてそんなに優しい言葉をかけてくれるのだろう。どうしてまだ深く知らないはずの彼のことを、自分自身もこんなに想ってしまうのだろう。 乙女は戦いの後、天幕に入って座り込みながら考えたが特に答えは思い浮かんでこなかった。

初めは恐ろしい男だ、としか思わなかったというのに。体を休めるために横になって目を閉じたが、その日は全く休まることはできなかった。だが悪い気はしなかった。







それからというものの、この軍内では新参者である 乙女に対して、楽進は物怖じすることなく語りかけた。戦いの中で次第に 乙女は実力を認められるようになった。初めの頃にはあった、降将であったことに対する揶揄する声もない。かつての主君は倒れたが、特別な感慨はなかった。滅ぶべくして滅んだのだとしか思えなかった。

相変わらず楽進は乙女が前線に出ることを極端に嫌っている。一番槍を掲げることのように戦場では勇猛果敢だったが、平時は至って穏やかな彼が意地でも我を通そうとするのがそれだった。

そこまでして乙女が危険に晒されることを良しとはしないというのに、自らは厭わない。同じようにして楽進を守れるものならばそうしたかったが、いつも根負けしてしまう。その度に楽進は眉を下げて謝罪する。これの繰り返しのまま日々が過ぎた。

そんな折、楽進から食事の誘いを受けた。「日頃の感謝を伝えたいのです」そんな言葉だったから乙女はすぐに了承した。本当に感謝の言葉を伝えるべきなのはこちらのほうなのにと思ったが口には出さなかった。謙虚で慎ましいこの男の善意をわざわざ跳ね返す必要もない。彼がそう言うのならばそれで良かった。

二人で入った飯店で、飯を食べ酒を飲む。たわいもない風景だったが、楽進はなぜだか緊張しているようだった。次第に不自然な間と沈黙が拡がる。

「どうかしたのですか。楽進殿らしくもない」

乙女が耐え難くなってそう言うと、楽進は飯を運ぶ手を止めた。

「……本当は感謝ではなくて、いや……感謝も少なからずあるのですが……謝らなければいけないことがあるのです」

「謝る? どうしてですか」

「あなたが私達の軍に降った間接的な原因を作ったことは、私のせいです。ですので……いつかは謝らないといけない。そう思っていたのですが、先送りになってしまって……」

「どういうことですか。私が降ったのは私の意思でしかないというのに」

話が入ってこない。なぜそのことに彼が絡んでくるのだ。そんな思いで乙女が言うと、楽進はさらに口を噤んだ。乙女はわざわざ急かすようなことはしなかったが、やがて楽進は覚悟を決めたのかゆっくりと口を開いた。

「……あなたと私が、初めて会った日のことを覚えていますか」

「初めて会った日、というのは、もしやあの戦場のことですか。まだ私たちが敵同士だった頃」

「はい。まだあなたのことをはっきりとは知らなかった。私はあなたが指揮する兵を倒して、あなたのことを少しだけ、見ることができました」

懐かしささえ覚える話だ。戦場を食い荒らす獣のようにも感じた彼の姿だったが、極めて理性的な人間であることを後に知った。未来のことを考えているというよりは、純粋に、目の前にある物事のみをただ真っ直ぐに見ているのだ。あのまま敵として対峙しているだけでは到底知らなかったままだろう。

「私も楽進殿のことを見ました。なんて恐ろしい戦い方をするのだと心が震えたものですが。ですがこちらに来てから分かりました。あなたはただ自分のできることを、誠心誠意を込めて行っているのだと」

「はい。私は所詮、戦うことしかできない身。ですが身の丈に合わないことを考えてしまいました。……あなたが、欲しいのだということを」

「……私が?」

酒のせいか、それとも別の何かがそうさせるのか。楽進の頬は僅かに上気し、瞳は潤んでいた。

「はい。……ですが、どうすればよいのか……正しい答えが私には分かりません。もっと手順を踏むべきだったと今は思います。その時の私は……私たちの所に来てくださいますか、といったことを書いた手紙をあなたに送ったのですが、返事は返ってきませんでしたから。その時、私の願いは到底受け入れらるものではなかったのだ、と思いましたが……」

「手紙……? 私、そんなもの受け取っていません……ああ、だから私は……」

ある程度の察しがついた。楽進は翳りのある表情を見せる。

「今はこうとも言えます。……きっとあなたに届く前にどこかで処分されていたのかもしれません。どこかにその手紙を奪われていたのかもしれません。……ともかく、あなたが叛意を疑われたのは、私のせいです。ですから……」

感謝を伝えるという目的はただの口実なのだろう。だが謝罪だけが目的というわけでもあるまい。乙女は本音と建前に揺れ動いているであろう楽進を見つめる。

叛意を疑われたのも、今の主に仕えることになったのも、確かに楽進が取った行動が間接的な要因となっているのかもしれない。

別に黙っておけば分からぬままだというのに。馬鹿みたいに生真面目で正直なこの男を見ていると、無性に笑いたくなったのだがすんでのところで堪え、乙女は微笑むだけに留めた。

「私、本当に大丈夫ですから。……楽進殿に巡り会えただけで、私はもう十分。かつての主に仕えていた頃の自分よりも、今の自分のほうが、大好きですから、ね。その話の続きを聞かせてください。謝罪ではなくて、あなたが本当に伝えたいことを」

楽進はそれでも躊躇する気持ちを隠しれていないようだった。が、先に言ってしまった手前引くこともできない。申し訳ありません、と小さく謝罪してから口を開いた。

「……戦場であなたを見てから、ずっと……焦がれていたのだ、と思います。今なら言えます。あなたが、好きであるのだと。ですからその過程はどうあれ、あなたが私達の元に来てくださったとき、私はそれこそ我を忘れるくらい、喜んでしまったのです。同時にこうも思いました。あなたを守らなければいけない。私の戦う意義は、そこにあったのだと。……あなたと二人でいられたら、どんなに幸せなことだろうと」

「楽進殿」

「は、はい!」

乙女は椅子から勢いよく立ち上がって卓上に置かれた皿には触れないようにしながら体を前のめりにし、そのまま彼の手を掴んだ。楽進の体がびくりと揺れる。

楽進の大きく、傷だらけの手のひらが乙女のものと重なる。そのまま指を絡ませた。

「私も気づきました。そう、やっと。私、まだろくにあなたのことを知らなかった時から、あなたから目を離せなかった。……あなたの言葉を受け入れましょう」

「で、では……」

楽進の顔が、ぱっと明るくなった。乙女はまだ喜ぶには早いのに、と思ったが言葉は出していないのだから伝わるはずがない。この先の言葉を彼が受け入れてくれるかどうかに全てが懸かっている気がした。

「私、きっとあなたなしではいられないのね。だって、あなたが前線に出ているとき、あなたのことを考えないことはありませんでした。共に過ごす毎日の中で、あなたがただ目の前にあることだけを見据えて戦っていることを知った。そして今、あなたは私を守ってくれるために命を懸けて戦っている。……友人を越えた関係となるのですから、私にもあなたを守らせてください。どうか」

もはやここが飯店であることなど、乙女の頭から抜け落ちていた。だがこうまで言わないときっと彼は分かってくれないのだ。

人には適材適所がある。だが、それでも楽進一人に背負わせることはできないと思った。楽進の、戦いにおける才を知っていても。わがままだとしても。

「乙女殿……私は少し、思い違いをしていたのかもしれません。私はあなたを守ること、あなたに尽くすことができればそれでよいのだと思っていました。ですが、そうではないのですね。共に支え合ってこその、二人……そう、ですよね」

「はい。約束してください。……目の前にある戦を、二人で乗り越えていきましょう。いつか平穏を、二人で享受できるように」

楽進は黙って頷いた。乙女に対する謝罪と感謝と恋慕、そして新たな気づきを得たということ。一人で全てを背負う必要など、どこにもないということ。それら全てを心に響かせているようだった。




それから乙女は、かねてからの願い通り楽進の隣で戦いに赴くこととなった。友人ではなく、妻としてだ。

楽進は、変わらず勇猛で、自らの身を危険に晒すことを厭わないような戦い方をする。敵はその戦いぶりに恐れ、そのおかげで勝利へと近づいていく。それでこそ、彼が彼であり続ける理由なのだと乙女は思う。

もし平和に満ち溢れた、もう武器が必要のない世の中が来たとして。この人は一体、そんな世界で何をするのだろうか。戦うことしかできないと言っている彼が、戦うこと、自らが血に濡れ歩むことで結果的に戦う必要のない平和を作り出すことに貢献しているのだ。密かに楽進の見やる未来に対して不安を持っていた乙女だったが、そんな心配は無用だったのだと共に過ごしていく中で気づいた。

これくらいしか、前へ突き進んで戦うことしか、自分にはできませんから。そうは言っていた楽進だったが、その言葉には乙女を守りたいのだという気持ちが含まれているのだ。それは戦いの中だけに限ったことではない。呆れかえるほどおめでたい平穏の中でも、きっと楽進はそうしてくれる。何も、乙女が言わずとも。

「好きですよ、楽進殿。あなたがいるところなら、どこまでもついていきますから。あなたが私に捧げてくださる愛を、私も……」

晴れて名実ともに結ばれた二人。乙女は寝台の中で呟いた。独り言に近いそれを楽進が聞き逃すはずもなかった。

「ああ、私はなんと幸せ者なのでしょう。……私はただ、あなたに尽くすだけで幸せだったというのに。ですが、これが本当の幸せ、というものなのかもしれません」

二人の笑い声が、響く。

二人にとっての本当の幸せ。それは、どんな世の中であっても変わらないだろう。今も、これからも。

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