Souless Creatures
人間ならば誰しも、こんな出来事はこの先何があっても忘れないだろう、と思うことがあるはずだ。それが喜ばしいことであっても、反対に心に刃物を突き立てるかのように悲壮なものであっても、何らかの出来事一つくらいは経験するものだろう。

乙女はまだうら若き将だったが、この先何があっても忘れることはできないと確信を得たことがあった。

宛城での戦いがそうだ。歓喜したわけでも涙を流したわけでもない。だが目を閉じるとそれだけであの頃のことを鮮明に思い出すことができるのだ。

賈クの弟子として従軍していた乙女は、同じく賈クに従っていた兵と同じように、あの戦場にいた。曹操を殺せ。その目的を追い求めていたものだったが、簡単にはいかなかった。

典韋という男がいた。評に違わぬ優れた体格と武芸の才があった。曹操が側近として重用しているのも頷ける。最もその場ではそんなに悠長なことを考えている間もなく、乙女は賈クの指示に従いつつも、遠くからでも感じる威圧感に怖気付いていたものだった。あの男を先に始末しないと、こちらが一方的にやられてしまうばかりだ。曹操を眼前に捉えた時、賈クは乙女にも、兵にも矢を射掛けろと命じた。だがその矢が曹操の命を奪うことことはなく、典韋が身を呈して矢を受けた。

それも、身体の複数の箇所に。乙女も矢を放ったが、あの矢が果たして体の機能を停止させるに至るかどうか。それすらも分からぬほど手応えを感じなかった。何をやっても彼は倒れないのではないかと思ったほどだ。至る所に矢を受けてもなお手斧を果敢に振るい、その体を赤く染めるものは自らの血なのか、それとも我が軍の兵を喰らった証なのだろうか。乙女は戦慄し、己の体の震えを自覚した。

化け物のようだ。思わず賈クはそう洩らしたが、あの男とて人の子であることには変わらなかった。再び矢を受けた典韋は雄叫びを上げながら、それでも幾多の兵をなぎ倒し、道連れにしてやがて息絶えた。

あれほどの男の戦いぶりと壮絶な最期を見る機会はそうないだろう。典韋の遺体を間近で見ようと兵たちは動いたが、乙女は出来なかった。同時に、典韋ら主従の切っても切れぬ強固な鎖を知った気がした。

それからまだ、月日はそう経っていない。賈クの元で次の策を練る助けをしていた頃だった。突如としてこの世は暗雲に満ち、人ならざるものが跋扈するようになった。

何が起こったのだろうか。乙女も状況を把握することはできなかった。何よりも頼みの綱としていた賈クの行方すら分からないのだ。一人で行動するしかない乙女だったが、次第に世の理が分かってきた。元々自分たちがいた世界と、全く土地も時間も異なるものらしいもう一つの世界が混じり合い、新たな世が生まれた。そして、この世界の創世に関わっているのは人ではない妖魔たち。

人々は妖魔に怯え、この混迷の中を生きている。乙女は各地の村を点々としながら賈クの行方を探していた。村人たちは戦う能力に欠けている。中には従軍経験のある男が乙女と同じように村の世話になっている様子も見受けられた。村の治安維持の代わりに飯を食う。乙女もそれに倣って過ごしていた。

そのような先の見えないある日のことだった。いつものように乙女は弓矢と短剣を携えて村の警備、そして妖魔の討伐に勤しんでいた。この村は乙女のほかに戦える人間はいない。だが妖魔は表立って攻めてくることもなく、やってきた妖魔は本隊から外れて迷い込んできたような者ばかりだったが、それでも見過ごすわけにはいかない。

遠くに人影が見える。また妖魔だろうか。矢を番えて、じっと目を懲らす。だが近づいてきたそれは紛れもなく人間のように見えた。誰かを背負っているようだ。乙女は弓矢を下ろした。が、その人物の顔がはっきりと見えた瞬間、乙女は腰を抜かしそうになった。

典韋だ。その体躯を見て、はっきりと分かった。背負っているのは曹操なのではないか?

なぜ、彼がこんな所に。乙女の脳裏に今でも残っているのは全身に矢を受けてなお鬼の形相で戦ったあの姿。理解ができない。死んだはずだ。賈クもそう言っていた。まさか死体が動き回るわけでもあるまい。だが他人の空似などではない。自然と足が竦んだ。だが彼も曹操も、装束を血に濡らしている。典韋の表情はあの宛城で見た頃のように険しい。

何であれ、彼らを見捨てるわけにはいかないだろう。乙女は矢を仕舞い走り出した。

「この村の者か!? 今すぐ手え貸してほしいんだ!」

やはり典韋に違いない。どうなっているのかは想像すら及ばなかったが、ともかく本人であることは疑いようもなかった。その体にはあの時のように曹操を守ろうとしたのだろうか、至る所に傷がある。尋常ではないその様子に乙女は一度経験した恐怖を反芻する直前へと引き込まれてしまったが、今はそのような過去に浸っている余裕もなさそうだった。

「……はい。この村でお世話になっています。見たところ酷い怪我……早く、来てください。いつ妖魔に見つかるか、分かったものではありません」

乙女は妖魔と対峙した時のように心臓が跳ね上がるのを感じた。典韋はありがてえ、と泪ぐんでいるかのような声色で感謝を述べ乙女に着いていく。

「わしのことは後でいい。とにかく、殿を何とかしてやらねえと……」

「殿?」

「ああ。わしは殿を守らなくちゃいけねえんだ。このわけわからねえ世界でも、このお方は必要だ、わしは殿の作る世界が見てえ。だから、頼む」

「分かりました。……とにかく、空いている家もありますから。そのようなお立場の方ですから、あまり公にしないほうがいいでしょう。ですから、そこに移動します。私は傷に効く薬もありますから、包帯などと一緒に取ってきます」

「ああ、本当に頭が上がらねえ……わしはまだやれる。何か手伝えることがあったら……」

「いえ、あなたも休んでいてください。あなたが倒れたならばその人は悲しむでしょうから」

「……それは、確かにその通り、なのか……分かった。おめえに任せるぜ」

乙女は急いで空き家に二人を案内した。やはり彼が背負っているのは曹操だった。この男の顔もはっきりと覚えている。死の目前まで、この男を追い込んだことも。

辛うじて曹操は生きているようだった。装束には血が広がってはいるものの、息は途絶えていない。乱雑に破られたような布が、お世辞にも丁寧とは言えない巻き方で傷を覆うように巻かれているが、止血しているおかげで命が助かっているようだった。典韋も長らく腰を下ろしていなかったのだろう、座り込みながらもやっと安息を得たことに対する安堵の息を漏らしていた。

乙女は手当てに必要な道具を探し、運び出しながら考えた。なぜ典韋が生きているのかということを。そこで思い出した話がある。

この家に元々住んでいたらしい人間は、この世界が生まれてから一向に帰ってくる様子もないらしい。神隠しだ、などと村人が言っているのを乙女は聞いた。そのほかにも、乙女が以前世話になっていた村では、もう亡くなったと思われた老夫婦の息子が帰還したという出来事があった。それも、若い頃の姿で。本当にそんなことが有り得るのか、と感じたが、確かにその男の容姿は、客観的に見ても若かった。

典韋が生きているのもこれと似たような話なのかもしれない。乙女は典韋の死後この世界にやってきたが、典韋は自らが死ぬその前にこの世界にやってきたのかもしれない。

それにしても、何の因果があって自分が彼らの世話をする事になってしまったのだろう。彼らを殺そうとした女だというのに。乙女は複雑な面持ちで家に戻った。

戻ると典韋は座り込みながらも、至って穏やかな笑顔を乙女に向けた。戦場では見ることがないだろうそれに、胸が傷んだ。

「とりあえず、傷口を清潔にしてから包帯を巻きましょう。……血は既に止まっているようですが、巻き直してください。あなたも」

「ああ……そうだな、わしも殿を守るためだ、手当て、しておかねえとな」

あの戦場では賈クが言っていたように、化け物のようにしか思えなかったものだが。

典韋を見ていると、同じ人であることに、なんの違いもないのだと思った。本当に、文字通りの「化け物」の姿と所業を知ってしまったからかもしれない。

こうしていると、なぜ自分たちはあんな戦いをしていたのだ、とさえ思ってしまう。乙女が無意識に浮かべる表情に何か思ったところがあったのか、典韋は不思議そうに「どうかしたか」と声を掛けたが、乙女は「何でもありません」とだけ返した。そう。何でもないのだ。きっと乙女が元の世界に戻れば、典韋はやはり死んでしまったままなのだ。一時の幻の中で、生きている。乙女も典韋も。


その日は結局、一日中二人に付きっきりで乙女は動き回っていた。ここで二人を助けようが助けまいが、この世の中がどう変わっていくのか、そして元の世界にはどういう手立てを得て帰還するのか、何一つ分からない。

夜になり曹操がやっと目を覚ました時も、乙女は二人の傍にいた。大の男が涙を流して主の無事を喜ぶ姿を、乙女は初めて見た。曹操は典韋の無事も喜び、乙女に礼を述べた。乙女はただ、神妙な表情で頷くことしかできなかった張繍が同じような目に遭ったとして、賈クが涙を流す姿はあまり想像できなかった。だが、二人を見ていると主従の絆というものは上辺だけのものではなく、直接目で見ることはできないというだけで確かに存在するものなのだと思った。

目を覚ました曹操だったが、いくら何でも休み足りないはずである。一刻も早く軍勢の立て直しに向かいたいところではあるだろうが、無理にここを立つのは愚策といえよう。暫くは私も力を尽くしますから。乙女のそんな言葉を初めは訝しんでいた曹操だったが、典韋の乙女に感謝する言葉を聞いた彼は心を許したのか、再び眠りに就いた。

「なあ、なんでここまで手を貸してくれたんだ? 怪我の手当ても、飯のことも……おまけに、使い古しとはいっても新しい武器までわしに与えるたあ、いくら何でも返しきれねえぜ、こんな恩。わしらのことも誰にも話さず、たった一人で……」

ここまでやれば、ひとまずは安心だ。乙女がこの家を後にしようとした時、典韋がそう話しかけた。

恩を返してもらいたくてやっているわけではない。言われてみれば、一人で彼らの面倒を見る必要も、どこにもなかった。だが乙女は、頭で考えるよりも先に行動していた。曹操の命を守るために。典韋がこれ以上傷つくことのないように。

なぜだろうか。理由は思い当たるが、所詮偽善にすぎない。ましてや、その理由をこの男に正直に打ち明けることなど、到底できないと乙女は思った。

「……変だと思われてしまいそうですけど。あなたは……今はもう会えない、大好きだった人に似ているんです。なんだか懐かしくて。再会できた気がして、嬉しくなっちゃって、つい……」

嘘だったが、全てが嘘ではない。忘れられない人が、目の前にいるのだ。だがその人を死へと追いやったのは乙女自身が絡んでいる。嘘にしては綺麗すぎた。

典韋は乙女の言葉を聞いた後、大きな声を出すのを噛み殺しながら、微笑んだ。

「おめえがそう言ってんなら、わしはおめえのいう好きだった人に似ているんだろうな。わしは殿をおぶってここまで来たとき、珍しく弱気になっていたんだが……おめえに出会えて良かったぜ。わしは殿の護衛でさあ、万一に備えて起きておきたいところだが、少しは寝ないといけねえ。おめえも休んでくれ、な? ……本当に、ありがとな」

「……はい。ありがとうございます」

礼を言うのはこっちだけで十分だと典韋は言ったが、それでも乙女は礼を言わずにはいられなかった。最後に頭を下げ、そのまま顔を上げることなく典韋の元を去る。顔を上げることができなかったのは、あれ以上典韋の顔を見ると涙が溢れて止まらなくなりそうだったからだ。

この世界ならば、人と人は手を取り合って歩めるというのに。

ごめんなさい。乙女は悔やんでも悔やみきれないものだと分かっていながら、天に向かって許しを乞うた。あの戦いが残した傷跡は、乙女が背負う罪ではない。だが咎であるのだとしか思えなかった。罪滅ぼしのためなら、二人に誠意を込めて尽くすことくらい、やってやろうと思った。それが自分の罪から逃げること、自分だけが満足することなのだとしても、やらなければいけない気がした。こうやって彼らに償うことを運命づけられていたから、典韋達はこの地にやって来たのだ。そうとさえ思えた。




それからも乙女は、典韋と曹操に尽くし続けた。元々重傷でなかった典韋は瞬く間に元々の力強さや体力を取り戻したため、時折現れる妖魔に対してもその力を奮った。

やがて曹操もこの村の療養生活の中で、ついに再び立つことを決めたらしい。その出立の日、乙女もある決意を固めた。

「曹操殿。……私も、連れて行ってくれませんか」

典韋と別れるのはあまりにも惜しい。一度知ってしまった彼のこと。それはかつての戦いの記憶上書きする。典韋は化け物などではない。主の為に戦い続ける、忠実で優しい男だ。だが、それならば誰が彼を守るというのだろうか。守る必要なんてない。そう思われようとも、彼の生き様というものをもっと間近で見届けたいと乙女は思った。

もう二度と忘れられないくらい記憶に刻みたいのだ。典韋という男の在り方を。

「乙女。わしらに着いてくると危険がともなう。いくらなんでもおめえはそこまでする必要は……」

「待て、悪来。……続けてみよ」

「私、恩を返したいのです。あなた達は、私に大切なことを教えてくれたから」

乙女は多くを語ることはなかった。だが曹操は彼女の覚悟を受け止めたらしい。ふっと笑って、「ならば悪来の護衛でもしてもらおうか」と言った。

「殿! わしは一人でも戦えますぜ!」

「ふ、冗談よ。だが確かに、道中は一人でも戦える人間がいることが望ましいだろう。着いてくるがいい、乙女」

「……ありがとうございます」

典韋は何やら小言を言っていたが、乙女が二人と歩んでいくことに対しては何も言わなかった。

何もなくからっぽだった自分が何を成すべきなのかがやっと分かったのだ。できることならば、この歪んだ世界が平和を取り戻した後もこのままであるように、と願った。

この世界ならば誰もが志を違えることもなく団結することができるのだ。もし賈クと再会しても、彼ですら典韋と交友を深めることができるだろうと思った。その日が来るのが待ち遠しかった。
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