在りし日、在りし人へ
月明かりに照らされながら、一人の男が二胡を奏でている。その音は穏やかなものだったが、どこかに悲しみが現れている。そんな響きを持っていた。

 今日は戦勝を祝う宴だったはずだ。未だその賑わいは途切れることがなく、大部屋の外にまで大きく反響する。曹操達の前で箜篌の演奏をし終えた蔡文姫は、そんな状況の中で見つけた一人の男を怪訝に思う。そして、そんな日に似つかわしくない、孤独な旋律に惹かれていったのだった。管弦への造詣が深い彼女らしい事だろう。いや、感受性豊かな彼女だからこそ、この旋律に隠された悲嘆の思いを読み取ることが出来たのかもしれない。

「張コウ様……?」

 蔡文姫は箜篌を持ちながらも驚かせることのないよう、ゆったりと近づいて行った。その横顔は顔に垂れた髪で所々見えなくなっている。だがその人物は彼女にとっても見覚えのある人、張コウであった。僅かに覗いた彼の横顔は普段の陽気さとは打って変わって、憂いを帯びているように、蔡文姫には感じられる。

「……蔡文姫殿。ああ……こんな所を見られてしまうなんて。不覚を取りましたね」
 
 人の気配が近づいたことに気づいたのか、張コウは演奏を止めて蔡文姫の居る方向に顔を向けた。端正な顔が少し歪んで、珍しく苦い顔をした。これも普段の明朗な彼らしくない。いつも優雅に舞っている張コウの姿と結びつけることが難しいぐらいだ。

 蔡文姫は何故こうしているのかと尋ねたくなったが、もし人に聞かれてはいけない理由だとしたら申し訳ないと思い、無意識に伸ばしかけた手を引っ込めた。するとそんな所作から彼女の言いたいことを読み取ったのか、彼女が何を言うまでもなく、ぽつりぽつりと彼は語り出した。彼は人の気持ちや所作を読み取ることに長けている。この人も、蔡文姫同様に、感受性は相当高いものなのであろう。

「もう今は居ない、愛しき人の為に、捧げているのです」
 
 蔡文姫は彼の今までに見せたことのない一面に対して、体がぞくぞくするような錯覚を覚えた。見てはいけないものを見てしまったかのような、そんな感覚だ。
 続けて彼は言う。

「愛しき人……彼女は、袁紹殿に引き取られた女人でした。どうやら遠い親戚らしく、袁紹殿は彼女をとても可愛がっていました。もちろん、私も……」
 
 彼は当時を懐かしむようにして、再び演奏を続けようとしたが、話すことに集中しようとしたのか、手を止めた。




 
 彼女が袁紹旗下の人物で最も親しかったのは、武芸のみならず音楽や書の心得もある張コウだった。とは言っても、今のように感性が豊かだった訳ではない。まだ彼を形作る独特の思考、情緒は発展途上だった。親しくなったきっかけは案外些細なもので、どこからか聞こえてきた二胡の音色を辿っていれば、彼女の所に辿り着いたのだという。そういう所は、何とも今の張コウらしいかもしれない。

「美しい音色は誰が奏でているのかと思えば……貴女は、袁紹殿の御親戚では? 良いのですか、このように屋敷の外に出ていても」

 月明かりが暗がりを照らす夜だった。

「普段はこの辺りには来ないのですが……良い演奏場所が無いものかと思って、こんな所まで来てしまったのです。私は二胡を奏でるのが大好きですから。もしや……貴方が張コウ様ですか。お話は聞いています。背の高い美丈夫で、武芸だけが得意ではないのだと。袁紹様も頼りにしておられますよ」

 張コウが彼女をはっきりと見たのは、これが初めてだった。それまでに見たことと言えば、彼女が袁紹に引き取られて間もない時に、ちらりと後ろ姿を見たくらいだった。袁紹は彼女を実の娘のように溺愛しているから、戦も何も無い休暇に二人で、もしくは彼の息子たちと共に居るのは珍しくない事だった。

「私の名前を知ってくださっていたとは……これは身に余る光栄ですね。改めて紹介させていただきます。姓は張、名はコウ、字は儁乂。ならば今日、私と貴女が出会えたのは、価値のある邂逅でしょう。いきなり言うのもおこがましいでしょうが……演奏を、お聞かせください」
 
 こうして以後、二人は仲を深めていった。共に詩文を解し、その上趣致に富む。二人が親しくなるのは当然のようなものだった。それこそ、彼女の縁談が張コウに来ても、おかしくないと噂されるほどに。彼女を溺愛していた袁紹もそんな噂を承知していたのだから、相当なものだろう。結局、それは叶わなかったのだが。

「ねえ儁乂様、儁乂様も演奏に挑戦してはどうでしょうか。聞くだけじゃもう物足りないのではないでしょうか。私が教えて差し上げられるのはこれくらいのものですが……これなら共に楽しめると思うのです。それに貴方は手先が器用だから。きっとすぐに上達します」

「よろしいのですか? ああ、なんと喜ばしい!」

 その言葉を受けて、張コウは二胡を弾く練習を始める。彼女が予想した通りに張コウはめきめきとその力を伸ばした。張コウは自分で二胡を弾くことが出来るという喜びを噛み締めたが、それ以上に、自分が上手くなればなるほど、自分以上に喜び笑顔を見せる、彼女の仕草や表情がたまらないのだった。そうして張コウはいつしか彼女を本気で愛しているのだ、と思うようになった。戦場にも美しさを見出す彼にとって、この感情は説明が出来ないほどに眩しく、彼はそんな感情を上手く整理出来ないことが複雑だった。

「貴女が好きです」

 ある日、二胡を二人で弾き、詩作に浸っていた最中のことだった。彼が彼女に対して抱いた気持ちを説明するのに、その言葉は随分と簡素なものだった。こう言った彼の顔は彼女が今までに見たことの無いほど赤面していて、彼女もどぎまぎしながら、肯定の旨を示す。

「私も、貴方が好きです」

 本当に好きな相手に心の底から好意を伝えることの難しさというものを、二人はひしひしと感じたのだった。普段はすらすら賛辞の言葉が溢れるのに、こういう時は全く言葉が思い浮かばないなんて。二人は口に出さずして、同じことを思っていたのだった。
 


 しかしその幸せは束の間で、曹操と袁紹との戦が全てを変えてしまったのだった。曹丕が袁煕の妻であった甄姫を略奪した腹いせに、曹操は他の女を娶ろうと考えたのだった。元々甄姫も曹操が奪うつもりだったらしい。あと一歩の所だったのだ、と今の彼はそれを笑い話にまで昇華している。

 しかし当時の張コウにとっては、全く笑い飛ばせるようなものではなかった。無論、表には出さないだけで、今もなのだが。

 なぜなら曹操は張コウと契りを交わした彼女を娶ろうとしたのだから。当時の張コウは戦場に出たきりで、彼女の居る屋敷も、後宮の様子も、全く知る由が無かった。戦いが終われば正式に婚儀を挙げる。その約束だけが二人を繋ぎ止める唯一の鎖で、そんなものは、そんな事を知らない曹操にとってはいとも容易く砕くことの出来るようなものだった。曹操のことだから、もし張コウと彼女がもう結婚していたとしても、彼女を奪っていたのかもしれない。事の発端は、曹丕が甄姫を娶ったことだったのだから。




「ここまで言えば、もうお分かりでしょうか。私が二胡の音を奏でている理由が……」

 張コウは涙を流していない。だが蔡文姫には、その悲しみが嫌というほど伝わった。彼女も匈奴に攫われた後に築いた家庭を、蔡[D:37013]の血を絶やすのは惜しいと踏んだ曹操によって連れ戻された人物だったからだ。匈奴は彼女にとっての誘拐犯であると同時に、大切な伴侶や仲間でもあったのだ。

「張コウ様の想い人は……旅立ってしまったのですね……」

 それが今の蔡文姫に出来る精一杯の言葉だった。自分と同じような境遇でありながら、自分と同じ生き方をしなかった彼女へと、賛辞を込めて。


「愛しき彼女が曹操殿に嫁ぐのを拒み自ら命を絶ったことが知らされたのと、私が曹操殿に降伏したのは、ほぼ同じ頃でした」

 だから私は、曹操殿に仕えているのだと言えるでしょう。最も袁紹殿も決して、最期まで仕えるべき御仁だとは思えませんでしたが。張コウは自嘲気味にそう言った。
 そしてそれから二人は何も発せず、ただ楽器を奏で続けた。亡き人の、引き離された人へ届くように、贈るように。



 夜空を覆っていた雲が少し動き、星々が姿を見せ始めた。
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