呂布軍に囲われる話
「姫様、お着替えの時間です」
そう呼ばれて目を開けば、もう見慣れかけてしまった女性の姿が視界に映る。ああ、この人は貂蝉さんだ。わたしに一番執着してると言っても過言ではない人。わたしは毎日この人によって起こされて、この人によって寝床に就かされる。生殺与奪をこの人に握られているようだった。理由なんかは分からない。ただ気づいたらこの人のそばに居る大きな人に連れ去られてここにやって来たんだった。わたしは姫なんかじゃない。ただの商人の家に生まれただけの女だ。それに、商人といっても特に裕福という訳でもない。わたしが店を継ぐよりも前に潰れてしまってもおかしくないような、そんな不安定な所だった。
「さあ、着替える間だけ、首輪を外して差し上げましょうか」
貂蝉さんによってわたしは着ていた服を脱がされ、新たなものに変えられていく。豪奢なものばかりだ。わたしには一生縁のないような代物ばかり。わたしはもう抵抗する気すら起きなかった。服を着せられるのも、全て貂蝉さんの手で行われた。裾が長くて、布が重くて、身動きするのも億劫なほどの大層なものだ。着替えが終わると、そんなわたしの顔に、彼女によってどんどん化粧が施されていく。この部屋に鏡はない。自分がどんな顔をしているのかすら分からない。けれども貂蝉さんはひたすらに嬉しそうだ。
ここに連れてこられてからどれだけ経ったのかももう覚えていない。数ヶ月は立っているような気がするけれど、まだ数日しか立っていない気もする。ただ、最初の頃は抵抗もしたんだったと覚えている。貂蝉さんによって首輪を外された瞬間、彼女を振り切って駆け出そうとしたこともあった。けれども脱出は不可能だった。まるで番犬みたいな人……張遼さんに手首を思い切り掴まれて、床に押さえつけられたことがある。張遼さんは怖い。目を見開いて、わたしをずっと睨んでいた。ふと手首を見ると、まだ掴まれた所が痣になっていた。まだ跡が残っている所を見ると、ここに来てからあまり日は経っていないかもしれない。時間の感覚すら変になっているようだ。そういうことを思い出せばなんだか背中も痛く感じてきた。きっとそこには打撲の跡が残っているのだろう。
「ああ…やはり、お綺麗です」
細くて白い貂蝉さんの指が、わたしの頬を撫でた。この妖艶な笑みに、瞳に、吸い込まれそうになる。自分がここに居ることがまるで当たり前であるかのような錯覚を覚えた。この人はわたしにそう思わせるだけの、不思議な力があるのだろう。この人の声を聞いていると、もうどうでも良くなってくる。そのうちに、いつかこの状況を何とも思わなくなっていくのではないだろうか。それが酷く恐ろしい。
「肌が白くて、赤い紅が本当に良く映えますね。素敵です、姫様」
この人も相当に美しいし、わたしなんかを褒めて楽しいのだろうか。この人はわたしを玩具のように扱い続ける。小さい子供がままごとをしているような感じだった。最も、わたしの意志は通じないし、貂蝉さんからひたすらに理解の出来ない愛情を植え付けられているようなものなのだが。
「私はこれから奉先様に会いに行かなければなりません。姫様、今日は張遼様が来て下さるそうですよ。姫様と言えども、話相手が居ないのは寂しいですからね……」
貂蝉さんは悲しそうに眉をひそめて言う。奉先様。きっと、わたしをここに連れ去った人だろう。権力も何も持たないわたしを閉じ込めて何が楽しいのかが分からない。奉先様と呼ばれている人は、あまりわたしに関心がないようだった。背の高いあの人が覆い被さるようにしてきたのを覚えている。それがわたしが両親も居るあの家に居た、最後の瞬間だった。それからその人の姿は見ていない。それでもわたしを囲っているくらいの人なのだから、きっと奉先様という人もどこかがおかしいのだろう。ちょうど、くすりとも笑わないわたしを見てにこにこと笑みを浮かべる貂蝉さんのように。
それよりも、貂蝉さんが行ってしまう後に来るであろう人のほうが今の自分には恐怖でしかないのだ。張遼さんが来る。あの人は怖い。少しでも抵抗したら今度こそ殴られるかもしれない。どうしてわたしに会いに来るのだろう。何もかもが分からない。
「震えてしまって、なんて可哀想な姫様……けれども、私はまた、大好きな貴女の為に戻ってきますから。また、夜にお会いしましょうね」
貂蝉さんはそう言ってわたしの頭を撫で、頬に口付けてから、部屋を出ていった。わたしに力があったなら、首に嵌められた頑丈な輪も壊すことが出来ただろうか。わたしに会いに来る人は皆、わたしに執念を燃やしている。そして皆、わたしに恋慕の言葉を発し続ける。
陳宮と名乗ってやってきた人もそうだった。この人も苦手だ。わたしの手首の痣を見て、普通では考えられないほどに狼狽して、見ているこっちがおかしくなりそうだった。どうやらわたしが傷つくのを極度に恐れているらしい。これだけだったらまだ良かったのかもしれないが、この人が小声で呟いていた言葉がまたこちらの恐怖を煽るようなものだった。
「貴女は神にも等しいお方。私の理想、理想の姿を保っていただきたい。私好みのままの姿を……」
こんな事を言っていた気がする。わたしを異様に崇拝しているようで、ぞっとして背中が泡立った。そして執拗に痣を与えた人の名を聞いてきたから、わたしは正直に話した。張遼さんだってことを。そしたら陳宮さんは何を言うまでもなく口を吊り上げて、声を出さずに笑っていた。どういう意図だったのだろうか。その後も小さい声で何か言っていたけれども、わたしはよく聞き取れなかった。
ただ、その時の陳宮さんもまた、恐ろしい顔をしていた気がする。彼いわく、「私好み」であるならば何でもいいようなのだが、この服は気に入らないのだと、一度その時に着ていた服をびりびりに切り裂かれてしまったことがあった。貂蝉さんは悲しそうな顔をしていたけれど、陳宮さんを咎めることは無かったきがする。しかし大変なことに、刃物を使っていたものだから、所々皮膚まで裂けてしまったのだ。水脹れのように浮かび上がる血を見ながら、あの人は……あの人は、血を残さず舐めとって……ああ、思い出すだけで鳥肌が立つ。しかし、この出来事はいつの事だったか……考えるだけで頭が痛い。わたしは誰の道具でもない。けれども誰もそれを分かってくれない。まるでわたしは無表情で無機質な木偶の坊だ。ちょうど、貂蝉さんがわたしのことを人形のように扱っているように。
玲綺という人も、私の元を良く訪れるんだった。この人はどうやら奉先様……呂布という人の娘らしい。この人はまだ、他の人に比べれば随分と優しい。けれども、無邪気な所があるというか……わたしが監禁されているという事を、まるで認識していないかのようだった。監禁しているのはそっちだというのに、わたしを縛っているのはそっちだというのに、「ここでの暮らしはもう慣れたか? 不自由なことがあれば言ってくれ」なんてことを平気で言うような人だ。そしてわたしを家族のようなものだとも言っていた。
だからなのだろうか、わたしに付いた痣や傷を心配してくれたりもする。ならどうしてわたしをここから出してくれないの。ついそう言ってしまったわたしに向かって玲綺さんはこう言うのだ。「家族なのだから、共に居るのは当たり前だろう?」と。全く話が通じないのは、この人もだったのだと落胆した。
そして、この人の独特な所は、わたしからの愛情表現を良く求めることだった。「抱きしめて欲しい」「頭を撫でて欲しい」といったものばかり。もしかして、愛情に飢えているのだろうか。時には彼女のほうからそのような行為をわたしに行うこともあった。ある意味自己中心的なその要望にも、わたしは抗う術を持たないのだ。例え彼女から逃げたとしても、他の人がきっとわたしを連れ戻すだろう。
「ご気分はいかがか、令嬢殿」
感情の起伏が読み取れない声。この声は張遼さんだ。わたしが一番会いたくない人。いや、出来るならば誰にも会いたくないのだが。この人の目は怖い。一点を見つめているようで、焦点が定まっていない。そんな瞳をしているように感じる。冷ややかに見下されているようで、声がした瞬間から体がびくりと跳ねた。この人もわたしを独特な呼び名で呼ぶ。だから、わたしは身分なんか高くないし、あなたたちのほうが偉いに決まっている。そう言ってやりたいくらいだったけど、張遼さんを相手にすると、そう叫びたい気力も失せてしまった。ただわたしの口から出るのは声にもならない空気の塊だけだ。魚のような情けない自分の姿がひたすら惨めだとさえ思う。
「怯えられてしまうのは当然のこと……先日の無礼、どうか許していただきたい」
そう言ってわたしの手首を、壊れ物を扱うようにして両手の手のひらの中に包む。謝罪を受けたところで、一度経験したあの不気味な感覚が消え失せる訳ではない。それでもわたしは頷くしかないのだ。逆らったら何をされるか分からない。
「そなたが逃げてしまうのが怖かった。だからあんなことをしてしまったのだ」
わたしの前に居る張遼さんは見るからに落ち込んでいたようで、先日の姿との大きな違いに戸惑ってしまう。それでもあの時の張遼さんの怒った顔が忘れられなくて、わたしは首をがくがくと揺らした。とにかく肯定の意志を示さなければいけない気がした。
張遼さんはわたしを抱き寄せて、背中をするすると撫でた。首輪の鎖がじゃらりと動く。
「令嬢殿……そなたには、人を惹きつける魅力が備わっている。だが……そなたには、私の思いが伝わらないようだ。こんなにも怯えて……」
張遼さんの顔がわたしの首筋に近づいた。吐息が首や耳に当たってぞわぞわする。張遼さんの体が密着しそうなほどに近づいた。
「腕を、回してくれないか」
わたしはおずおずと腕を回す。そうすると痛いほどに強く抱きしめられた。子供を宥めるようにして背中をさすられる。怖いはずなのに心が落ち着きそうになってしまう。なぜか感じる既視感に胸が痛くなった。
だがその既視感の正体は、この後すぐに分かることとなる。
「それにしても、何故部屋を抜け出そうとしたのだ? そなたの右足の指は、二本欠けているであろう? そのような状態で駆け出すなど……」
足の指が……欠けている? わたしはいよいよ震えが止まらなくなって、不本意ながら張遼さんにしがみついてしまう。張遼さんはそれを嬉しく感じたのか、わたしの項に唇を寄せ、歯で甘噛みした。
わたしがはっきり覚えている記憶と、一致していない。わたしは体が不自由なんかじゃない。そう言ってやりたくても、裾の長くて重いこの服のせいで、自分の足の指がない証拠が確認出来ない。
「そなたがここに来てからもう二年余りが立つ。足の指を切り落としたのは一年前ほどの話だが……どうして斯様に怯えるのだ、令嬢殿……」
張遼さんの手が、衣服の下をまさぐる。右足の指先に、張遼さんの指が触れる感触がする。確かにそれは通常の感覚ではなかった。この人の言っていることは本当だった。だからあんなにも既視感を感じるのだ。過去にも同じようなことをされているから……
どうしてわたしは記憶が混濁しているのだろう。答えはすぐに理解出来る。きっと、長い間監禁されていたせいで感覚がおかしくなっているのだ。こんな非現実的なことも、この非現実的な日常の中なんだから十分に有り得るだろう。続けて張遼さんは言った。
「本当は足ごと切っても良かったのだが……さすがにそこまでのことをする勇気は私には無い。そなたには何があっても離れてもらいたくはないが、そうまですればそなたは私を嫌うだろうからな」
「ただ次にあのようなことをすれば、きっとただでは済むまい。私が許そうとも、陳宮殿や呂布殿が……そなたは我らの庇護を受けているのだから、不用意なことは辞められよ」
いつの間にか首輪を外されていたようで、張遼さんがわたしの項に強く噛み付く。誰がわたしの指を切ったのか、どうしてここにいるのかも結局よく分からない。けれどもきっと、その答えは過去のわたしが持っている。
そなたが好きだ。張遼さんの呪詛のような愛の言葉が頭の中に反響する。今はただ目を閉じて、目の前の状況を甘受するしかないのだった。