飾り気のない花
「乙女は、花はお好きですか」
乙女が現代からこの地にやって来てから暫くが過ぎた。未だに慣れないこともあるが、この国の人達は存外優しいものなのだ。
そういう考えを持つのは、何故か自分を気にかける男、張コウを見て思ったことだ。それは今もそうだ。何ともなしに部屋に押し掛け、優雅に茶を飲んでいる。言動には突拍子が無く、はっきり言って変人だ、と乙女は彼の事を思っていた。
だが意外とそうではなく、価値観や美意識が独特なだけの良識人なのかもしれない、と最近は思い始めていた。だが相変わらず話し出すことは予想がつかない。今もそうだ。
「いきなり、どうしたんですか」
乙女は口数が多い方ではない。部屋からぼんやりと外を眺め、張コウには目もくれず素っ気なく答えた。張コウの方はと言うと、そんな彼女の態度を受けても、気に病む様子は全く見受けられない。
「つれないですねえ。まあ、それが貴女の魅力と言えますが。私は美しいものは何だって好みます。勿論花も。例えば蝋梅の美しさは、桃や牡丹などにも引けを取らないでしょう。見た目は勿論、香りも好ましいものです」
「蝋梅?」
外の景色を見るのをやめ、向かいに座る張コウの顔を見る。乙女にとって初めて聞く花の名前だった。花は嫌いではないが、好んで見るほど好いている訳では無い。やっとこちらを向いてくれましたね、という声を無視して、先程の張コウのように茶を啜る。彼の口車に乗ってしまったようでなんだか癪だったのを誤魔化すためだ。
「ええ。梅の字を得ていますが、梅と近い種にあるという訳ではありません。唯、見た目はよく似ていますね。桃色ではなく黄色の花を咲かせるのですが」
へえ、と興味があるのかないのか分からない曖昧な声で乙女は答えた。そして茶と共に用意された菓子を口に運ぶ。どちらも張コウによって手配されたものだ。
彼が自分を気にかける理由が分からずに思わず冷たい態度になってしまうものの、彼の話自体を聞くのはいつしかささやかな楽しみになってしまうのもまた乙女にとって事実だった。曹操によって与えられた一室に、異なる時代から来たという彼女の様子を見にやって来る曹魏の将は何人も居たが、こうまでしてしつこいくらいに訪れるのは彼くらいだ。それがこの時代に完全に馴染めない彼女の支えとなっていることを、彼女自身も理解している。なかなか素直になれないだけで。
「花の少ない冬に咲くのです。雪と共に花弁が映える光景は正に絶美」
張コウはにこにこしながらさも嬉しそうに語る。花などに興味は持てないものの、この人の言うことものならそれなりに美しいのだろうと乙女は思った。何だかんだ言いながら、張[D:37059]に絆されているのだ。
「乙女。貴女の居た地では、どのような花が美しいとされているのですか?」
乙女は現代の日本人だ。何故自分が古代の中国に飛ばされたのかも分からないし、そもそもなぜ自分と相手の言葉が齟齬なく通じ合うのかも分からない。自分の話している言葉は本当は日本語ではなく中国語なのかもしれないし、ここには自分が日本に住む一般人だという証拠も何もない。それは乙女にとってなんだか気味が悪いことだった。
けれども自分が自分であることを信じるのを忘れてしまえば、それこそ元いた世界に戻れなくなってしまうのではないか、自分は最初からこの世界の人間だった事になってしまうのではないか。そういう恐怖から、彼女は元から口数が少ないのにも関わらず、さらに寡黙になっているという自覚があった。
それでも自分を偽る必要はどこにも無い。得体のしれない存在である自分に臆せず接する張コウには、敬意を示したいと思った。そんな事を馬鹿正直に言ってしまえば、この男は聞いているこっちが気恥ずかしくなるほど大袈裟に喜ぶということは分かっているので、素直に言ったことは未だにない。
「……桜、ですかね。そのもっと昔は梅だったようですけれど」
春の日本の風物詩。現代では満開の桜を見るために国内は勿論、海外からも沢山の人が訪れる。だが万葉集において桜を詠った歌は四十三首あり、梅についての歌はその倍以上詠まれていたという。そもそも花見の起源は遣唐使などによって初めて日本に渡来した梅を見ながら歌を詠む会を開いたことなのだとか。
「梅は私も好きですね。なるほど、時を経てもその美しさは変わらない、と。桜を好むのは意外ですね。この地にも桜はありますが、花弁は小さく、美しさを理解する者は少ないのです。私はそうは思いませんが。見た目だけでその本質を見極めようなど不躾にも程があります」
平安時代になって遣唐使が廃止され日本独自の文化が栄えて来た頃、梅と桜と人気が逆転したのだという。古今和歌集においては万葉集とは反対に、梅についての歌より桜についてのそれの方が数が多い。
今一般的なものとされる桜は花びらが大きく見栄えがいいものの、原種とされるものはそうではなかった。張コウ含むこの時代の人々は勿論日本の桜を知らない。
乙女は逆に、張コウのことを意外だと思った。てっきり目に見えて美しいと呼べるものしか愛でないのではと思っていたからだ。美意識がどこかずれているだけで、彼自身はとても細やかな心を持っている、と乙女は今更ながら確信を得ることが出来た。
「私の居た時代では、桜は神聖視されていますから。……改良によって、花びらは大きく、見栄えも良くなっていますが」
張コウの言う不躾な人々以外にも、見栄えを求めるものはやはり多い。乙女は現代の、商業施設の詰め込まれた大きいビルや海外製の値段の張る車や、煌びやかなアクセサリーを思い浮かべた。勿論それら全てが悪いということではない。人々は技術の進歩による利便性を求めるだろうし、立場上自らを大きく見せねばいけない場合もある。あえて質素な暮らしをして庶民に慕われることもあるし、豪奢に見せて地位と支持を得ることもあるのだ。乙女はぼんやりとそう考えた。
「桜を神聖視……素晴らしいですね。見栄えがよくなっても、桜を愛する気持ちは変わらないのでしょう? ああ、貴女たちのような方がこの時代も居れば……ただでさえ、こちらには豪奢なものを好む方が多いのです。花に関わらず、です。悪くはありません。上のものは上のものらしく振る舞わなくてはいけないのですから。けれど、もう少し柔軟になってもよろしいのではと、私は思うのですよ」
意図せずに張コウと同じことを考えていたことに、乙女は内心驚いた。歴史は繰り返すなどと言うが、歴史だけではなく思想もそうなのだろうか。彼と考えていたことが同じだと言えば、これもまた必要以上に嘆息されることだろうから、乙女はあえて黙っておいた。代わりに、先程の話を聞いて疑問に思ったことを聞いておく。
「この時代の人達が考える、豪奢な花って一体何の花なんでしょうか」
乙女が考えるのは、薔薇くらいなものだが、この時代の一般的なそれは何とされるのだろう。中国史に疎い乙女にとっての純粋な疑問だった。
「梅は勿論、牡丹は縁起の良い花とされます。栄華富貴の象徴ですね。また椿は霊木とされます」
霊木。また聞き慣れない単語が乙女の耳に入った。霊が宿る木が縁起物という訳ではないだろうし、魔よけという意味だろうか、と自分で納得する。これ以上聞くのも野暮だったからだ。
また日本での椿と言えば、美しいものの、落ちる姿のせいで武士からは随分と嫌われたものだったということくらいは乙女も知っている。張コウ達も当然武人であるが、椿を良く思っていない、といったような様子は見受けられない。それもまた価値観の違いなのだろう。張コウ個人だけでなく、日本とこの国との違いなのだと。
「椿は逆に、私の地では縁起が悪いとされます……不快になるかもしれませんが、理由をお聞きになられますか」
勿論、という張コウの声を聞き乙女は続けた。
「椿は花そのものの形を保ったまま、落ちますよね。将の首が落ちるのと同じだと、忌避されていたのですよ」
これは有名な話だ。椿自体は好まれやすい花だが、武士は忌み嫌った。庭に植えることもしなかったという。確かに首を取られるくらいなら自害を選ぶのが武士なのだから、嫌うのも無理はないだろう。
「そういう考え方があるのですか……確かに言われればそのようにも見えますね。けれども、このような解釈もあるのだと思いませんか? 開花という最大限の美しさを発揮したまま、最期の時を迎えているのだと。花弁を散らすのも美と呼べますが、それだけが花の魅力なのではないのですから」
張コウには美についてを常々自分に語っているという認識を乙女は持っていた。
が、今までは誰それの所作だとか、武芸だとか詩だとかで、ここまで語ってくれるのは初めてだと感じた。それだけにどうしてこの多彩な将軍が自分などに構うのか、不思議でならない。
「……流石ですね。私はそんなこと思いつきもしませんでしたから」
張コウは笑顔を更に深めた。乙女に素直に褒められたことが嬉しいのだろう。そういう表情だった。
「ところで、まだ本題に答えてもらっていませんでしたね。花は、お好きですか?」
未だ本題に入っていないのはどうしてだったかと乙女は思い、自分がまともな返事をしていなかったからだと思い出す。ここまで真摯に話してくれたのに無下にするという訳にもいかず、乙女は答える。
「好きでも嫌いでもないですけど……貴方の話は、面白かったですよ」
ああ!と感激したように張コウは言う。少し褒めただけですぐに気分が高揚する。こうして見れば戦場に立つ武人とは思えないと乙女は感じ、それがおかしくて少しだけ微笑んだ。
「それならばよかった。是非、私と花を見に行きましょう! きっと、貴女が日々抱く不安も、癒してくれるでしょうから」
最後の声色はやけに優しくて、乙女は自分の毎日考える不安を既に見抜かれていたのだということに驚いた。やはりこの人は、ただ飄々としているだけではないのだ、と。きっと最初から自分に気を遣い続けていたのだろう。それを全く感じさせない彼の態度には感心せざるを得なかった。
「それなら、さっき張コウさんが言っていた……蝋梅? が見たいです。貴方が美しいという思うものはきっと、私にとってもそうだと……思いますので」
「ああ、何と嬉しいことでしょう! ならば決まりですね、次に私がここを訪れた時に見に行きましょう。ちょうど今が見頃なのです。準備しておいてくださいね」
願わくば、次の年も。乙女はこの人とならば、一緒に居るのもいいかもしれないと思った。いつ現代に帰れるかは分からないけれど、暫しの間、この心優しき蝶に付き従うのも悪くないと思うのだった。
冬に咲く凛とした蝋梅のようだと、張コウは乙女を見て思う。そして、来年も共に在りたいと願うのは、何も彼女だけでは無かった。
(私は乙女という可憐な花に引き寄せられる蝶のようだ)
彼の真意を乙女が知るのはまだ先になりそうだった。