昔話
乙女がカーテンを少しめくって窓の外を見れば、ざあざあと薄暗い空から雨が降っていた。カーテンを閉じれば僅かな光も遮られ、まだ朝方であるというのに夜のようだった。風の音も聞こえる。昨日の天気予報は外れのようだ、と乙女は心の中で呟いた。明日からはまた仕事に明け暮れる日々が続く。休みの日くらい、穏やかに過ごしたいものだが、現実はそう上手くいかない。
「文則さん、大丈夫なの?」
窓を離れ、乙女はソファに腰掛けた。隣にはテーブルに両肘をついたまま頭を抱える文則の姿がある。
「……大丈夫だ。……お前も知っているだろうが……もう慣れているからな。その内に良くなる」
それならば良いけれど。あまり無理はしないで。そう隣の男に言ってから、乙女は注いだばかりのコーヒーを喉に流し込んだ。テーブルに戻されるコーヒーカップの隣には、同じく注がれたばかりで湯気を立てるコーヒーが置かれてある。カップの柄は二つとも同じである。コーヒーの色は、乙女の飲むものの方が、若干薄い。彼女は甘い方が好みなのだ。
今日は彼らが同棲を初めてから、三回目の雨の日だった。つまるところ、彼らがこのような会話を交わしたのも、これで三度目だった。
「だが、今日はそれにしても、痛みが酷い」
文則はそう言ってコーヒーを少し飲んだ。彼はこうして雨の日に起こる頭痛に悩まされ続けている。それを乙女が知ったのは、同棲を始めてからのことであった。
二人は同じ会社の上司と部下という関係だった。乙女が人事異動で文則の部署に移ったのが最初の出会いだった。文則は自他ともに厳しすぎるその性格上、良き理解者をなかなか得ることが出来ず、また乙女も良き上司に巡り会えないでいた。彼女の異動は彼らの上司である曹操の仕業で、文則のように戒律を重視する者ならば乙女はさらに活躍出来るに違いないと踏んだ結果であった。その後彼らは見事に信条が一致し、二人は自らを引き合わせた曹操と、時の流れに大いに感謝した。
二人が付き合い始めたのはそうした日々の中で、あることがきっかけだった。仕事で馬が合うのは勿論として、それ以外にも共通点があった。それは、あまりにも相手を知りすぎているという事だった。例えば、食べ物の好み。乙女は甘いものが好きである。対して文則はそうではない。だから互いの食の好みなど知り得ないというのが自然な所であるのだが、二人はそうでなかった。仕事の合間にかわされるふとした会話の中で、そういった相手の好みを寸分の狂いもなく言い当てるのは妙であった。好きな色も、趣味も。偶然とは言い難い度合いでそれらの会話は交わされ続けた。そんなことが続くうちに、部署では二人が付き合っているのではないかという噂が流れ始めた。二人もそう囁かれて満更では無かった。公私を混ぜることの決してない文則が穏やかな笑みを見せるのは乙女だけであったし、社交的とは言えない乙女が饒舌に話すのもまた于禁だけであったからだ。初めての理解者を互いに得た二人は、そうして付き合うことになったのだった。
付き合い始めてから、文則は同棲するまでに隠していたことがあった。それは雨の日のみ自分を襲う頭痛であった。いつからか文則をそれが苦しめたかは定かでなかったが、それは鎮痛剤で治まるようなものではなかった。自らの不調で規律を乱してはいけないと彼は考え、これまで誰にも知られずに居たのだが、こうして四六時中一緒に居ればいつかは知られてしまう。それを承知で文則は同棲を受け入れたのだが、自らの弱みを握られてしまったようで文則自身は良く思っていなかった。最も、乙女はそれしきの隠し事で文則を嫌うはずもなく、こうして彼が落ち着くまで傍に居るのが習慣となっていった。
「厄介なものね……文則さんのそんな顔を見るのは、私も苦しいから」
相変わらず職場では上司と部下という関係上、乙女は文則に敬語で接するが、私的な場では対等に接するようになっていった。文則もそこまで気にするほど潔癖ではないので了承している。だが乙女がそういう口調で話せば話すほど、文則の中である既視感が彼を襲う。それが頭痛の招待である気もしたが、はっきりとした原因が分からない以上、何も言えない。
だが文則は、その既視感の他にも、自らの記憶の中に、自らの体験した事の無い記憶を持っていることを自覚していた。それは断片的なものであり、にわかには信じ難いものだ。その記憶はこの世ではない遠い遠い世界のもので、ただ無心に、不思議な形状をした槍のようなものを振るい、戦い続けていたものと、見たこともないような屋敷で、会ったこともないような女性と二人で過ごしているものだった。現実と呼ぶにはあまりに突飛であるし、夢と呼ぶ方が自然なくらいだった。だが、文則にとってそれは紛れもなく自らの体験した出来事なのだと思わせるくらいに、現実的なものであった。ただそれが本当に現実なのかを証明する術はない。だから文則はこの記憶と雨によって引き起こされる頭痛、そして乙女と過ごすうちに芽生えた強烈な違和感が非常に理解しがたく、また言葉で言い表せないほど奇妙だと思っていた。
「自律神経が乱れているのかしら。ストレスも溜まっているのかもしれない。ほら、最近は激務が続いていたから」
乙女も文則の頭痛がそんな簡単説明出来るようなものではないということを理解しているものの、思わずそういう理由を付けずには居られなかった。仕事が多忙なのは事実である。が、それだけが原因ではないということは、乙女も心の奥では良く理解している。
「……迷惑を、かけて、すまない」
乙女は無言で、隣に座る文則に寄り添った。そんな言葉は求めていないのとでも言いたげだった。恋人の気遣いにも満足に答えることの出来ない自分に、文則は嫌悪する。それでも何も言わず自らに寄り添う乙女の姿は、独りで佇む文則の苦しみを、溶かしていくようだった。
文則は、乙女ならば、この奇妙な記憶の欠片を打ち明けても良いだろうと思った。他の者ならば笑い飛ばすようなことも、彼女ならば違うかもしれないと考えてのことだった。
「乙女、少し聞いてくれるか」
机についた両肘を下ろし、頭を乙女へ向けてそう言った。彼女は頷き、行き場の無くなった文則の左手を捕まえ、手を握った。
「もちろん」
文則は満足したように軽く頷いて話し始めた。自分の中にある繋がりのない不思議な記憶と、雨の日に起こる頭痛と共に自分に襲いかかる強烈な既視感を。そしてそれは乙女と話している時に現れやすいこと。はっきり言って、文則はこれを言うべきか言わないべきか迷った。乙女のせいでこのようなことになっているのだとは知られたくなかったからだ。彼女に嫌われたくない、拒絶されたくない。文則にとって初めてそう思わせるだけの力を持っているのが乙女という人物だった。
「身に覚えのない、記憶……前世の記憶とか、かしら。私に既視感を感じるのも気になるけれど。……覚えていないだけで、私達が小さい頃に会っていたとかは……ないわよね。じゃあ、文則さんの前世に、私も関係ある、とか」
確かに前世の記憶を持っている人物の話は、よくオカルト的な内容を取り扱うテレビ番組で聞いたことはある。幼少期に親が体験させたことの無いことや、会ったことのないような人の記憶を語り出すという、あれだ。文則もその可能性を少なからず持っていた。なぜなら文則のその記憶も、小さい頃初めて自らに顕現したものだったからだ。それがはっきりとしたのは随分と後で、頭痛がするようになったのは、働き出してからだったように思える。小さい頃も無かった訳では無い為、断言は出来ないのだが、雨と関連付けられるようになったのは恐らくそれくらいの頃だった。
「突然こんな事を言って、気味が悪いとは思わないのか」
文則自身霊などという非科学的なものは信じるタイプではない。それゆえに家族に打ち明けるのにも抵抗があり、こうしてさらけだしたのは乙女が初めてであった。
「全然。むしろ、言ってくれて安心した。貴方はすぐに一人で抱え込むから」
文則はその言葉に安心したようで、彼にしては珍しく、柔らかな笑みを浮かべた。
「私をお呼びしたと、伺いました」
文則らの務める会社の社長である、目の前の人物に彼は呼ばれていた。社長自身の性質であるが、日常的に様々な部署を見に回る以上、文則もこの人物のことは良く見知っていた。
「相変わらず堅物よのう。そこがおぬしの良い所だが……」
一見高そうだが自らの立場を奢ることのない彼に相応しいデザインの椅子に腰掛け文則にそう話す男、曹操は書類から目を離し、眉間に寄せた皺を緩ませようともしない文則をじっと見つめた。
「何か、御用でしょうか」
文則は曹操の手招きに応じて彼の元へ近づいた。こうして文則が曹操自身に直接呼び出されることは珍しいことだった。
「おぬしには、前世の記憶があるだろう」
曹操は表情を緩ませてそう言った。対して文則は驚きを隠しきれない。文則はあの記憶を乙女以外の誰にも言っていない。乙女がむやみやたらに他者にあのようなことを口外する人物ではないし、そもそも前世の記憶と断言するには証拠は何も無い。それなのに曹操がこのように言う理由が文則には分からなかった。
「そう怯えずともよい。おぬしならば、もう思い出していると思っていたが、そう簡単には行かないものだな……文則、おぬしはわしをどのように呼ぶ?」
「はい……? 曹操様と……私以外の者も、貴方をそうお呼びです。貴方自身の命で」
文則は質問の意図を理解することが出来なかった。それとこれとが、一体何の関係があるのだろうかと。曹操と呼ばれた男は、自らを部下らにそう呼ばせていた。社長が三国志好きというのはこの会社の人全てが知っていることだ。
「おぬし、もしわしが、本当にその曹操だとしたらどうする? 前世の記憶を、おぬしと同じように持っていたとしたら、どうする? ……于禁よ」
曹操の鋭い眼光が文則を射抜く。文則は石のように動くことが出来なかった。もし曹操も自分と同じならば。曹操は何者なのか。自分も、何者であるのか。それを考える間もなく、どこか聞き覚えのあるその名を呼ばれた文則の脳内にはある記憶が駆け巡った。
曹操の元で戦っていたこと。そして、樊城の戦いで関羽に降伏したこと。捕虜となって過ごした恥辱の日々。樊城の戦いでは、雨が振り続けていた。屋敷には一人の女を残していた。その女の名は──
「殿……本当に、貴方だと言うのか」
「いかにも。……ようやく思い出したか、于禁よ。おぬしがこの場に来てから随分と時が過ぎたが……いつ言うべきか迷ってな……」
曹操はそこで初めて安心したような笑みを漏らした。
一方書類の置かれた机に文則……于禁は勢いよく手のひらをつき、苦しげに顔を歪めた。
「それならば……私は、貴方に会わせる顔がない」
それは悲痛に満ちた声だった。樊城での降伏と、帰国してからの待遇や最期は、とても常勝将軍と持て囃された男とは思えぬものだった。于禁自身も耐え難いものである。
「顔を上げよ、于禁。1800年も昔のことなど、気に病まずともよいのだから。誠に大義であった。部下思いのおぬしのことだ、降伏も部下の命を守るためだったのだろう?」
曹操もまた、自らに眠る前世の記憶を持っていた。于禁と違うのは、最初からそれが己の体験したことだと自覚を持っていた点だった。于禁は知ることのないまま今の状況を迎えたのだが、于禁以外にも曹操に指摘されて記憶を自らのものであると自覚した者は何人か居た。どうやら曹操はそれを見抜くことの出来る能力を持っているらしかった。
「……私には勿体なきお言葉。現世でも貴方様に巡り会えたこと、感謝致します」
「于禁、もう下がってよいぞ。詳しいことは今日でなくともよい。今日は妻の元に帰るがよい。乙女には前世の記憶はないようだが……何かの拍子に思い出すこともあろう。儂の部下にも、そういう手合いがおるからな。さあ、早く行ってやれ」
「はっ……失礼致します」
于禁はようやく、断片的な記憶が全て自分のものであり、全て自分自身で体験したものなのだと思い出すことが出来た。雨には屈辱の思い出しかない。だから無意識にそれを感じとっていたのだろう。長い年月を経て、ようやく于禁は赦された気がした。
乙女と居る時の既視感も、遥か昔に体験していたのだ。彼女は于禁の同僚であり妻だった。だから彼女が于禁に対して砕けた口調で話していたのに、強烈な既視感を感じていたのだ。
「今度こそ、この幸せを壊しはせぬ」
于禁はそう強く思った。どうか、この穏やかな日々が続くように、と。今日は早く帰って、乙女にこのことを伝えてやろう。彼女ならきっと信じてくれるはずだ。そう考える于禁の横顔は、いつもよりも穏和なものだった。
「この体が、憎い。貴方と共に、行軍に着いていけぬこの身が、腹立たしい」
そう言って床に伏せる彼女は痛々しい姿だった。寝台の傍には同じく顔を伏せる于禁の姿がある。
乙女は曹操軍として戦う女性の中でも、男性に引けを取らぬその実力から、同じく優れた実績を持つ于禁と行動を共にしていることが多かった。後に二人は結ばれるが、それに逸ることもなく、二人は戦場においても常に厳格さを失わない毎日だった。
けれど、今は違う。先の戦で彼女は大怪我を負い、どうにか一命を取り留めたのだが、怪我によって免疫が落ちたのかはたまた傷口から感染したのか、彼女は重い病気にかかってしまっていた。
「もうよい、喋るな……私は必ず、帰ってくるから。戦いが終われば、必ずお前の元に戻る。……お前の好きな物も、何でも買おう。茶も、菓子も、装飾品も」
于禁の手のひらが乙女の青白い頬に触れる。于禁にとって乙女を置いていくのは当然辛いことだ。けれども于禁には出撃しなければいけないだけの理由がある。関羽の侵攻から樊城を守る曹仁達に援軍として参陣せねばならなかったのだ。すなわち、これが彼らにとって、出撃前最後の会話だった。
「私はそんなものいらないわ。ただ、貴方が無事に戻ってくれば、それだけで……」
その願いは叶うことはなかった。長い間振り続けた雨による漢水の氾濫によって、于禁らの引き連れた援軍は壊滅し、于禁は部下の命を守るため、そして乙女の元に帰る為に、討つべき敵である関羽に降伏した。
結局于禁が帰国する頃には乙女の姿は既になく、また于禁も帰国後の待遇からくる失意の内に病で倒れ、二人の再会は叶うことがなかった。
今于禁は過去の記憶を取り戻しているが、乙女と最後に交わした会話や、彼女の元に帰れなかったことは曖昧なものとなっている。曹操は全ての記憶を取り戻すことで彼女に関する受け入れ難い事実をも思い出してしまうのではないかと思ったが、どうやらその心配はないようだった。
彼らはようやく平穏を取り戻すことが出来たのだと、曹操は遠い遠い記憶を辿りながら、そう思った。
時を同じくして于禁も、同じことを考えていたという。