その感情は如何にあるべきか
「また、私が勝ってしまいましたね」
そう言って無邪気に笑う表情を見せる目の前の少女は、いつも眉間に皺を寄せている彼女の兄とは正に正反対だと夏侯惇は思う。彼は自分が惨敗した碁盤の跡地を見て、罰が悪そうな顔をした。
「……孟徳の娘にも勝てんようでは、やはりあいつには敵うまいな……」
くすくすと乙女が笑う声がする。乙女は曹操の娘だ。曹操はこの娘をこれでもかと言うほど可愛がり、時には執務も疎かにしてしまう為、夏侯惇はこれまで散々手を焼かされてきた。あの仏頂面が張り付いているような曹丕でさえも、この妹には甘いのだからお手上げである。確かに彼女は幼さを残しながらもその美貌は誰にも引けを取らないほどであるし、事実、縁談が幾つも来ているのだという噂まで流れていた。年頃の娘なのだから当然なのだが、彼女の年齢なら既に結婚していても問題が全くない。むしろ未だしていないのは遅いくらいだった。それも曹操らの溺愛によるものなのだろうが。
「まあ、そう言わずに。こうやって隙があるくらいが人間、丁度いいですよ、叔父様」
こうして彼らが囲碁を打つようになったのは、至って単純なことである。あの方に勝てる者など居ないのではと囁かれるくらいに、囲碁の名手とされる曹操なのだが、気まぐれに夏侯惇と一局打ったところ、曹操は当然圧勝した。だが負けず嫌いな夏侯惇はそれがどうしようも許せず、また曹操も必要以上に彼を煽るため、それから何度も打ち、その度に夏侯惇はボロボロに負けている。それならばと曹操は一旦自分の娘に修行相手として付き合ってもらえば良いのではないか、ということを提案したのだった。幸い乙女は快く承諾した為、こうして勝負を繰り返している訳であるのだ。
「いや、それでも孟徳に負け続けるのは気分が悪い。……もう少しだけ、付き合ってくれないか」
再び笑い声が乙女から上がる。夏侯惇もつられて軽く微笑んだ。
「叔父様はそうやって笑っていたほうが素敵ですよ。……きっと良い夫になれるでしょうに、妻は娶られないのですか?」
それは乙女にも言える事だ、と夏侯惇は言いかけたが直前でその言葉を飲み込んだ。もしかしたら彼女自身は女性としてどこかに嫁ぐことを望んでいるのかもしれないと思ったからだ。彼女は文官でも武官でもない。一人で生きていくほどの知恵は持っているが、彼女にとって今の状況はどう映っているのだろうか。夏侯惇は疑問に思った。
「……俺は一人で生きていく方が楽なんだ。誰にも迷惑を掛けずに居られるから、な……」
それはあくまでも自論に過ぎなかった。武人としてしか生きられない己に付き従って生きていくのは到底厳しいだろうと彼自身は踏んでいる。細かい気遣いも出来ないだろうし、何より戦場でいつ死ぬか分からない身、自分が果てることで愛する人を置き去りになど出来ないからだ。並の男ならばその悲しみを与えないようにしているのだろうが、夏侯惇はそれをする自信が無かった。そういう訳で躊躇してしまい、未だ独り身で居る。武人と夫を両立出来るほど器用ではないという意識が根底にあるのだ。
「私も武人として生を受けたかった。確かに今の生活は不自由しないのですけど、仮に殿方に嫁いでも、屋敷で戦場からの帰りを待つのは、やはりつらいでしょうから。武人ならば、共に戦場に立つことが出来るというのに……そもそも、縁談は全て父様が断っているのですけれど」
やはり噂は本当だったのだ。彼女に縁談を申し込むのはどこの馬の骨なのかと夏侯惇の胸は一瞬ざわついたことに自分で不思議に思ったが、彼女が親族なのだからそう思うのも無理はないのだろうと自分を納得させる。
そして同時に、曹操の過保護にも困ったものだ、と眉をしかめた。武人して生まれたならば。彼女がそう望むのも、今の世の中ならばそういう考えに至るのも無理はないこと。女性の身からしても、屋敷でいつ帰るかも分からない夫を待つのは苦しいことだと改めて言われれば、ますます夏侯惇は嫁を娶るのは難しいことだと内心思った。
「ならば、文官に嫁ぐのはどうだ? 戦場に出る必要のない者ならば、安心できるだろうしな」
夏侯惇はそう口では言いながらも、かなり複雑な気持ちが渦巻いていた。大切な親族を名も知らぬ輩に嫁がせるのは、それなりに気分が悪い。存外自分も過保護なものだと自嘲する。
「……まあ、それならばまだ良いのですが……なんだかごめんなさい。私の事ばかりになってしまって。さあ、続きと致しましょう」
そう言った乙女はどこか寂しげだったのを、夏侯惇は見逃さなかった。
結局その日、夏侯惇が乙女に勝てることは無かった。それどころかどんどん調子が悪くなっていき、夏侯惇はたかが囲碁にどれほどの神経を使っているのだ、と苛立ったものだが、調子が鈍り始めたのは乙女の話を聞いてからだと思えば思うほど、彼の心には何やら形容し難い気持ちが渦巻くのだった。
「ふむ……夏侯惇よ、少しはましになったようだな」
それから数日が経ち、夏侯惇と曹操は再び囲碁で争っていた。当然というべきか、またもや曹操の勝利で終わったのだが。
「お前に言われても、褒められている気が全くしないんだが」
どうやら曹操は日頃の憂さ晴らしの為に夏侯惇を付き合わせているらしい。夏侯惇に勝つ事で優越感を得ているのだろう、と乙女は言った。憂さ晴らしならば娘と遊んでいれば良いものをと夏侯惇は思うのだが、生憎乙女は曹丕と甄姫の元へ行っているようだった。こんな事ばかりして、執務はどうしたのだろうと机の上を見遣れば、既に片付けられた竹簡がまとめられていた。今日は小言を並べる必要はないと夏侯惇は安堵する。
「まあそう言うな。乙女と囲碁の練習をしていたのだろう? 嬉しそうに話しておったわ。何か変なことを吹き込んではいないだろうな」
「まさか。大体なぜ俺があいつに変なことを言う必要があるんだ」
縁談を全て曹操に断られたという話を二人でしたことがどこからか漏れているのかと夏侯惇は思うが、曹操の様子を見るにそうではないようだ。それにその程度が知られたくらいで動揺するような男ではないという事くらい、夏侯惇はよくよく理解している。
「冗談だ。ところでその乙女についてなのだが」
それまでの態度を一変させ、急に真面目な表情を見せる曹操に夏侯惇は驚く。乙女について何か言うべきことでもあるのだろうか。それとも昨日の話が変な方向に歪曲され広まってしまったのだろうか。例えば夏侯惇が乙女を娶りたい、などと言ったようにねじ曲げられてしまい、それが曹操の耳に入った……そのような可能性も捨て置けない。噂というものは当人が思っているよりも広まりやすいものだ。
「わしはな、常々乙女の縁談をことごとく断ってきた。だがおぬしならば、乙女を嫁がせてもよいと思っておるのだ」
「は?」
夏侯惇はあまりにも予測不可能だったその言葉に、思わず気の抜けた声を発した。驚きで手を盤上に着いた為、並べられた碁石がばらばらと床に散らばった。
夏侯惇は散々真面目な面をしておいて捻り出した言葉がそれかと言いたくなるのをぐっと堪えた。
「乙女は年頃であるが、わしはあやつをどこにも嫁がせたくはない。だが今もなお縁談の誘いがやってくるのは、あやつが誰にも嫁いでいないからだ。そこでだな……おぬしの元へ身を固めると決まったならば、縁談の誘いはやってこないだろう? 幸いにもおぬしは未だ独り身。そして乙女もおぬしには懐いておる。……どうだ? 悪くない話であろう?」
どこまでも親馬鹿だ。夏侯惇は口には出さなかったが呆れた様子だった。確かに曹操の言うことも一理ある。夏侯惇も乙女が知らない男に嫁ぐものならば気に入らないと思うだろうし、乙女が自分に懐いているのも知っている。
「だが、そんなことをいきなり言われてもだな……」
いくら条件が揃っているからと言っても、本人の了承が得られない以上夏侯惇には何の権限も存在しない。そもそも乙女が懐いているのは親族だからであり、そこには恋愛感情の一欠片も存在しないだろう。少なくとも夏侯惇はそう思っている。夏侯惇自身も、従兄弟の娘を女性として愛せるかと問われればはっきりと是することは出来ないのだ。それに先日乙女は武人に嫁ぐのをあまり良くは思っていないようだった。やはりこの話は自分達に適していないのではないか──
「ううむ……夏侯惇よ。これは決して口外するなと言われていたのだがな、乙女はおぬしのことが本気で好きなようだぞ。一人の男として、な」
「は?」
再び頓狂な声を夏侯惇は上げた。乙女が自分をだと? 何かの間違いじゃないのか? だが曹操の表情から察するに、からかわれているのでも何でもないのだと悟る。
「大体、おぬしも乙女を好いておるのだとてっきり思っておったが……」
「俺が? 乙女を?」
従兄弟の娘として可愛がってはきたものの、それが恋愛感情から来るものなのかと問われれば違うものだと、以前の夏侯惇なら答えていたのかもしれない。けれども今の夏侯惇は少し違った。昨日の乙女の話を聞いて浮かび上がった己の気持ち。そして乙女のやけに寂しそうな顔が心の奥底に残ったこと……これは親族としての愛を、超えているのかもしれない。
夏侯惇はそれを初めて自覚し、彼にしてはとても珍しく狼狽え始めた。曹操に向けられたはずの視線が泳ぎ始め、俯いてしまった。
「なんだ、夏侯惇。そんな生娘のように顔を赤らめて…… 乙女! もう入って良いぞ!」
部屋の外から姿を見せたのは乙女だった。
「お前、あいつの元に行っていたはずじゃ……」
「おぬしもまだまだだな、夏侯惇よ。乙女は初めから部屋の外に潜んでおったのだ。わしらの会話は全て筒抜けておる」
こんな情けない姿を見られてしまった、そして会話を全て聞かれていたという気恥しさが込み上げ、夏侯惇はますます萎縮してしまった。これでは猛将と恐れられている姿はどこにも見えないだろう。
「ごめんなさい、叔父様……本当は私が直接お話するべきなのでしょうけど、恥ずかしくて……父様に頼んだ結果なのです……その、私が、叔父様のことを好きだということは……本当です……」
話しているうちにどんどん顔を紅くさせて乙女は喋る。それを聞いてまた夏侯惇のほうも普段では考えられないほどに頬を紅く染めた。
「乙女はともかく、夏侯惇はなぜそんなにも照れているのだ、もっとしゃきっとせんか」
夏侯惇の耳には乙女の言葉しか入ってこないようで、曹操の言葉は全く聞いていないようだった。曹操はそんな夏侯惇と自分の娘を見比べて肩をすくめる。二人とも、こんなにも小心者だったとは! と言い出しそうな顔だ。
「乙女……本当に、俺で、いいのか? お前が望むような、平穏な生活は望めないというのに……」
夏侯惇は自分の心臓がばくばくと脈打つのを感じた。思わずここは戦場なのかと錯覚する勢いである。未だに半信半疑だった。先日、文官の妻になることをあまりよく思っていなかったのは、武人である自分に焦がれていたからだ、と夏侯惇は確信した。
「はい……それでも結ばれるならば、叔父様が、いいんです……」
かくして二人は互いの思いが一致し無事に結ばれることとなる。未だ羞恥に震える二人と散らばったままの碁石を見て、曹操はさも愉快そうに笑ったのだった。