数奇
がらがらと柱の崩れ落ちる音が辺りに響く。炎はあっという間に燃え広がり、人馬平等にその勢いを殺す。それはこの魏の本拠、許昌でも相変わらずだった。
呉軍の勢いは留まることを知らないようで、司馬懿さん達が汝南で食い止めようとしても、それは何の気休めにもならなかった。きっと魏は敗れるんだろう。けれども誰もそれを口には出さなかったし、私もこの気持ちは胸の中に秘めておいた。口に出せば、それは真実なのだと嫌でも認識してしまいそうだから。つまりは、魏軍が負けてしまうことを認めたくないのだ。
私はすぐ隣の玉座で剣を携えたまま真っ直ぐに広間の入口を見つめ続ける、曹操さんの横顔を一瞥した。この人はいつだって強い。幾多の悲しみを決して表には出さずに、平気な振りを演じている。今も炎に怯えて逃げていった兵達にも構わずに、獰猛ともとれる瞳で目の前を睨んでいる。そして、その瞳の奥には優しさを隠し持っている。
千年以上も先の遠い未来からやって来た私のことを、こうして今まで保護してくれたのだ、これを優しさと呼ばずにいられないだろう。
崩れ落ちるこの部屋に居ても、私は何故か冷静だった。ああ、また私は炎の中で死んでしまうのか。それだけだった。そして、曹操さんと初めて会った日のことを思い描いていた。曹操さんと別れてしまうことは、つらい。それだけが心残りだ。
私は本を読むのが好きなだけの内気な人だった。本の世界は心地いい。現実のように、私に酷く当たるような人も居ない。本を読むことで、空想の世界に浸るのが好きだったのだ。小説だけでなく、詩も哲学も歴史も、とにかく現実からなるべく離れることの出来る、本というものに惹かれていた。両親はいわゆる毒親と一般的に称されるような人だったから、私が知識を得ることも良しとしなかった。だから小さい頃から学校や地域の図書館には籠りっぱなしだった。大学進学を機に親元から離れ、やっと解放されると思った矢先だった。
両親と三人で住んでいる小さな一軒家が、火事に巻き込まれたのだ。炎は逃げる間もなく全てを包んだ。両親が逃げたのかあのまま部屋に居たのかさえも分からない。ただ、私は間違いなく死んだ。いや、死んだはずだったのだ。火が起こった理由は、父親のタバコの不始末だった。覚えているのはそれだけ。呆気ない人生だったと熱に浮かされた体を横たわらせて、ぼんやりと考えた。だが現実はそうならなかった。
気がつけば私は見知らぬ場所に倒れ伏せていた。それを見つけ助けてくれたのが、曹操さんだったのだ。
「おぬし、ここで何をしておるのだ」
そんな感じのことを話された覚えがある。表情には驚きが混じっているもののやけに堂々としていて、全く話の飲み込めない私は大いに恐れたものだった。
働かない頭と体を必死に動かし、私は自分の手や足を眺めた。何処にも火傷の跡すらなく、衣服も火事に遭う前のものと寸分違わず同じものだった。
その後私は、自分が倒れていた場所が曹操さんの私邸だったことを知った。曹操さんは、見ず知らずの私の話を親身になって聞いてくれたのを、今でも覚えている。
「つまりおぬしは、遥か未来からやって来たのだと言いたいのだな?」
「はい、信じてもらえるかは分かりませんが……本当なんです」
全く状況が理解出来ないといった様子の私に、幼子に勉学を教えるように曹操さんは優しく接してくれた。話を聞くうちにここは俗に言う三国志の時代で、目の前に居るのは乱世の奸雄として知られる曹孟徳その人なのだということを知った。本を読むのは好きだったものの、三国志に関しての知識はあまり詳しいとは言えなかった。せいぜい世界史で習った程度のものだ。それでも何か気に障ったことをしてしまえば瞬く間に斬られてしまってもおかしくない世界なのだと思い、震えながら言葉を発したものだった。
「その珍妙な格好といい、この世の理をほとんど知らぬ素振りといい……確かに敵国の間者にしては不適合だ。……おぬしの話を、信じよう」
こうして私は、第二の人生とも呼べる日々を開幕させたのだった。
曹操さんは身よりも何もない私の為に衣食住を用意してくれた。後になって、曹操さんは何人も側室が居て何人もの女性が夜伽の相手を務めているのだと知ったが、私にはそんな素振りは一切見せなかった。現代とは価値観も何もかもが違うのだから、私もそういうお役目を与えられてもおかしくないのだとばかり思っていたが、曹操さんは何処までも私に対して優しかった。それはまるで父親のように。家族の温もりを知らぬ私が初めて得た体温だった。
そうして過ごすうちに、曹操さんの息子……曹丕さんや、曹操さんの家臣の人達とも仲良くなった。曹丕さんは私のことを最初は随分と訝しんでいたけれど、時が経つうちに心を開いてくれた。曹丕さんの妻である甄姫さんはとても優しくて、まるで姉が出来たようだった。
「乙女は、元いた地では、どんな事をして過ごしていたのだ?」
少しでも助けになればと、慣れぬ身で女中に教えを乞いお茶を二人分淹れ、たわいのない話をしている時だった。こうして度々現代のことを話すのが習慣になっていた。
「私は……書物を読むのが好きでした。そうそう、私の時代には竹簡はなく、紙で出来たものしかないのですよ」
「おお、紙が普及しているのか。紙を作る工程自体はあるとはいえ、まだまだわしらは竹簡を用いなければならぬ……それほど文化が発展しているのだろうな」
この時代は確か、蔡倫という人が製紙法を発達させたはずだ。高校の世界史でそう習った覚えがある。紙が完全に広まるまではまだ時間がかかるだろうから、未来は紙しか使われていないということもこの時代の人からすれば、興味深く感じるのかもしれない。
「はい。書物は勉学の為のものは勿論、私は架空の物語……小説と呼ばれるものなんですけど。それを読むのも好きだし、詩が書かれたものなんかもあります。私は全て好きです」
「おぬしの居る時代、すこぶる興味深いものよ……わしは詩を吟じるのが好きだ、どれ、今からおぬしの為に、贈ろうではないか」
そんな恐れ多いとも思ったが、曹操さんはやけに楽しそうに頬を弛め楽しんでいる。そんな時私は、曹操さんに拾われた恩を大層深く感じるとともに、この束の間の平穏が続けばいいと、我儘を思ってしまうのだった。その後も私達はお互いのことをよく話した。私が現代で両親に受けたことを話した日には、曹操さんは話したこちら側が申し訳なくなるほど、苦しそうな顔をして話を聞いてくれたものだった。
曹操さんに拾われてから、どれほどの年月が立ったのか。確かに楽しいだけの生活では無かった。曹操さんも曹丕さんも、戦に出なければいけないことがやはりあった。覚悟はしていたけれど、危険だからと一人、屋敷に残されるのは辛かった。得体の知れない女が魏に居るのだと分かった途端、私の身はただでは済まなくなるのだろう。それは嫌というほど理解している。戦場の女は武人でもなければ、囚われ慰み者にされるということくらいは私でさえ知っている。だから私は彼らが無事に帰ってくるのを祈るしか無かった。
「乙女、心配をかけたな」
戦から帰るといつも、曹操さんはそう言って私の頭を撫でた。私は戦の怖さを知らない。そんな自分の存在が足でまといなのではないかと感じることもあったが、曹操さん曰く、私の存在は希望なのだとか。
「おぬしの時代は今よりも平穏無事なものなのだろうと以前に聞いたな。わしらの戦いはいつか実を結び未来へと繋がるのだと、わしらの戦いは無意味ではないのだと、おぬしの存在がそう思わせるのだ」
そういう曹操さんは誇らしげで、戦いに負けてぼろぼろになってしまった時も、その気だかさだけは失うことが無かった。私はそんな曹操さんが好きだ。これが、一般的な子が父親を敬愛するような気持ちなのか、恋慕から来るものなのかは分からない。けど、分からないままでも良いと思った。ただ曹操さんの近くに居られるだけで、こんなにも幸せなのだから。
今、まさに炎の中にあろうとも、その思いは消えることは無かった。
私は戦に出たことなんてない。戦場に同行たことも。それでも今回のこの戦いだけは、絶対に曹操さんから離れるのは駄目なことなんだと、理屈ではない、本能だろうか──で感じたのだ。どうしても戦場にお供したいのだと曹操さんに言えば、彼は困惑してしまったようだった。けれど彼にも何か思う所があったのか、ついに許可を得ることが出来た。
「何があっても、わしから離れるな」
それが条件だった。何故そんなことをわざわざ条件として出したのかは分からない。だが、そうまでして私を思ってくれているという事は明らかで、やはりそう言われると嬉しいものだ。
だから私は今、曹操さんの隣に立っている。私には失うものなんてとっくに無い。だからここで果てようとも悔いは無いのだ。きっと敵軍の将に殺されるか、この炎の中で焼け死ぬんだろう。でもそれでも、良い気がした。元より無かったこの命を曹操さんと過ごせるのならば、それで。
「で、伝令! 曹操様、敵軍総大将……孫権は、曹操様の降伏を願っています!」
息も絶え絶えに、鬼のような形相で一人の伝令が駆け寄ってこう言った。孫権。蜀と結託し、最後の憂いとなった私達魏を討とうとしている。本来ならばこの三国統一するのは魏でも蜀でも呉でもない。魏の将軍司馬炎……司馬懿さんの孫にあたる人が、魏の皇帝曹奐……こっちは曹操さんの孫にあたる人から禅譲を受けて建国された晋という国が三国を統べるのだ。けれどこの世界ではそうならなかった。どうしてこんな事になったのかは分からない。けれど、もう私達に勝ち目なんて最初から無かったんだろうと、この律儀な伝令の姿を見て確信した。
「わしは従わぬと伝えろ」
曹操さんは私でさえも戦慄するような低い声でそう言った。伝令は拱手の後、ばたばたと広間を出ていった。曹丕さん達はどうなったのだろう。あの人のことだからそう易々と命を落としたりはしないだろうとは思うが。そういえば、曹丕さんにも詩を吟じてもらったなあとか、甄姫さんにはこの時代の化粧を教えてもらったなあとか、そんな思い出が頭を電撃のように駆け巡った。
「……孫権は、劉備めと盟を結び、我らを攻めた。きっと孫権は、わしらにもそれを望んでいるのだ、だがわしはそれに従う気は無い。あのお人好しのことだろう、きっと子桓達の命は保証されている。奴らの狙いはわしなのだからな。だが」
曹操さんはおもむろに立ち上がり、携えていた剣を地面に落とした。重い音を立て地面へと落ちるそれへ見向きもせずに、ゆっくりと私のほうへ歩み寄る。
「わしがあ奴らに頭を下げれば、おぬしのことも筒抜けになってしまうだろう。おぬしを心より愛でるのは、わしのみでよい」
曹操さんはそう言って懐から何かを取り出した。きらきらと炎を受けて煌めくそれはなにやら高そうな簪だった。
「……ここで果てる覚悟はあるか?」
そんなの決まっている。私は強く頷くと、曹操さんは私の髪に元から着けている髪留めを外し、新しくその曹操さんが持っているものを着けた。
「ならば良し。おぬしは、わしが最期に愛した女よ。傍に居ろと言ったのも、わしのくだらぬ独占欲ゆえに、な」
よく似合っている。そう曹操さんが呟いたその瞬間私は曹操さんに抱きしめられた。部屋の温度のせいだけでなく、自分でも頬が紅潮するのが分かる。大きな手のひらが私の背中を優しく撫でた。私も曹操さんの背中に手を回すと、さらに抱擁が強くなった。
ああ、私、曹操さんに愛されているんだ。私は初めて自分の抱いていた気持ちに気づいた。
それならば私も、この人の思いに答えなくてはいけない。
「私も、曹操さんが大好きです」
ちらりと見上げれば、曹操さんは優しく微笑んでいた。覇王としてではなく、ただの曹孟徳という人間を垣間見ているようで、嬉しくなった。
「全く、愛いやつだ……おぬしと…… 乙女と過ごした日々は、恒久に宝よ」
いよいよ私達の周りには轟轟と響く炎が迫る。けれども恐れることは何も無い。曹操さんのおかげで生き長えたのだから。そしてこの腕の中で生涯を終えられるのだから。
私はようやく、瞼を閉じた。
「……ねえ、乙女、 講義終わっちゃうよ、いつまで寝てるの」
長い夢を見ていた気がする。どんな夢だったかはぼんやりしているけれど、何かとても大切な思い出で確か……ってそんなことを考えている場合じゃないはずだ。大学に入学してからまだ少ししか経っていないのに、なんて自分はだらけきっているのだろう。
「わっ全く話聞いてなかった! ごめん、教えてくれてありがとう!」
隣の席に座って真面目に講義を受けていた友人に小声で礼を言う。こっそり周囲を見渡せば私以外にも睡眠学習に勤しんでいる人がいて、少し安心した。が、肝心の講義自体は全く頭に入っていない為、勿論ノートは取れていない。せめて今スライドに映っている所だけでも整理して移さないと、後々後悔しそうだと思い、筆箱を手に取る。
筆箱のチャックを開けると、入れた覚えのない簪が入っていた。そもそも自分は簪なんか着けたことがない。だが妙に既視感がある。
簪を手に取った瞬間、全てを思い出すことが出来た。今の私は大学生で、親元から離れ一人で暮らしている。けれどもあの場所で過ごした私はそうでなかった。火事に巻き込まれ、気づけば三国時代に……
忘れるはずがない、いや、忘れてはいけないだろう。私はあの場所で、命の恩人と呼べる曹操さんと再び炎に包まれたのだ。ならば今の私は一体……? 全て夢だったのだろうか、じゃあこの簪は?
何が何だか分からなくなり、私はふと目の前で講義を続ける教授を見た。
その横顔は私が愛した男に良く似ていた。
まさかあの人が居るなんて信じられない。きっと気のせいなのだろうと思う、いや、思いたかった。
三国志の英雄─曹操に酷似したその教授は私の方を、全てを見通しているかのようなあの獰猛で鋭い目で見つめ、にやりと口角を上げた。
その見知った表情は紛れもなく、私の愛した奸雄そのものだった。