蒼い悪魔
愛のない相手に抱かれることが、こうも空しいことだと乙女はこの地で初めて実感した。横に眠る男は静かに寝息を立てて、安心しきった様子のようだった。乱世に生きる女である以上、自分の意思でない上での婚姻は珍しくないことであり、乙女もそれは覚悟の上であった。だがそれでもやはり慣れないものなのだった。

「……眠れぬのか」

男、曹操は目をぼんやりと開き、乙女のそれを見つめる。答えられないでいると、彼は乙女の背中を引き寄せ彼女を自らの胸にすっぽりと収めてしまった。

「申し訳ありません」

曹操の肌が乙女に触れる。それが先程までの情事を思い出させてしまうようで乙女は複雑な気持ちになった。彼女は自分の兄の命で、戦乱で夫を失った哀れな女性を演じ、その美貌を惜しんだ曹操の側室になったのだった。

正確には、兄ではない……戦乱の中で孤独と化したで彼女を、引き取った男であった。彼も両親を失ったばかりであり、また兄弟にしてはいくつか年が離れているものの、父親と呼べるほど年齢が離れていた訳でもないので、はその男を兄と慕っていたのだった。従って、乙女はその兄の言うべきことならばと、彼女は喜んで従い、曹操の信を得たのだった。

「構わぬ」

曹操の骨ばった指が乙女の髪をするりと梳かす。乙女は現在の曹操の「お気に入り」だった。美麗ながらも夫を失った未亡人。曹操の心を惹くには十分だった。曹操は彼女を愛している。それは本人にとっても実感出来ることだった。そうでなければわざわざ側室として迎えたりはしない。曹操はそういう男であることを彼女は知っている。

愛されることそのものは悪くは無い。両親の愛を受けることなく育った彼女にとってそれは渇望したものだった。兄も愛してくれてはいたが、彼は長い戦いに従軍することばかりで、乙女に構ったのは彼の家の使用人ばかりであった。それでも自分を拾った男なのだからと、彼女は健気に尽くしていた。

しかし、自らが相手を愛せないのならば、いくら寵愛を受けていても、無意味なのだと乙女は思う。だがそれも好都合だった。なぜなら彼女が曹操に嫁いだのは、兄の両親を死に追い込んだ仇を取る為……すなわち、曹操を殺す為だったからだ。

「死んだ夫を想っておるか」

曹操は掠れた声で、乙女の髪を弄びながら囁く。曹操は乙女の話を信じきっているのだ。これならば殺意を悟られずにいられるかもしれないと、乙女は曹操の腕の中でほくそ笑んだ。

「なぜ、あのお方が死ななければならなかったのかと……今でも、そう思うのです」

彼女には死んだ夫など存在しない。ただ彼女にあるのは、兄への忠誠とも言える思いと、曹操への憎しみだけだった。敬愛する兄の両親を討ったというそれが、彼女の原動力となっているのだ。

「おぬしの思いは、未だ亡者に向けられたまま、か……その心を、いずれわしだけのものにしてやりたいものよ」

自分は何人もの女にその愛を向けているというのに、その女には自分だけのものになれと嘯くその傲慢さは、やはり好きになれなかった。しかし乙女は、この曹操の言葉には不思議魅力が備わっていると感じる。まるで、彼の言葉に身も心も支配されてしまうような──それこそ瞳を覗けばその深淵に吸い込まれてしまうようで乙女は理性を保つためにも、曹操の腕の中から顔を上げることは無かった。

返事がないことを曹操はどう受け取ったのか知る由はなかったが、彼は愛おしそうに髪をひと房とって口付けると、満足そうに目を細め、そして再び眠りについた。彼をいつ殺してもよいように、乙女は常に短剣を持ち歩いていた。気づかれないように枕の下に忍ばせたそれは今日も刃を血に濡らすことはなかった。曹操に抱きしめられたままでは到底身動きも取れるものではない。彼女は観念して、大人しく思考を沈めた。



そうして曹操からの愛を受け続ける毎日が続いた。それでも自分に靡かない乙女のことをどう思ったのかは分からないが、彼はとにかく乙女を物で釣ろうとした。美しい着物に、簪に。今日も彼女贈られた蒼い衣服に身を包んでいる。乙女は曹操の杯に酒を注ぎ、相も変わらず従順で無害な、だが決して彼に媚びることのない態度を保ち続けていた。

「おぬしは、蒼よりも、紅が好きか」

だがそう言われた時、乙女は曹操に進められ仕方なく自らも持っていた杯を落としてしまいそうになった。
紅は、兄の仕える君主の好む色だった。曹操に拾われるふりをした時に乙女が着ていたのは紅でも蒼でもない、彼のような身分から見ればみすぼらしいともとれる素材のものだった。紅などを身につけていれば、たちまち敵国の、それも敗者の女として慰みものにでもされていたことだろう。

だから乙女は曹操が自分の本性を見抜いているのではないかと思い、恐ろしく感じた。動揺を悟られないようにして答える。

「私はどちらも素敵と存じますが」

心做しか声が震えてしまったかもしれない。乙女はそれでも平静を装って、大して好きでもない酒を一息にあおった。

「まあ、そんな些細なことは重要ではない。おぬしは何を着ても見目麗しい。おぬしのような女にならば、心の臓を貫かれたとて、悪い気はせんだろう。何しろ最期に目に焼き付くのがその秀麗な表情なのだからな」

そう言って曹操は意地悪く笑い声を上げた。
いよいよ乙女の胸の内は穏やかでいられなくなる。彼女は自分の心臓の鼓動がここまでうるさいと感じたのは初めてだった。この男は最初から全てを知っていたのではないのか。そのような疑念さえ浮かんでくる。むしろ、これが確信犯でないとして、なんと呼ぶことが出来るだろうか。

曹操は全てを見抜いた上で、わざと自分を傍に置いているのだ、と乙女は考えた。その上で気づかないふりをして情愛に耽っている。まるで自分は決して殺されないのだと、過信しているように。全てが曹操の手のひらの上でいいように転がされているような気がして、乙女は虫酸が走るのを否応なく感じた。つくづく驕傲な男だ、と。

「そんな、お戯れを……」

今の乙女に出来るのは、ただ曹操の逆鱗に触れないように言葉を返すのみだった。曹操ほどの男ならば、女一人を殺すなど児戯に等しい。いつ気が触れるとも分からないから、乙女にはもはやどうすることも出来ない。兄との約束を破る訳にもいかず、曹操の隙をついて役目を果たすしかない。しかしそれも厳しいことなのだと現実を突きつけられたようだった。

「乙女。わしは近々、戦に赴かねばならぬ。その前に、おぬしを飽くほど抱いておきたい。よいな」

それならば自分のような素性を隠した、どこの馬の骨とも分からぬ女より、才気に満ちた他の女を散々抱いた方が満足するのではないか。乙女は心の中でそう呟く。

今日もこの男に痴態を晒さなければならないのか。分かっていることとはいえ、望まない行為は何度やっても慣れないし、また慣れようとも思わなかった。しかし曹操のこの低い声を聞けば聞くほど、自分の体が甘く疼くのも事実であった。曹操はこうして女を侍らせてきたのだろうと思うと、彼の術中にまんまとはめられたような気がして、乙女はさらに自己嫌悪に陥った。

「……はい」

それでも彼女に拒む権利など微塵もない。ただ受け入れることしか、道は存在しないのだ。

結局その夜も曹操を殺すことなど出来なかった。乙女はぼんやりと相も変わらず曹操の腕の中でそう考えていた。隙も何もあったものではない。そういう男だからこそ、幾多の恨みを買いながらもこうしてしぶとく生き延びてきたのだろうと思った。自分に残された鬱血痕を見て、この人はどうしてこうも自分を繋ぎ止めておきたいのだろうと乙女は思う。殺すのならば、さっさと殺してしまえばいい。それをせずにこうして彼は乙女を愛し、執着の跡を残す。乙女には彼が何を考えているのか分からなかった。

次の日乙女が目を覚ませば、既に曹操の姿はなかった。窓から陽の光差し込むのを感じ、こんな状況にあっても呑気に昼まで寝ていられた自分に、心底うんざりするのだった。

それから暫くして、曹操は戦から乙女の元へ戻ってきた。何やら気分が良いらしく、大きな箱のようなものを抱えながら、愉快そうな表情をしている。乙女が怪訝そうな顔をしてみれば、曹操はその箱を机の上に置いた。

「贈り物だ。開けてみるがよい」

また曹操は自分を物で釣ろうとしているのだ、と乙女は感じた。いくら何を手渡されても、この男に媚びるなど到底ありえない。そう言いたげな乙女に曹操は僅かに口角を上げて、顎をしゃくって箱を開けることを催促した。

「………!?」

乙女が開けて覗けば、強烈な鉄の匂いが立ち込めた。人の、頭髪。いや、頭髪などという生ぬるいものではない。人の首そのものだ。乙女は人の死体を見た経験は確かにあったが、斬首されたであろうそれを見るのは初めてであった。もしや、と乙女は嫌な予感を感じた。恐る恐る髪を掴んで、人だったものを引き上げる。

乙女は声を上げることすら出来なかった。濁った目を見開き口を一文字に結んだそれは、紛れもない、乙女の兄だった。あまりの衝撃に、思わず掴んでいた髪を離す。未だ血がこびりついたままのそれは、机に血痕を塗りつけ地面へごろりと転がっていった。

「そん、な……あにうえ……」

必死に発した声は震えていた。だが不思議と涙は出なかった。この状況を現実だと認めたくなかったからかもしれない。彼女に湧いて出たのは、悲しみよりも怒りと憎しみのほうが強かった。この状況を仕向けたにも関わらず、平然と笑みを浮かべているこの男への。


乙女の悲痛に満ちた叫び声が部屋中に響く。曹操は煩わしそうに眉をひそめるも、その態度を崩すことはない。

乙女は勢い良く、懐からよく手入れのされた短剣を取り出し、曹操に向かって一直線に突撃した。兄が殺されたほどなのだから、やはり最初からこの計画は筒抜けだったのだ。それならば次に斬られるのは自分に違いない。そう思えば今までの曹操に対する演技を積み重ねてきたことを捨てても良い。どうせ死ぬのだから、最期に一矢だけでも報いなければならない。乙女はそう思った。

しかしがむしゃらな突撃に叶うはずもなく、曹操は乙女をかわし、床へなだれ込むようにして膝をついた乙女と、短剣の切っ先によって大きく傷の着いた床そのものを見下ろした。

「わしへの憎しみを強めるのは勝手だが、おぬしをこの男から解放してやった事は、感謝してほしいものだ」

乙女の傍にしゃがみこみ、曹操は彼女の顎を持ち上げ自らに相対させる。乙女は彼をきつく睨んでいた。

「誰が、あなたに、感謝するものですか……」

曹操はやっと彼女が本性を現したことを、内心嬉しく思った。これくらい気の強い女のほうが自分を満足させてくれるものだ、と曹操は胸の内で感じる。

「わしはおぬしを殺さぬ。だが、この男と使用人達は既に斬り捨てた。何しろわしを暗殺しようとしていたのだからな。おぬしはまこと哀れよ。計画が失敗すればわしに殺され、仮にわしが死んだとしても、おぬしは反逆者として死ぬことになろう。おぬしは最初から利用されていただけなのだ」

最初から利用されていた。そんな言葉を乙女は信じれなかった。自分を拾ってくれたのは、きっとそんな思惑からではない。乙女はますます曹操への憎悪を深める。

「ならば、さっさと私を斬ればいい」

なぜこの男は自分を殺さないのか。自分を憎み続ける女を傍に置くことに何の抵抗もないのか。乙女は曹操に顎を掴まれたまま、毅然とした態度でそう言い放った。

「斬らぬ。おぬしはもはや逃げ場のない籠の中の鳥。それに、わしはそう簡単に殺されはしない。せいぜいおぬしが屈服するまで愛でてやるとしよう」

曹操は乙女の体を引き上げ無理やり立たせ、そして足で短剣を蹴って彼女の手の届かないところまで飛ばした。

乙女が言葉を紡ごうと口を開こうとすれば、それは曹操の唇によって防がれる。舌の交わる感触に苦しくなり乙女は曹操の胸を押すと、曹操は大人しく引き下がったが、そのぎらりとした瞳に身震いした。

「その表情を、もっと歪ませてやろう。そして衣服だけでない、心の底まで蒼に染め上げてやる」

曹操はそういって再び乙女に噛み付くようにして口付ける。

自分の居場所がもはやこの場にしか存在しないことに絶望しながら、乙女はこの心底自分勝手で驕慢な男を受け入れることしか出来なかった。

短剣によって付けられた傷跡と、転がったままの首が、この惨い状況を物語ったのだった。
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