鬼に盲従させられる
薄暗い部屋で乙女は目覚めた。今まで自分が何をしていたのかが、全く思い出せない状態だった。重い瞼を開けるとそこは見た事のない部屋。そして部屋が反転て見えるのが認識でき、そこで初めて乙女は自分が横たわっているのだと気づく。辺りには簡素な椅子や机が散らばったように並べられ、装飾品の類などは見当たらない。乙女は視線を動かし、自分が寝台に居るのだということが分かった。

ただ部屋で寝ているだけという訳ではない。乙女にとってここは初めて見る部屋だったし、そもそも自分の置かれている状況が理解出来ない。朦朧とする思考を掻き出して情報を得ようとするも、上手く頭が回らなかった。この部屋を一度、ぐるりと見渡したい。そう思って体を動かそうとすると、背中に激痛が走る。

自分は怪我を負い、ここに寝かされているのだろうか。それならば納得出来る。怪我人が増えれば当然処置の為の部屋も必要となり、空いている部屋に片っ端から詰め込むのはよくあることだ。けれどもここには乙女以外の人物は居ない。寝台も自分の居るこれしかないようだった。

背中を痛めないようにして目だけで自分の体を見ると、次に入って来たのは手と足に掛けられた鎖だった。あまりにも頭が混濁していて付いている気づくことが出来なかったのだろうか。鎖を辿っていけばそれは寝台の足へと繋がっている。一体誰がこんな事を。自分は攫われたのだろうか。不安が頭をよぎる。よく見れば腕や足にも刀傷が見える。まだ真新しい傷のようだった。腕を動かせば鎖同士が触れ、じゃらりと重い音を立てた。

乙女の着ているものとはいうと、これまた彼女にとっては馴染みのない文様の刻まれた美しい着物であった。攫われたのならば、このような高価なものを与えるとは考えにくい。ますます乙女はこの状況を不思議に思った。自分は一体何をしていたのだろうか?乙女は自分が曹操に仕える武人であったことを覚えている。ただ覚えているのはそれだけだった。傷の具合から察するに、自分が戦場に出ていたことは間違いない。けれども何を目的として、誰とどこで戦っていたのかは、依然として不明なままであった。

声を出そうにも喉は乾ききっているようで、試しに発せば醜い枯れた声が出るのみだった。これでは助けを求めることもままならないと、乙女は絶望した。

すると扉を開ける音が聞こえ、何者かが入って来るのが分かった。見覚えのある影だった。

「乙女殿……お目覚めになられたか」

それはよく見知った声だった。声の主、張遼は心底安堵したような表情で彼女の元に近づいた。乙女は張遼の姿に一瞬の安心を得たものの、この状況で同僚が来るのに不信感を覚えた。けれども張遼の優しげな声色に、その気持ちは溶かされていくようだった。

「ちょう、りょう……どの」

掠れた声で返事した彼女に張遼は近づき、無骨な手のひらで彼女の髪を撫でた。

「意識が戻ったか……その様子では喋るのもつらいだろう。水と粥を持ってきてやろう。暫し、待っていてくれ」

そう言って張遼は目を細めて笑みを浮かべた。好意に満ちたものであったそれに頷く。だが去っていく張遼の横顔はあまりに冷たく、乙女は悪寒がするのを感じた。なぜなのかは分からない。張遼は乙女に危害を加えようとしている訳でもないのに、体が危険だと訴えているようだった。

暫くしてから、張遼は戻ってきた。彼は乙女の傍に寄り、まず水の入った器を彼女の口元に近づけた。

「飲めるだろうか」

乙女は僅かに頷き、手を伸ばして張遼の持つ器を自らの手で持とうとする。だがそれには至らずに、ただ手を添えるだけとなった。

「手が震えている。私に全て任せてくれ」

乙女は口を開けると、張遼は器を傾ける。冷たい水が口内を潤した。これで少しはあの掠れた声がましになるだろうか、と乙女は思った。

「……わたしは、一体」

彼女の抱く疑問は最もだった。ここがどこで自分は何をしていたのか。どうして張遼が自分を世話しているのか。乙女は目覚めたばかりで混乱しているのか、たどたどしく話した。

「何も覚えておられぬというのか」

無言で首を振る乙女に、張遼は話し出した。彼女の震える指先を、両手で包みながら。

「乙女殿と私は共に戦っていて、戦い自体には勝利したのだが……陣中に刺客が紛れていたのか、そなたは斬られてしまったのだ。背中に走る裂傷がそれだ。だから、私が連れて帰ったのだ。何しろ大きな怪我であるから、なるべく静かな環境のほうがいいだろう。それだけの理由で、私の邸でも使われていない部屋をそなたの為に用意したのだ」

張遼の言葉を受けて、乙女は僅かに倒れる前の記憶を取り戻した。確かに張遼の言う通りだった。自分は彼と共に出撃し、敵の出鼻を挫いた。敵軍自体は味方の援軍が対処してくれたから、自分達は先に本陣へと帰還したのだ。まさか乙女は自身が斬られているなどとは思いもしなかったが、背中の痛みが紛れもない真実だということを嫌でも伝える。張遼に助けられなければ、自分は死んでいたのかもしれない。それは乙女の中で、大きく心を占めた。

「そう、ですか……」

武人にとって、戦場に立つことも鍛錬することも出来ないというのは大きな痛手だ。女性でありながら戦う乙女にとっては、婚姻という逃げ道は存在しない。武人として生きていくことを誇りに思う彼女にとって、この状況はつらいものでしかない。

「落ち込むことはない。私がそばに居る」

張遼は慈しむような表情をした。乙女はそんな張遼に惹かれていくような気がした。

こうして乙女の、張遼に庇護を受ける生活が始まったのだった。
さすがに寝る時などは共に、という訳にはいかなかったが、張遼は暇さえあれば乙女の居る部屋にやってきた。着替えと食事は張遼が運んだが、乙女が着替える時には部屋から出ていたし、入浴の必要があれば鎖を外して湯汲みの為の女中を付けたりもした。傷の癒えぬ乙女が粗相をしても何も言わなかった。

だが平常時に外に出ること、鎖を外すことを、張遼は頑なに拒んだ。理由は乙女に教えられなかったが、自分を救って看護してくれる、張遼の言うことだからと次第にその疑問は無くなっていった。

「この着物も、張遼殿が用意してくれたのですか」

ある日、ふと乙女はそう口にした。毎日乙女が着ているものは、程度は違っても決して安物ではないということは装飾に縁の遠い彼女にも分かる事だった。乙女の出身地ではまず見ないような柄が彩やかに映えている。

「ああ、それも私が用意したのだ。それはな、私の出身地付近は鮮卑や烏丸達も多く居たから、その影響を濃く受けた文様なのだ。この辺りではあまり見かけないようなものだろう? 乙女殿に似合うと思ったのだ」

張遼はどこかはにかんだように笑った。乙女はそんな張遼を見るのを珍しく重い、つられて笑う。

「そんな、私の為にそこまで……ありがとうございます、張遼殿」

単なる同僚、頼れる将としてしか見ていなかった張遼が、乙女の中で特別な位置を占めてきたことに、乙女はこの時初めて自覚した。

「それはよかった。……そなたに喜んでもらえることが、私にとって何よりも嬉しいのだ。その笑顔も、私にだけ、向けていてほしいと思っている」

張遼はそう言って、彼女の腕をとった。そうして着物の裾から除く白い肌へ、傷跡をなぞるように口付けた。鎖が動き、金属音を立てるのが聞こえた。

「張遼殿……」

乙女は自分の顔がかあっと熱くなるのを感じた。武人として育ち戦ってきた彼女にとって、このようなことを言われるのは初めてだったからだ。自分が同じ将としてだけでなく、異性としての好意を張遼から受けているのは明らかだった。

「この際であるから、言っておこう。私はそなたが好きだ。武人としてではない。もちろんその面でも敬愛しているが、私は乙女殿を異性として愛している。戦う姿だけでなく、そなたを構成する全てが美しいと思うのだ」

常に冷静でその無愛想さから恐れられることもある張遼の言葉とは思えなかった。乙女の知る張遼はどこか口下手で不器用な印象だったため、今この紡がれる言葉を聞くのが気恥ずかしいと感じた。自分でも気の利いたことが言えぬ身だと言っていたではないかと過去を思い出した。それでも乙女はそんな張遼に堕ちていくしかなかった。彼に生かされているようなものであるし、これまでの恩に報いるためにも、張遼の思いに応えたいと思ったのだった。

「わたしも……わたし自身にこんなにも尽くしてくれる、あなたが好きです。あなたの抱く感情と同じかは分かりません……けれど、あなたと共に居られることが、嬉しい、」

乙女が話を続けようとすると、その唇は張遼のそれで防がれた。

「……!?」

思わず目を見開くと張遼はいつの間にか乙女の居る寝台に体を預けていた。思わず顔を背けようと身をよじれば口付けはさらに深くなった。

「乙女……好きだ、愛している……それだけの言葉では言い表せない。……私から離れないでくれ」

いつもよりもさらに低い声で、さらに初めて呼び捨てられたことに乙女はぞくりと震える。張遼に口付けられたことに嫌悪はない。こうして背中の傷に触れぬようにして張遼の胸に引き寄せられていることも、不満や怒りは感じない。だが乙女の本能は何か危機を訴えているようで、警鐘を鳴らす。それが今の彼女には理解出来なかったが、張遼の次の発言でそれは明確に現れることとなった。

「やっと私だけのものだ……はは、そなたを殺し損ねて良かったのかもしれぬ。屍ならば、こうして話すことも出来ないから、な。背中から血を流すそなたも美しかったものだが」

張遼はそう言って乙女の首筋に噛みつき、着物の隙間から指先を入れ傷跡に指を沿わせた。
乙女は愕然とする中で、鋭い犬歯が皮膚を貫く痛みに顔を苦痛に歪める。

「それは、どういう」

乙女は声を震わせ張遼に尋ねた。この傷が張遼に付けられたものであり、明確な殺意をもって行われたことに激しい恐怖を感じる。首から流れた血を舌で拭われ、背筋が泡立った。

「そなたは私が好きだと言った。だから真実を言っているのだ。公にはそなたは敵に斬られて死んだことになっている。本当は私が殺すつもりだったのだ。乙女を独占するためにな」

「最も、他人に渡すつもりなど最初からさらさらないが。私は例えそなたが死んで骨だけとなっても愛し続けよう」


それは魅力的な殺し文句のはずなのに、乙女は張遼に畏怖するしかなかった。張遼は狂っている。明らかだった。何せ自分を殺して閉じ込めるつもりだったのだ。死に損ねたから、今度は監禁しようとしている。そして乙女はもう自分の居場所は外にないのだと悟った。

「わたしも、あなたを……愛し続けます」

張遼の目がやけに据わっていて、乙女はもうそう言うしかなかった。

張遼はそれに満足したのか、乙女の血が付いたままの唇で再び口付けを交わした。

手首から伸びる鎖を弄びながら笑うその表情は、鬼のように凄惨な笑みだった。
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