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乙女が武蔵とともに陣地で、南中に帰る準備をしていた頃。
「乙女……良カッタ……」
「魏延! 心配をかけた……本当に。あなたも無事で良かった」
「……ウム」
魏延も無事に帰陣し、乙女の無事を喜んだ。魏延は武蔵が未来から来たということを現時点では知っていない。本来の歴史では乙女はもう死んでいたから、不思議な感覚だと乙女は思う。本来辿るはずだった運命をねじ曲げ自分が助かったせいで魏延の身に危険が及ぶのではないかと思っていたが、そうはならなかったことにほっとした。
魏延もあまり表立って喜びを露にすることもなかったが、戦の後だというのにどこか足取りは軽いように乙女には感じられた。
「乙女! それに魏延! 生きて帰ってくるなんて、本当に誇らしいよ」
「おめぇら、本当に良かった! 家族が生きていること。これより嬉しいことなんざねえ!」
「……うん、そうだね」
「家族」が乙女の凱旋を喜ぶ。祝融と孟獲は乙女と魏延に近寄り、子どもに対して行うかのように頭を撫でくり回した。
心地よい。素直に乙女は思った。母親を思い出す。やっぱり、南中に帰ってきて良かった。生きるとが出来て良かった。そんな気持ちが乙女の脳内を埋めつくした。
「武蔵! 帰ってきたんだね。それに乙女も」
「乙女殿! 皆が貴方の勝利を喜んでいます。貴方たちの絆……何よりも美しい!」
小次郎と張コウも、乙女たちの帰還を喜んだ。
「僕さ、乙女が助かってくれて本当に良かったよ。君は僕が斬ってあげるんだからね」
「それは……辞めてほしいけど」
小次郎は相変わらずだったが、今となっては彼のこのような言動を聞くのも、感動すら覚える乙女だった。
「武蔵殿が助けに行ったのだと聞きました。お二人ともご無事で何よりです」
「本当にな。皆がこれだけ喜んでくれるんだ。やっぱり俺が助けに行って良かったぜ」
南中は、やはり暖かい。気候の問題などではなく、全てが――――
「……あれ?」
乙女がふと目を覚ますと、そこは南中の地ではなく、見知った天幕の中だった。
北の地に、帰ってきたのか。……いつの間に?
乙女は分からなかった。だがその天幕は遊牧の為に建てられたものであるし、南中のような暖かさもなかった。
天幕を出ると、そこは大木が幾つもそびえている森などはなく、ただどこまでも草原が広がっているだけ。
夢だったのだろうか。今までのことは。
……いや、そんなことはないはずだ。乙女の脳裏には鮮明に残っている。祝融に「家族」の一員なのだと歓迎されたことも、孟獲のことを親しみを込め「父さん」と呼んだことも。
その証拠に。乙女が常に離さずに腰に吊ら下げている剣を抜くと、そこにはあの時の戦いで負った刃こぼれが未だに残っていた。
この草原で剣を使ったことなどない。だから、やはり夢ではないのだ。
だが周りの様子は何事もなかったかのように時を進めている。
試しに、この世界と別世界が混じり合い、その上大蛇が出現していたなどという乙女に残る記憶が他の人にもあるのかということを彼女は尋ねた。
ここには乙女と親しい人間は居ない。辛うじて義務としての意識を持ち互いに話すような人間が居るだけだ。
そのような人間に尋ねたが、乙女が持っているような記憶など存在していないのだという。
明らかに経験した事のはずだ。それを、誰もが忘れてしまっているだけなのだ。乙女は自分を納得させた。
そう納得させるには十分な理由が彼女にはある。
大蛇の出現の折、乙女は気づけばあの場所に居た。
では、それまでは一体何をしていたのか? 一度目の遠呂智出没の時は?
そう、祝融たちに尋ねられたことがある。
一度目の遠呂智出没というものを、乙女は知らない。つまり、他の人とあの不思議な世界に来た時期が異なるのである。
だから、元の世界に戻る時期というものが、一人だけ異なっていても不思議ではない。乙女は自分にそう言い聞かせた。記憶の有無であってもそうだ。
とはいえ、あのような経験をしてしまったからには、自分がこの草原で今までのように暮らしていけるとは思えないと乙女は思った。
自由と、本当の愛というものを知ってしまったからだ。
南中で出会った人たちは、乙女のように記憶が残っていないかもしれない。
それでもだ。張コウと約束したように中原に行ってみたくもあるし、魏延が信頼する劉備なる人間にも会ってみたいし、南中で祝融と孟獲に再会したくもある。
海を越えて、武蔵や小次郎が元々居た風景を感じるのも良いかもしれない。
選択肢は一つではないのだ。
自分が愛した地に行きたい。乙女は心の中で、誰に聞かれるでもなく誓った。
馬に乗り、明確な目標を持たないまま、南に向かって馬を走らせる。
きっと父親たちは怒るだろうが、自分を愛さない人間にどう思われようが関係ないのだと乙女は思う。
願わくば、愛する人達の元へ行けますように。
乙女は願った。その日吹いた風は、この寒い北の地にしては暖かいものだった。
まるで、南中の森の中のように。
(20240519)