Queendom
徐庶は、曹操に降った。母親の筆跡を騙った手紙につられ、まんまと罠にはまってしまった。全く持って愚かなことだと徐庶は自嘲する。それを知った母親は自死を選んだ。これ以上の地獄などあるものなのだろうかと徐庶は思う。可能であれば時を遡りたいものだと思う。だがそんな非現実的なことはあり得るはずもなく、徐庶はただ惰性のままに生きていた。

与えられた仕事はある。だがこれが劉備のためでなく曹操のためになると思うとやり切れなかったし、これだけの人材が揃っているここでは栄達など望めない。名誉がほしいということでもないが、それを抜きにしても自分とここは全てが釣り合っていないように思える。そんな毎日だった。

ある日、徐庶のもとに嫁を娶らないかという話が舞い込んだ。徐庶は二つ返事でそれを了承した。彼にしては何の躊躇いもなく決断するなど珍しいことだったが、どうせ考えたところで生きていればいつかはそのような機会に巡り合えるものであるし、全てがどうでもよくなっていたから、今更寝食を共にする人間が一人程度増えたところで、別にいいかと思った。

やがて、徐庶は女を迎え入れた。特別美しいわけでも、ましてや醜女というわけでもなかった。女に失礼であるのではないかとの感情も浮かんだが、こんな自分には釣り合っていると徐庶は感じた。そんな女だった。

女は夢見がちな部分があった。突飛で、現実にはそうそう起こりえないような理想ばかりを口にする。初めは徐庶も笑って聞いていた。彼女の話す言葉は異国の歌のようで、興味深いと思っていた。明らかに彼女がやってきてから家は明るくなったし、人ひとりが増えるだけでこのように変わるものなのかと徐庶は嘆息した。

だが次第に、いつまで経っても綺麗なことしか口に出さない彼女に対して、徐庶は猜疑の目を向けるようになった。

私が大きな国の偉い人で、徐庶が一番偉い軍師で、だとか、徐庶が別の国で今とは全く別の人と仕事をしていたり、だとか、今の徐庶が置かれている状況を暗に揶揄したり、嘲笑っているのではないかと感じるようになったのだ。そんな男のもとに嫁ぐことができたならば、自分はどんなに幸せだったのだろうと、嫌みを言っているように徐庶には聞こえた。一度そう意識してしまうと、そうとしか思うことができなくなった。

彼女には、本当に悪気はないのだろうということは徐庶も分かっている。だからこそ、そのようなことを考えてしまう自分が嫌だった。けれども今の自分の立場や境遇を例に出されるのは、何か不満があるから婉曲して伝えようとしているのだろうとしか思えなかったし、きっとこれは彼女なりの優しさなのだろうとも思う。しかしどんな人にとっても我慢の限界はある。徐庶はもう耐えられないと思った。

「乙女」

女の名前を呼んだ。初めてのその一回だけは律儀に乙女殿と呼んでいたが、彼女のほうから呼び捨てにしてほしいと言われたので、素直に従った。彼女のほうも徐庶のことを呼び捨てたので少しだけ驚いたが、まあそういうものかと感じたものだ。

「どうしたの、元直」

彼女は自分がこれから何を言われるのかを分かっていない。その無知さは流石としか言いようがない。徐庶は自分の意地が悪いことを分かっているから、尚更彼女が何も知らないのだろうということを腹立たしく思う。

「君はよく、架空の話をするけれど。それは今の俺に何か不満があって言っているのかい」

できるだけ、彼女を怯えさせないように。そのくらいの気遣いはしておかなければならない。徐庶は至って平常心を保ったままそう言ったつもりだったが、彼女はどう受け取ったのだろうか。

乙女も徐庶と同じように、常と変わらないように見える。だがいつものようにすらすらと煩わしいほどに言葉を紡ぐ唇は閉ざされている。口角は僅かに上がっているから、本気で傷ついているようではなさそうだが、彼の言動には少しだけ、何か思うことがあるのだろう。そんな表情だった。

「……元直。私ね、何の根拠もなしに空想の話をしているわけじゃないんだよ」

「それは、一体」

彼女の話が架空のものでないというのならば、一体なんだというのか。乙女も徐庶も、ここから今の立場が激変するようには考えられないし、期待しても意味がないのだと思う。徐庶はやはり彼女に対して疑いの目を向けるしかなかったが、乙女は真剣のようだ。

「元直はさ、実際に自分の目で見た方が信じられるよね?」

乙女が何の話を始めようとしているのか。全く分からなかったが、徐庶は彼女の瞳に見つめられると何も言えなくなった。

こんなはずじゃなかったのに。そう心のなかに吐き出しながら、結局徐庶は頷いた。その様子を見届けた乙女が笑ったのと同時に、徐庶の視界は一瞬にして闇の中に閉ざされた。



徐庶が次に目を覚ましたとき、そこは見知らぬ大広間だった。どうやら彼は跪いているようだった。徐庶は自分がなぜそのようなことをしているのか分からず一体ここはどこなんだと思ったが、顔を上げると玉座に座った乙女が徐庶を見下ろしていた。

「ありがとう、元直。もう立ってもいいよ」

玉座に腰掛けたままの乙女は、徐庶に対して礼を言う。

やはりここがどこで自分は一体何をしているのかの答えは見つからない。徐庶は混乱したまま立ち上がり、恭しく供手する。彼女に対してこのように振舞ったことは一度もないが、この動きは体に馴染んでいるかのように違和感というものが全くなかった。昔からこうしているようだった。

「元直がいたからだよ。私がここまで偉くなっちゃったのは」

彼女の口ぶりと玉座、そしてこのだだっ広いだけの空間。乙女が徐庶よりも格上の人間であることは明らかだった。そうして徐庶に向けられる言葉。これらを合わせれば、この世界で乙女は大きな力を持っていて、徐庶は彼女の道を支える、正に必要不可欠な人間であるということはよく分かった。彼女がかつて言っていた理想の世界のうちの一つがここなのだろうか。だがここが夢の中であるようには思えなかった。現実にしか感じることができなかった。このような未来が、可能性が、どこかにあったのだろうか。

「そ、そんなことは……」

徐庶は乙女の言葉に上手く返すことができるという自信はない。上手く話すことができない徐庶のことを、乙女は見つめている。

「……君が自分の望むままにこの世界を歩けるのだということは、喜ばしいよ」

話し続けるつもりはなかったが、乙女が何かを話すようには思えなかったので、徐庶は仕方なくそう言った。彼女は徐庶の言葉を求めているようだった。何が何だかよく分からなかったが、乙女が幸せそうにしているのならば、それはそれで良いと思った。

「……元直は?」

乙女は徐庶の返答に対して何を感じたのか、彼の言葉そのものには喜んだ様子を見せることなく、再び彼の意見を求めた。

「……俺は……」

先程と同じようにして、徐庶は口ごもる。乙女に視線を向けたかと思えばその方向は綺麗に磨かれた床に向けられ、彼はそれを数回繰り返した。煮え切らない徐庶に向かって、乙女は困ったふうにして笑う。

「無理に答えを出さなくてもいいよ。けれど、いつかあなたの考えを聞かせて」

やっぱり俺は駄目だな、と徐庶は自分の意志のなさに落ち込みそうになったとき、乙女がパチリと指を鳴らした。小さな音であるはずなのに、広いここにそれは大きく響く。何なのだろう、これは。徐庶が乙女を見やったのとほぼ同時に、徐庶の視界は再び閉ざされた。



次に徐庶の目が覚めた時、彼は邸宅の前で立っていた。それはいつも彼が過ごしている建物とは違うものだった。だが紛れもなくこれは自分の家で、自分と乙女がいつもと変わらずに夫婦として過ごしているのだろうということは不思議と理解できた。

徐庶は辺りを見渡したがそこに今置かれている状況の答えになるようなものは何もなかったから、目の前に聳えるこの邸宅の中に迷うこともなく入っていった。

「おかえりなさい、元直」

足を踏み入れるとそこには乙女がいた。徐庶が理由もなく感じることができたように、ここはやはり徐庶と乙女の家なのだった。

「ああ、ただいま」

乙女の後ろを、徐庶は黙ってついて行く。必要以上のことは、徐庶も乙女も言わなかった。家の中も初めて見るような装飾だらけで、徐庶はちらちらと周囲を眺めながら歩いている。知らないものばかりだったが、そこに違和感はない。乙女の後ろを歩いてはいるものの、何も分からずに歩いているのではなくて、彼女がどこに向かおうとしているのかは何となくだが分かっていた。日常というものは、こういうものなのだろうと思う。

乙女が部屋に入ると、それに続いて徐庶も同じようにして部屋に入り、そうして椅子に座る。

それは常の二人……徐庶が乙女に抱いていた疑念を打ち明けたその時の光景と変わらないようだった。

「今日はホウ統様、諸葛亮様たちと知見を深めたんだって」

ホウ統と諸葛亮。二人の名前が彼女の口から飛び出たことに信じられず、徐庶はびくりと肩を跳ねさせた。なぜその二人の名前が今挙げられるのだ。徐庶が驚き目を見開いているのを乙女はやはり微笑を浮かべて見つめた。それ以上のことを話す気はなさそうだった。

「……ああ。やっぱり、二人はすごいよ」

二人の姿を最後に見てから何年が経っているというのか。徐庶はもう日々の生活の中で曖昧になってきた知己の姿を懸命に思い描きながらそう言った。なぜ自分がこのようなことを話しているのか、自分でも分からなかった。だがこう話すのが正解なのだという妙な確信だけはあった。そこに自分の意思があるのかないのかさえぼんやりとしていた。

「劉備殿とは何か話さなかったの? 元直は最近、楽しい?」

ホウ統、諸葛亮の名前に続いて、今度は劉備の名前が彼女の口から発される。徐庶はやっと今自分が置かれているこの空間の正体を掴むことができた。

これも、彼女の言っていた理想でしかない、あまりにもおめでたいとしか評することができないような世界だ。

自分があの日曹操に降らなかったのだとしたら、このような未来が待っていたのだろう。徐庶は虚しくなった。

この世界が現実のものなのだとしたら、それは楽しいなどという次元のものではない。もっと素晴らしいものだ。全てが満たされているといっても過言ではない。だがここは彼女のいう架空の、空想の世界であって、どう足掻いたとしてもそれは虚像でしかありえないのだ。そう思うと徐庶は、楽しいとも楽しくないとも、そんな簡単な二択しか言えずにまた視線を乙女から背けるのだった。

「……無理に答えるものじゃないからね」

そう言って乙女は、両の手を叩いて音を出した。大したことのない音であるはずのそれは何かが破裂したかのような大きな響きを持っている。やはり徐庶の視界は真っ暗闇の中に誘われるのだった。



「……元直。どうかした?」

三度目に徐庶が目覚めたとき、彼の顔を不思議そうに覗き込む乙女の顔が真っ先に目に入った。

彼女が持っているのは目玉焼きの乗った食パンだった。徐庶はそんな食べ物なんて知らない、何なのだろうこれはと思ったが、自分の手にも同じものがあることに気づく。そうすればひとたび、これが朝食であるということをすんなり飲み込むことができた。いつも食べているのだ、違和感を感じるほうがどうかしているのだと徐庶は思った。

コップにはコーヒーが注がれていて、彼女と自分の近くにはテレビがある。そこからは今日のニュースを知らせる映像が流れ、ニュースキャスターが何かを読み上げている。外では鳥が鳴いていて、スマートフォンの通知音が向こうの方で聞こえた。

初めて、とはなぜだか思えなかった。自分はずっとこうして過ごしてきたのだと思った。

乙女はご飯を食べて服を着替え、これから仕事に行くのだ。それは自分も同じで、乙女はバイクに乗って職場に向かうが、自分は駐車場がない職場に向かうので毎日電車通勤だ。それはもう何年もそうで、朝餉を二人で食べるのも当たり前のことだ。帰ってくる時間は職場が別であるためにバラバラであるが、どんな時でも夕餉は二人が揃ってから食べている。徐庶は、それが日常だとはっきり知っている。

今までしていたのと、全く同じことだ。なんの変化もない。徐庶はこれが現実なのだと思った。今まで彼女がよく話していた何の根拠もない未来の話でも、過去の話でも、なんでもない。これこそが真実なのだ。

「……乙女」

今までの記憶は一体なんだったのだろう。自分は大昔の中華に生きていた。それは乙女も同じだ。

いや、大昔などではない。ついさっきまで経験していたことだ。鮮明に記憶が残っている。だが今ここで過ごしているのも、紛れもなく自分なのだ。徐庶は分からなくなった。この世界はどうやって成り立っているのだろうか。中華で自分がどんな生き方をしてきたのかも、この現実で自分がどんな生き方をしてきたのかも、どちらもはっきりと思い出すことができる。乙女のこともはっきりと覚えている。

「……元直。いま、あなたは楽しい?」

乙女が尋ねた。似たような問いを、数回されたことがある。その時は答えることができなかった。けれども、今なら簡単に答えることができる。いつも感じていることをそのまま伝えるだけだ。そこになんの躊躇も、迷いもなかった。

「君と出会ってから、ずっと幸せだよ、俺は」

そういうと乙女は、安心したような表情を見せる。彼女は指を鳴らしたが、徐庶の視界は明るいままで、この空間も変化しなかった。

やはりこれこそが紛れもない真実の世界で、あの頃の徐庶が心のどこかで思い描いていた、理想の世界なのだと思う。今までの世界は夢でも幻でもない。けれども本当に存在する世界はきっとここだけなのだろう。そう思えば、今までの世界は小さい頃の思い出みたいなもののように徐庶にとって感じられた。経験したことは確かであるものなのだが、どこか非現実的な出来事のようにふわふわとしているものだ。

「やっと、あなたの本当の意思を聞けた」

俺はいつも、君にだけは正直でいるつもりさ。徐庶はそんなことを言いたくなったが、言いたくなったというだけで、実際に言ってみたいと思ったのは別の言葉だった。

「君と初めて会った日のことを思い出したよ」

食パンを平らげて、既にコーヒーも飲み干してしまった。本来ならばさっさと着替えを済ますべきであるのだが、今日はそういう気分にはなれなかった。だが、少しくらいはこうしていても良いだろうという甘えと余裕がどこかにあった。それはこの世界が呆れるほどに平穏であるからだと徐庶は自分を納得させる。

「それって何年前の話?」

乙女は悪戯っぽく笑う。これは、自分に言わせようとしているな。一種の挑発のようだ。徐庶は彼女が言おうとしていることをすぐに理解することができた。

「何年前どころか、おおよそ……二千年前、というべきかな」

乙女の笑みが深くなった。そうだ、二千年前に、自分たちは初めて出会ったのだ。それはずっと忘れることはない。これまでもそうであるし、これからもだ。

「……初めて出会った君が、頑なに自分の名を呼び捨てるように言ったこと、そして俺の字を躊躇わずに呼び捨てたこと……その理由がやっと分かったよ」

「だって、二千年経っても元直殿、乙女殿なんて呼び合っていたら、皆に笑われちゃうでしょ」

全くだ、と言って徐庶は笑った。二人の一日が、今日もまた始まる。

(20240725)
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