Forgotten Love
王異という女がいる。彼女は一族を皆殺しにされ、それを行った男……馬超を死神であると称し、復讐の炎を滾らせていた。彼女は魏の参謀として曹操に仕えているのだという。そんな風の噂は、乙女の元にも届けられていた。
「次の戦も頑張ろうねー」
馬岱は愛馬の世話をしながら、乙女にそう言った。戦は近い。乙女も適当に返事をしながら、馬岱に倣う。
「乙女さ。最近元気ないけど、どうかしたの?」
馬岱がその手を止めて、ふいに振り返って言った。その顔にはいつもと同じような笑顔と、少しの煩慮を含んだ気持ちが現れていた。
「なんでもありませんよ、ただ」
「ただ?」
「こうして馬岱殿とご一緒することは、嬉しいことだなと」
「なら、そんな暗い顔しないで明るく振る舞えばいいのに。ほら、俺みたいにさ。そうでなきゃ皆誤解しちゃうでしょ」
けらけらと馬岱が笑うのを見て、乙女は少しだけ、吊られたようにして笑った。
馬岱には未だに、気づかれていない。乙女の笑みには、安堵の気持ちも含まれていた。次の戦には王異も出陣するらしい。それが本当ならば、なおさら知られてはいけないことだった。
乙女と言う名前は、彼女の本名ではなかった。本当は、全く別の名前だ。
生まれも育ちも偽って、馬岱に仕えるという所までやってきた。彼女は王異と同じく一族を殺されていて、流れに流れてここまでやってきたのだ。つまり、王異の親戚に当たる人間で、彼女はその事実をひた隠しにしているのだった。
王異は乙女の一族の中では、親しいほうだったと思う。穏やかで思慮深い彼女が好きだった。だが一族は馬超と彼の手による者に殺され尽くして、故郷は死体で埋め尽くされるようだった。
むせ返るようなあの光景を、乙女は忘れたことなど一度たりともない。一人になってしまったのだと気づいた時に、どうしようもないほどの孤独と悲しみに苛まれた。悲しむのが精一杯で、仕返しをしたいとか、そんな気持ちは湧いてくることさえなかった。
王異はどうなってしまったのだろう。悲しみの中において、真っ先に思ったのがそれだった。自分と歳の近い彼女には、生きていてほしいと思った。
数多くの死体の中から彼女ひとりを探すなど困難なことでしかなかったし、まだ生き残りがいると知られたならばせっかく助かったこの命は無駄になる。乙女は、故郷を立ち去ることしかできなかった。行くあてはなかった。
そこで出会ったのが馬岱だった。彼と出会ったのは、偶然に過ぎない。行くあてはないままだったが、少しくらいなら戦うことができるし、知略を尽くすことができるのだといえば、容易く仕えることができた。当面の居場所はできたと思った。馬超ですら乙女の素性に気づくことはなく、彼女を歓迎した。あの場で顔を見られたということもなく、顔を見られていたのならばきっと殺されていただろうから、不思議なことではなかった。
彼らもまた一族を殺され、生き残りは馬超と馬岱の二人しかいないらしい。乙女と同じように故郷を追われ、流れに流れて戦い続けている。
因果は巡るものなのだろうかと思った。その時少しだけだったが、彼らに同情した。
だが同時に、仇が目の前にいるという、自分にとってまたとない、絶好の機会であるとも思った。仇を討っても意味などないのだとばかり思っていた乙女は、運命の巡り合わせというものに驚くばかりだった。
一族を殺された悲しみは癒えることはない。無念のまま散っていった同胞を救うには、彼らを殺すべきであるのだろうか。もしかすると、これは天が自分に与えてくださったものなのかもしれない。ならば使命を果たさなければならない。
だが馬超は武勇に優れている。不意打ちを仕掛けたとして、返り討ちに遭うしかないのだろう。では馬岱はどうか。彼も、あの曹操が馬一族を屠った騒乱から逃げ延びてきたのだから、油断はできない。
刃は磨いておかなければ意味がない。乙女は、今すぐに実行する必要はないと思った。自分の正体が知られるまでの間に、カタを付けることができればそれで良い。単純な話だった。
「乙女は、本当によく尽くしてくれるよねー」
「まあ、馬岱殿はなんていうか……尽くしたくなるんですよね」
「本当に? 俺尽くすのは好きだけどさ、そんなこと初めて言われたよ」
いつも朗らかな男が珍しく、悲し気な笑みを浮かべたような気がした。
単純な話というものは、存外上手くいかないものだ。
憎いはずの仇が目の前にいるというのに。乙女は憎悪を募らせるどころか、馬岱に対しての情を深めていった。
それは、普段明るく振舞っている馬岱の心の奥深くにある、孤独を恐れる気持ちを知ってしまったからかもしれない。
馬岱自らがそのように振舞っていたのではない。そのように彼が振る舞ったことなど、一度もない。だが、分かってしまった。それはきっと、乙女と同じだからだ。復讐に燃えているのではなく、一人で孤独を恐れ、それでも抱え続けている姿が、同じだったからだ。
気づけば馬岱は、かけがえのない人物となっていた。この人のために自分は生きたいのだと思うようになった。
殺された一族の悲しみも、彼と一緒にいると自然と和らいでいくようだった。だが悲しみが癒えるとともに、故人の思いも消えていくようで。それが、怖くも感じた。
仇が目の前にいるというのにそのようなことを思ってしまう自分は薄情であるのだろうか。その疑問に答える人間はいない。
「はあ、はあ……」
陣地に戻った乙女は、彼女にしては珍しく取り乱していた。顔色は悪く、息も荒い。だが、その体には傷一つない。何事かがあって錯乱しているというのは、誰が見ても明らかだった。
王異がこの戦場にいるのだという情報は正しかった。彼女を一目見て、乙女は戦慄が走るのを感じた。
まるで、別人のようだ。大人しくはあるが、穏やかで、頭が良くて笑った顔が好きだった。戦場の彼女は、恐ろしい目つきをしていた。参謀らしく、軍の和を乱し私怨に囚われているようには見えなかったが。もし馬超をその瞳に写したならば、彼女はきっと、死に物狂いで駆けてくるのだろう。
彼女は復讐を遂げなければいけないという、強迫観念に苛まれているのだ。自分とは違う。仇とともに、ぬるま湯に浸かり続けている。王異が欲しくてたまらないものをいつでも手に入れられる場所に、乙女はいる。
それを突き付けられた気がして、動悸が止まらなくなった。一族の想いを土足で踏みにじっている、お前は一族の恥だ。王異に直接言われたわけではないのに、そう言われているような気がした。久方ぶりの再会が明るいものになるとは初めから思っていなかったが、彼女とまともに対する前に引かなければ、心が持たないと乙女は感じた。
しかし、仲の良かった彼女を前にして、そのような感情を抱きながら。それでも昔のように彼女と共にありたいとはどうしても思えなかった。それだけはなぜだか冷静に考えることができていた。彼女のことは、敵にしか思えなかったのだ。その事実もまた乙女を苦しめる。きっと彼女が本当に馬超や馬岱に襲い掛かったのならば、刺し違えてでも止める。いや、止めなければならないのだ。同じ一族の女であったとしても、それは揺らがない。揺らぐことなどなくなってしまった。
「どうしたの、乙女! どこか怪我でもした?」
馬岱が駆け寄る。様子のおかしい彼女を案じている。この優しさに縋るのは、本当に正しいことなのだろうか? だがこうでもしなければ立ってなどいられない。既に絆されているのだ。
「馬岱様、私……」
「無理して喋らなくていいからね、落ち着いて」
崩れ落ちようとする乙女を馬岱は支える。
仮面を被り続けているのは、もう限界であるのかもしれない。王異を見てから、そんな思いが目覚めてしまった。彼女は自分を偽ることなく生きているのだ。それが正しい姿だ。も、潮時だった。
「私……、本当は、乙女なんて名前じゃありません」
乙女が本当の名前を呟くと、馬岱がはっと息を呑んだのが、彼女にもはっきりと分かった。支える手を放さずに。だが乙女に向けている視線はさあっと冷めていく。警戒しているのだということくらい、乙女にも分かった。
「王異と謀って、俺や若を殺すつもりなの」
低い声が脳髄に響く。このような彼の声を聴いたのは初めてだ。乙女は思わず泣きだしそうになった。
立ち止まっている猶予はない。乙女は懸命に言葉を手繰り寄せる。
「違い、ます……むしろ、その反対であるといっても良いのでしょう。私は……あなたと出会ってから、次第に死んだ一族のことを思い出す日が少なくなっていった。それはいけないことだと、本当は王異のようにあなたたちを怨み続けていなければいけないのだと、それを突きつけられたような気がして、」
怖い。
乙女が震える声で絞り出すように言ったのを、馬岱はただ聞いていた。彼が本当のところ、乙女の言葉に対してどう感じたのか。彼女の生き方をどう受け止めたのか。それは分からない。だが。微かにだが馬岱は、彼女を支える力を強めた。この手を放したくないと訴えかけているようだった。
「死んでいった人たちのことを忘れてしまうのは、決して悪いことではないよ」
むしろ俺は、その感情を美しいとさえ思う。
馬岱は、いつまでも失われることのない、例え誰が彼と共にいたとしても決して癒されることのない孤独の中にいる。それはきっと、一族を喪った悲しみが彼を蝕んでいるからだ。
だから、この言葉も本当は彼本来の気持ちとはかけ離れているものなのかもしれない。彼はきっと、死んでいった人のことを忘れることなんてないのだろう。それでもこの言葉が嘘であるのだとは、どうしても乙女は思うことができなかった。
この言葉を、純粋に信じたいと思った。
「俺にはこんなことを言う資格はないかもしれない。俺たちがいなければ君は苦しむことなんてなかったのだろう。けれど、これだけは言える。君が全てを背負う必要なんて、どこにもないんだよ。君には、手元に残った薔薇を枯らす自由がある。そこにも美しさはあって、それは決して罪なんかじゃないんだよ」
それは、馬岱自身の自虐と、彼自身が誰かに言ってほしい言葉というものが混ざり合っているようだった。
「馬岱殿は」
「うん?」
乙女は顔を上げて馬岱を見つめた。彼はいつか見たような寂し気な笑みを浮かべていた。その姿はなんだか、いつもの彼よりも小さく見える。彼の本当の姿というものを初めて見たような気がした。
「枯れるはずの花をいつまでも、例え枯れてぼろぼろになってもそれを慈しんでいるあなたもまた、美しいものなのでしょう。それはやはり罪ではなくて、それもまた人のあるべき姿なのでしょう」
馬岱がそうであるように、乙女にも彼の気持ちを代弁することなどできない。けれども彼が言った美しい言葉を、反芻するようにして彼女は言った。頭で考えるよりも先に。口に出したほうが、綺麗な響きを持っているように思った。
馬岱の瞳が煌めく。
「君を慰めるつもりだったけど、どうやら救われたのは俺のほうだったみたいだ」
(20240717)