Gentle Earthquakes
乙女は蜀の将として戦っている。元々彼女は魏の人間だった。同じようにして魏から蜀に降った人間として姜維という人間がいるということを乙女も知っているが、彼のような優れた力を持っているわけではない。

単純に力が足りなかった。だから降った。もう死んでしまおうかと思った。敵国に降ってのうのうと生きるのは考えられなかったからだ。だが乙女を捕らえた男は彼女を生かした。たったそれだけのことで、それは赤子でも分かる程度に単純なことだった。

「乙女」

関興が彼女の名を呼ぶ。何を考えているのかよく分からない男だと乙女は思う。そもそも、自分を殺さずに配下に加えた男だ。考えが読めないのは当たり前であるのかもしれない。

「はい」

忠実な部下のように、乙女は従う。次の戦に備えた策を、関興は話し出した。適当に相槌を打って、乙女は提示された策の穴や改善策を話す。自分の意見が正しいものであるとも、受け入れられるとも思っていない。だが乙女の言葉に関興は納得したのか、彼女の言葉を組み込んで新たな策を関興は示した。

「あなたの意見を聞くことができてよかった」

そう言ってから、乙女の元を関興は立ち去った。ゆったりとした動きではあるが、隙があるようには見えない。軍神の血を引いているからこそ為せる身の振る舞いだった。自分にはできない。乙女の心に、彼はいつだって暗い影を落とす。

乙女は彼には分からないようにして、顔を歪めた。格下の女の意見を聞いて何になるのだろうと思った。

乙女はホウ徳の娘だった。乙女の父親は樊城で散った。関興の父、関羽がホウ徳を死に至らしめた。だがその関羽もまた死んでしまった。

仇を直接討つことは叶わなかった。乙女は父親を敬愛していたし、できることならば自らの手で関羽を殺してやりたいものだと、何度も何度も思った。乙女よりも彼女の兄の方がその思いは強かった。その兄の思いの強さはよく知っている。よく知っているからこそ、怖くなった。復讐という強い念は人を変えてしまうのだと知った。だから乙女は兄に従うわけではなく、全く別の人間に仕え、そうして関興達との戦いに敗北し今に至る。兄は今魏で何をしているのかすら、今となってはもう知る方法すら何もなかった。

関興は、乙女がホウ徳の娘であるということを知っているのだろうか。乙女は分からなかった。彼女は自分から出自を細かく明らかにしたことはない。だが今まで生きてきた経歴を探られていないとは言えなかった。

ホウ徳の娘をわざわざ近くに置くその意図とは何なのだろうかと乙女は思う。挑発のつもりなのだろうか。関興に適うはずがないということは始めから分かっている。何がどうなったとしても、仇の息子として命を差し出してはやれない。彼が暗にそう仄めかしているような気がする。だから、乙女はもう彼といるのが嫌になった。むしろ、この状況を好ましくなるような人間がいるのだろうかと乙女は思う。

兄ならば、父親の仇が近くにいる絶好の好機だと捉えることができていたのかもしれない。けれども彼女はそんな気にはなれなかった。それが酷く彼女を苛める。やっぱり、生きている意味があるとはあまり思えなかった。それでも戦場に出ればこの蜀の為に乙女は武を奮う。

戦場に出れば、死んでやりたいなどと言う気持ちは毛ほども浮かんでこなかった。

戦場にいるのだという極限状態がそうさせるのかもしれないし、自分の命を自分ではなく他人に委ねるのが気に入らないものであるからなのかもしれない。

戦は嫌いだ。だが、戦に出れば、生きたいと思うことができる。乙女は自身の抱える矛盾に、どうにかなってしまいそうだった。自分は何者なのだろうか。魏の人間なのか、蜀の人間なのか。父親の仇を、討ってやりたいと思うのか、そうでないのか。生きたいと望むのか、父が逝ったであろう天へと旅立ってしまいたいのか。分からなかった。


「宴? このような時に、ですか」

「……そうだ。兵たちの士気を上げるためのものだし……あなたに必ず来い、とは言わない……」

その後、乙女が与えられた仕事を終え書簡を関興の元に渡しにいった時のことである。関興は部屋を出ていこうとする乙女に向かって言った。宴など、馬鹿馬鹿しい。乙女は決して口には出さないがそんなことを思っている。それは口には出していないが顔には出ていたのかもしれない。関興の口ぶりに、乙女は少しだけ自分の子供じみた態度を恥じた。

「……気が向けばですが。行きましょうか」

乙女はそれだけを言って、関興の返答を待たずにすたすたと歩いていく。

関興とはいうものの、去っていく彼女の後ろ姿をじっと見てから、結局何かを言うわけでもなく書簡に視線を落としただけだった。

酒は、飲める。だが好きではない。酒というものは人の本性を顕にするものだ。実際、乙女は関興にとっても縁の深い張飛という男が酒の席で犯した失態についての話を聞いたことがある。

酒を飲めば、その人本来の心の動きが筒抜けになってしまう。それが怖かった。ただでさえ乙女は魏からの降将で、彼女のことをよく思わない人もいる。それに加えてホウ徳の娘であるということを全ての人が知っているということではないのだろうが、そういった要因を加えるのならば、尚更である。

この蜀に来てから、酒を飲んだことはない。誘われるほどの身分でもなかった。関興が何を企んでいるのか乙女はやはりその真意を掴むことはできなかった。だが、ああいった誘いを受けてそれを拒むというのは、それこそ彼の手のひらの上で転がされているようなものだ。不本意ながらも乙女は宴に参加することを決めた。

宴という割には湿っぽく、乙女は自分からは誰と話すこともせず一人でただ酒を飲んでいた。

士気を上げる為だとは言っても、魏のそれとは全く違うと乙女は思う。国力には差がありすぎるのだ。たったこの光景からでもそれを理解することができる。そんな宴だった。

酒そのものは、悪くはない。乙女は勧められるがままにして飲み続けた。少しだけ過ごしてから適当な理由を付けて帰ろうとでも思っていたのだが、思った以上に飲んでしまったのか立ち上がろうとした体は重く、足元も覚束無いような気がする。

このまま倒れてしまって、そこから二度と起き上がることができないのならば。不名誉ではあるが、それも良いかもしれないと思ってしまうほどに、乙女は酔っていた。久々に飲む酒は思いのほか心地よかった。けれども同時に、希死念慮が押し寄せてくる。やはり、死んでしまいたい。自分の本性はこれか。乙女は自分自身に呆れた。

「乙女」

ふらふらとして歩き出そうとする乙女に近づいた男がいた。案の定と言うべきなのだろうか、それは関興だった。今にも倒れ込みそうな乙女を案じているのか、彼女の肩を支える。乙女は振り払おうとしたが力が入らずにそれは空回りした。

「離して……ください」

「いや……離さない。あなたはどこかで休んだほうがいい。……私が無理に誘ったのだから、謝りたいのだ、ということもあるのだけれど」

酒は人本来の心を暴く。抑えられないと乙女は思った。関興に半ば連れ去られる形で部屋から押し出されて、やっぱり酒なんて呑まなければ良かったと思った。

「関興殿」

使われていない倉庫のような部屋で、乙女は関興の腕を振り払って床に座り込んだ。顔は赤くなっていて、息が荒い。関興の名を呼ぶ彼女に引き寄せられるようにして、彼は目線を合わせるためにしゃがみ込んだ。

「関興殿……私を、ころしてください」

はあ、はあ、と息を吐きながら乙女は、熱い手のひらで自らを案じる関興を思い切り力を込めて押し倒す。足を動かして、馬乗りの姿勢を取った。まさかそうされるとは思っていなかったのか、関興は抵抗する間もなく組み敷かれる。彼の肩から離れた乙女の手。その炎のように熱い手のひらは、関興の首に添えられていた。

どこまでも矛盾している。乙女ははっきりと働かない頭の中でぼんやりと感じた。関興は暴れることも抵抗もせずに、彼女のこの行為を黙って受け入れている。その余裕はどこから生まれるのだろうか。乙女は首元に添えた手に力を入れる。首を絞めているのだ。関興は少しだけだったが、苦痛に顔を顰めた。

「ねえ……私のこと、あなたは分かっているでしょう。私がどんなに哀れな人間なのか、知っているでしょう。私を、今すぐにころして、ねえ」

うわ言のように乙女は紡ぐ。体全体が燃えるように熱い。酒のせいだけではないような気がした。このまま消えてしまいたい。私をころしてと乙女は呟き、だがそれでいて関興を手にかけようとしている。乙女は行動も言動も支離滅裂だった。今まで抱えていたものが爆発していたのかもしれない。

「わたし、死んでしまいたいの……」

ふいに乙女は、関興の首から手を離す。彼がこんな中でも乙女の手首を掴んだことに、驚いたからなのかもしれない。

「……あなたの」

げほ、と咳込み息を整えた関興が乙女を見上げた。

「あなたの本音を聞けて、良かった……あなたが抱えているものを……私は知っているつもりだ。私もそうだった。だがその呪いに……あなたは打ち勝たなくてはいけない」

「だったら……! 私を楽にして。私、もう耐えられない。私は父上のために、あなたを殺さなくてはいけないの、兄上の願いでもあるのだから。けれども私は弱い、そんなことはできない……! だからもういいの、何もかも……早く私は楽になりたい、苦しむのは、嫌だ……」

立ち上がった乙女は、未だに抜けない酒のせいかふらつき壁に手を着いた。目の前がちかちかしているし、地面が揺れているように彼女には感じられた。

「……あなたが戦いの中でしか意味を見いだせないのだということを、私は知っている。そして……復讐は何も生まないのだということを、私は知っている。私があなたを生かしたのは、あなたを救いたかったから……というのはおこがましいかもしれないけれど……」

関興の言葉を簡単に信じるほど、乙女はお人好しにはなれなかった。

だが、伸ばされた関興の手が背中から回され、抱きつかれるような形をとられてもなお、乙女は先程までとは違い振りほどいてやろうもいう気持ちにはなれなかった。

それは、父親の温もりを思い出したからなのかもしれなかった。それはほんの僅かだったが、渇いていた心が満たされていった。


その日の夜は雲ひとつない、星のよく見える夜だった。二人はついに見ることはなかったが、流れ星がしきりに夜の空に線を描いていたのだという。死んだ人間たちが、二人のことを見守っていたのかもしれない。

(20240728)
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