All Is Soft Inside
どれだけ報復したとしても、気に食わない。法正は包帯の巻かれた自分の左腕と、目の前で喚く男を交互に見やってから舌打ちをした。当初よりは癒えてきたとはいえ、この傷はまだ万全な状態であるとはいえない。だがそれでも、今こうしてやらないと気が済まないのだ。
「他に仲間は」
地を這うような低い声で法正は尋ねる。両腕を縛られ牢の中に閉じ込められている男は、口を一文字に結んだままだ。法正は男に喋る意志がないことを確認すると、右足で腹に思い切り力を込めて蹴りを入れた。男が呻く。苦しそうに咳き込んでいる姿を見届ける前に、今度は頬に向かって平手で打った。これをするのももう数回目だ。男がだらしなく口を開けて必死に息をぜえぜえと整えているその合間に、口からぼたぼたと血が溢れた。法正が何回も殴っているから口の中も相当酷いことになっているのだろう。現に男の周りには血がぽつぽつと落ちているし、法正の手袋もべったりと血で濡れている。
「俺が執念深いことくらい、知っているでしょうに。なぜ俺を裏切った」
男は法正を裏切り、陥れようとした。裏切り者には報復をしなければならない。法正は自身もぼろぼろであったのにも関わらず必死の思いで裏切った男を捕縛し、こうして男を痛みつけている。そうでもしないと怒りは収まらないのだ。
後ろ手に縛られ冷たい床につけられた男の手を、法正は全身の力を込めて踏みつける。男は悲鳴を上げた。
「そうやって叫んでいるだけじゃ、何にも分かりませんよ」
くすくすと法正は笑う。男の髪を引っ張ればぶちぶちと髪の毛が何本も抜けた。その酷薄な笑みはまるで悪魔のようだ。殴られ蹴られあちこちに傷を負ったはずの男はそれでも何も言うことはなかった。ここまで頑なに喋らないというものは、全くもって面白みがない。法正はあくまでも自分の鬱憤を晴らすために拷問という行為を行っている。裏切り者から情報を吐かせるという一面もあるにはあるが、法正のそれは私刑に限りなく近い。男の口からその他の内通者を聞き出した後に彼を殺そうと法正は思ったが、ここまでしても意味がないのだからもう殺してしまおうという気持ちになった。
「まあ、いいんです。あなたが誰と通じているのか程度、俺はもう知っていますから。少しは溜まっていた鬱憤を晴らすことができましたし……」
法正が磨かれた短剣を取り出すと、男は初めて狼狽え始めた。生気のない瞳には僅かな炎が浮かぶ。そんなに死ぬ事が嫌であるのか、そんな半端な覚悟で俺を裏切ったのかと法正は苛立ちを隠しきれないようにわざとらしく溜息を吐く。だが男が言ったのは命乞いの言葉ではなかった。
「俺を殺すなら、妻と一緒に、逝かせてくれ、あの娘は、俺がいないと何にもできやしない、だから、」
「ならば俺が寝取ってやろうか」
首筋に短剣を当てれば、男はぴたりと話すのを止めた。薄い表皮に刃をなぞらせれば、赤い線が軌跡を描く。
男が裏切り者である以上、確認できるだけの親族も殺してやろうと法正は思っていたが、それはこの男に救いを与えるのではないか。法正はそれは許し難いことのように思った。
だが、法正には一つ不思議だと感じることがあった。この男に妻がいたなど初耳だ。遠縁の親戚を引き取ったという話は聞いた事があるのだが。その親戚が妻ということか? 法正は興味を持った。興味を持つこと以上の感情は生まれないものだったが、何となくこの男の「妻」を殺すのは惜しいと思った。何しろ妻を共に殺せと自分から乞うのも不自然だろう。救ってくれというのならばまだ話は分かる。
先は脅しのつもりで言ったことだったが、本当に寝取ってやるべきかもしれなかった。
「あなたの妻は、俺が誠心誠意をもって生かしてさしあげますよ」
男の瞳から光が消えた。法正はもう一度首をゆっくり斬った後、刃を思い切り突き立てた。男は力も残っていないのか何の抵抗もしなかった。鮮血が法正の手を更に黒く染めていく。男は既に絶命していたが、法正は満足しきれないのか胸元にも同じようにしてその切っ先を貫くようにして力を込めた。同じようにして血が吹き出す。法正はもはや何の感慨もなかった。ただ人が人形のように動かなくなる様を黙って見ていた。怨みはいつの間にか消えていた。
死体を蹴り飛ばす。血だまりが広がって床を汚した。法正はこの哀れな男には目もくれず、返り血をわざわざ拭うこともしないまま牢を出ていった。男の「妻」に会いに行こうと思った。
「名前は」
「……」
男の邸宅に、その女はいた。女以外の人間は逃げてしまったのか誰も居なかった。男の親族たちは法正がしかるべき処置をしたのだが、この女だけには何もしなかった。代わりに法正は自らの邸に女を連れた。本当に妻にする気はないが、どんな噂が立つとしてもどうでもよいと法正は思った。
我が物顔で男の邸宅に入り込んできた法正を一目見ても、女は何も言わなかった。表情を変えることもなかった。椅子から立ち上がることもなかった。目は虚ろとしていて、何も映していないように見えた。「あなたの夫は俺が殺しました」と、法正は彼女を挑発するように言った。だがそれでもこの女は何の反応も示さなかった。法正が女の目を逸らさずに見つめれば同じようにして暗い瞳を向け続けたし、法正が女から離れれば同じようにして目を逸らした。
夫がいなくなったこと、主家を裏切ったことに衝撃を受けたのかもしれない。法正から手酷い拷問を受けたと聞き、心が壊れてしまったのかもしれない。実際に、妻を殺されたことが原因で気が狂った男の話を法正は聞いたことはある。考えられることはいくつも思い浮かぶが、どれもしっくりこないような気がした。
本当にこの女は男と共に死ぬことを望んでいるのだろうか。その意思すら感じられないのだ。あの男は確かに言った。自分がいないと何もできないのだと。それは本当なのだろうか。この女を最終的にどう扱うべきか。法正は彼自身正確な答えを持ってはいなかったが、その真意を知るまでは生かしておこうと思った。
「あの男に妻が……お前のような人間がいるなど、俺は知らなかった」
法正は一人で虚空に向かって喋っているような気分になった。
この女は一体何なのだろう。邸から人は消えていたし、書簡を漁っても彼女に関する情報を得ることはできなかった。法正は、自分の手で葬ったあの男に今でも翻弄されているような気がして、無性に腹が立った。左腕の包帯すら、余計に忌々しく感じてくる。
女はじっとして椅子に座っている。歩けと言えば歩く。だからこそ法正の邸に連れて帰ることができたのだが。背筋を伸ばして、石のように固まっている姿は不気味としか言いようがない。人間としての最低限の営みができているのかすら定かではなかった。
時間というものは何もせずとも過ぎていくものである。生きているのだから腹も減る。人間どころか動物なら全てがそうだ。
この生きているのか死んでいるのかすら分からない女もそうであるのだろうか。いや、そうでないとおかしいはずだ。法正は使用人に作らせた料理を女に持っていく。法正は自分が食べるのも忘れたようにして女を眺める。
「食べないのか」
毒が混ぜられている可能性がないこともない。法正はそんなことをするつもりは毛頭ないが、女はそれを恐れているのかもしれない。法正は女の皿に盛られたものを奪い自らの口に運んだ。
「毒は入っていない。食べてみろ」
それでも女は手をつけようとしなかったが、法正が気にせずに食べているのを見ていたからなのか、恐る恐る料理を口に運んだ。
命令しなければ自分からは動かないのか、この女は。法正は奇妙に思った。はっきりとした確証はないが、この女は夫が健在だった頃からこうであったのではないかと感じた。「自分がいないと何もできない」と男がこの女を評したのは、このことであるのではないのかと。大体、遠縁の親戚だと知らされていた人間は本当は妻であったなどという時点で何かがあるに決まっている。法正はこの不気味な女に対して、不本意ながらも目を奪われずにはいられなかった。
どうやら、食事は残さずに食べたようだ。法正はやはりこの女は生きている人間であり、自分と同じように人として過ごしているのだと思った。あまりにも生きているのだという空気は彼女からは感じられない。だがそれでも人間で、きっと彼女を人としての理から引き剥がそうとした何らかの原因が存在するのだろう。
夜になって、法正は女を手招きした。法正の部屋は質素だ。邸もそれほど大きなものではない。女を寝かせる場所を確保して、自身は寝台に座った。女も同じようにして法正の近くに座る。
宣言通りに、この女を抱いてしまおうか。この女も、事を成し遂げたならば人間らしくなるのだろうか。その体を押し倒して、強引に唇を奪って。そうすれば人間らしくない彼女も、どこにでもいる女のように甘い声を出して本能のままに喘ぐのだろうか。
だが、それはあまりにも自分らしくない考えだ、と法正は思って眠りに就こうとする。女であれば見境なしに襲い掛かるほど法正は飢えてはいない。世の中にはそういう人間もいるようであるが、彼はそこまで獣ではなかった。一度でもそう思った自分に、終わりのないような嫌悪感さえ覚えた。
法正が適当な言葉を女に掛ける。そうすれば女も同じようにして寝台に横たわった。相変わらず女は何も喋ることはない。
静かな夜だった。人が一人増えたとは思えないものだった。
だが法正は、そんな状況が嫌いではなかった。目を閉じれば、全ては闇の中となる。女は目を閉じなくても、底の知れない闇の中に包まれているのだろうかと思った。
初めて女と出会った日から、ひと月が過ぎた。相変わらず二人を取り巻くものは何にも変わりはしていない。
まるで動物の世話をしているかのようだった。法正は動物のことは基本的に好きではない。人ならともかく、動物に恩を売ったとて、それが何になるというのだ。そういう考えを持っているのだ。だから女と共にいる意味はないのかもしれない。だがそれほど手放すのは惜しい気がする。
そんなある日のことである。法正が珍しく、自室の中で作業をしていた時のことである。彼はあまり仕事を持ち帰ることはない。仕事部屋で全てを済ましてから帰ってくることが多かったのだが、その日は違った。
そうして、筆と何も書かれていない書簡が自室に残されたまま、法正は所用だと言って部屋を出ていった。
法正の部屋には、女もいた。
監視しやすいから、というものが主な理由であるが、彼女は法正の部屋にいることが多かった。法正がいるときも、いないときも何もせずただじっとしていることがほとんどだった。
だから法正も、ろくに机の上を片付けずに部屋を出ていったのだが、帰宅するなり彼は驚いた。
女が、書簡に何か文字を書いていたのだ。
「何をしている……?」
法正は女から書簡をひったくった。その拍子に女は筆を落とす。衣服が墨で汚れたが、彼女は動じることなくぴたりと動くのを止めた。
女から奪った書簡。そこには人の名前らしきものが書かれている。そして、木を繋がれて作られた木簡であるから不格好なものではあったが……絵のようなものも書かれていた。絵そのものは、上手い。まだ完成には程遠いが、女の絵がそこにはあった。この女は彼女本人であるのだろうか。それとも全く別の人間であるのだろうか。
「乙女……これがお前の名か?」
乙女は、そこで始めて、法正の言葉に対して頷いた。肯定を示した。
法正は落ちてしまった筆を拾い初めに置いてあった場所に戻す。相変わらず乙女は自分から動くことはない。本当にこの文字と絵は彼女が書き、描いたものなのだろうか。だがここにいるのは、この筆を持っていたのは間違いなく乙女であるのだ。
法正は自分でも知らぬ間に、笑みを漏らしていた。それは、彼女の瞳に自身の姿が初めて映し出されていたからなのかもしれない。
「そうか……乙女か……ふっ」
何の意味もないのだろうとは思いながらも、法正は彼女の名前を呼んだ。そうして書簡を乙女の元に返す。乙女は少しだけ迷うようや素振り――それすらも物珍しいもので、法正は釘付けになってしまったのだが、彼女は筆を持ち直して書簡の空いている場所に何かを書いた。
筆を下ろして乙女は再び、いつものようにして動かなくなった。法正がもう一度書簡を覗く。そこには流麗な文字で「ありがとう」とだけ書かれていた。
礼を言われるようなことをした覚えはない。むしろ、彼女には酷いことをしたつもりだ。だがこの言葉が嘘のようには思えなくて、法正はむず痒いような気持ちになった。
それから、乙女は少しづつ、本当に少しづつだが、次第に変化を見せていた。
相変わらず、自分から何か大きな行動をとることはない。法正から「食べてもいい」と言われるまでは食事を取ろうとしないし、「寝てもいいい」と言われなければずっと椅子に座り続けている。
だが筆を持っている時だけは、自分の意志の赴くままに行動することができているようだった。
だから、以前よりは人間らしいやりとりができているようだと法正は思った。
彼女の言葉はたとえ文字であっても簡潔なもので、詳しい出自を彼女のほうから明らかにすることはなかった。
しかし、もはやそんなことは気にするまでもないと法正は考えるようになった。
乙女が少しでも人間らしく生きられるのならば、それでいいのだ。今までの彼女は抑圧されすぎていたのだ。それはきっと、あの男のせいだ。彼女はずっと前からこうだったのだ。法正が男を殺さずとも、それは変わらなかったのだ。
彼女がとある日に書簡に書いた、「久方ぶりに優しさを知った」という言葉を知ってから、さらにそう感じるようになった。
「……お前は」
いや、何でもない。法正は紙に向かって熱心に絵を描く乙女を見下ろしながら呟いた。
製紙法が次第に確立してきたとはいえ、未だに紙は貴重品だ。執務は専ら木簡や竹簡を利用している。だが、それらに対して絵を描き続ける乙女を見て、法正はいたたまれなくなった。
紙のほうが描きやすいに決まっているのだ。乙女を不憫に感じだ法正は、彼女の為だけに紙を用意した。何に使っても構わないとして、彼女に託した。乙女はやはり声に出すことはなかったが、いつものようにして余った書簡に感謝の言葉を述べた。
それから、以前にも増して乙女は絵を描き続けている。法正は絵などに対する造詣は決して深いほうではなかったから、本当にこの紙でいいのか、また画材は何が相応しいのかも分からない。乙女は文句のひとつも言わずに、法正が使っていた筆を使っている。
乙女の描く絵は、絵のことなど何も分からない法正にとっても目を惹かれるものだった。
その絵には大きな特徴がある。構図は様々だったが、どの絵にも女性が二人、描かれている。その表情はどれも穏やかに微笑んでいるもので、仲のよい二人なのだろうということを読み取ることができる。
その片方は、恐らく乙女自身なのだろうということを法正は感じていた。だが絵の中の彼女は、現実のそれと打って変わって笑顔を見せている。そしてもう片方の女性は、これまた美しい容貌をしていた。きっと乙女にとってかけがえのない人だったのだろう。
その女性は、一体誰であるのだろうか。法正は一度尋ねようとして、辞めた。その程度の勇気すらでないのは、法正にとっては珍しいことだった。自分でもらしくないと思った。
だがそれからさらに月日が経って、再び乙女に変化が訪れようとしていた。
その頃の乙女は、書簡を使って法正とはっきりとした意思疎通を図るようになっていた。彼女が声を出すことはない。だが声を出さないというだけで、明らかに彼女は「会話」をしていた。
法正がわざわざ指示をしなくとも、彼女は自分のしたいように行動することができていた。
笑うこともない。かといって怒ることも、泣くこともしない。だが彼女が書簡に「嬉しい」と書き記すことはあった。法正が仕事の愚痴を述べれば、彼女なりに慰めの言葉を書き述べたこともある。
乙女は法正に対して、完全に心を開いたのだろうか。その日、書簡に「知ってほしいことがある」とだけ書かれたまま、乙女は法正のことを見つめていた。
「……お前の心の赴くままに、書けばいい」
法正はそう言って、それから乙女が休む暇もなくひたすら文字を書いているのを、何も言わずにただただ待ち続けていた。
ついに、その日が来たのかもしれない。法正がずっと知ろうとしてきて、それでも踏み込むことができなかった彼女の出自が明かされるのだと。そんな予感がした。
乙女が時間をかけてゆっくりと書き終えた書簡を法正に差し出す。そこには法正が微かな予感を感じていたように、彼女自身のことが書かれていた。
「……お前は、ずっと苦しみ続けてきたんだな」
書簡を読み終えて、法正はそう洩らした。乙女はいつものように何の感情も浮かべることはなかったが瞳には僅かな悲しみ、そして安堵の感情が映し出されているように法正には思えた。それは気のせいではない、はずだ。
それまで法正が予想していたように。乙女が心を失くしたきっかけは、法正自身の手で死に陥ったあの男と乙女が出会ったことだった。
まず、乙女と絵の中に描かれていた女性は、同性同士ではあったが懇意だった。明言はされていないが、もしかすると恋仲であったのかもしれない。乙女は彼女に対する愛を、とめどなく書いているのだ。
二人で平和に暮らしているようだった。絵の描き方は、その女性に全て教わったのだという。裕福ではなかったが、慎ましく、幸せに暮らしていたのだと綴られている。
だがその幸せというものは壊されてしまった。この乱世では、いつどこが戦場になったとしてもおかしくはない。乙女の住む地も、そうであった。戦に巻き込まれ、そうして乙女と共に住んでいた女性は、女として弄ばれた挙句に殺されたのだという。それを間近で見てしまった乙女は、その瞬間に世界から色が消えてしまったかのような衝撃を受けたらしい。それを認識したその時から、乙女は声を出すことも、感情を顕にすることもできなくなったのだという。その女性は命を奪われたが、乙女は拉致されとある男の妻となった。それが、法正が殺したあの男だということらしい。
合点がいった。乙女が男にとって妻ではなく、遠縁の親戚として周囲に言いふらされていたのは、それに対する後ろめたさがあったのだろう。乙女に対して何もできない娘だと言っていたのは、元を正せば男が仕組んだことだ。
法正は、あの男を簡単に殺した自分を悔やんだ。もっと痛みつけるべきだった。あんなものは生ぬるい。腕を切り落とす程度のことはしてやるべきだった。乙女は、そして乙女と同じ時を過ごした女性は、それ以上に耐え難い苦痛を背負っていたのだ。
男が死んだと聞いたとき、乙女は自分が解放されたのだと感じたらしい。だが失ったものは返ってはこない。生きる意味もないと思っていたが、法正がいたから、再び生きる決心を固めることができたのだと。彼はあの男のような非道は行ってはいない。優しさというものを知ることができたのは、あの娘と過ごした日々が最後だと思っていた。だがそうではなかったのだ。そういった感謝の気持ちでこの長い、長い言葉は締めくくられていた。
「けれどね……俺は……優しくなど、ありませんよ」
法正は自嘲気味に呟いた。彼が敬意を表したような話し方を乙女の前でするのは初めてだった。
実行に移さなかっただけであるというだけで、一度は乙女を抱こうとした。それに、数え切れないほどの人を殺し、その手を真っ黒に汚してきた。紛れもない悪党なのだ。彼女のような清い人間が、優しいなどと評するものではない。法正は己と彼女のことをそう認識していた。
乙女は、首を振った。法正は目を見開く。彼女が書簡を通さずに感情を率直に表現するのは初めてだった。
初めて表す感情が、それであるというのか。法正は頭を抱えそうになった。それは呆れでも怒りでもなんでもない。嬉しさと、少しの照れと……乙女を愛おしく思う気持ちだった。
法正がえも言われぬ感情に浸っていると、乙女が書簡の空いている場所に何かをさらさらと書いた。
法正は再び書簡を見る。
そこには、「あなたの絵も描きたい。あの娘と同じくらい、大切な人だから」 と書かれてあった。
法正は涙ぐみながら、「お願いしますよ」 とだけ言った。普段なら澱みなく浮かんでくるはずの言葉は、それ以上何も発されることはなかった。どこまでも自分らしくないものだと法正は思って、いっそのこと笑い飛ばしてやろうかとも考えた。けれども涙が零れるせいなのか、とうとう上手く笑うことができなかった。
(20240727)