It Happened Quiet
その日も、雨が降っていた。乙女は窓の外を熱心に眺めている。雨は止む様子もなく、花壇に植えられた花を濡らし続けていた。植えられた花は、均等に整えられてはおらず、あまり熱心な手入れはされていないように見える。
まだ昼間であるというのに、雲に覆われた空は夕方のように暗い。木々は風に揺れ、落ち葉が舞っている。乙女は、雨になると決まって同じ方角を見る癖があった。そうしないと一日が始まった気がしなかったし、同じ行為を一日に何回も行っているときもある。
雨が止めばそれはぱたりと止まる。すすれば乙女は何事もなかったかのように窓には目もくれないで、別の「癖」が始まる。それは彼女を苦しめているものだ。
彼女の妙な癖が始まったにはきっかけがある。だがそれを知るものは、実のところ少数の人間しかいない。
「関平様。今日は一日雨のようですね。私、雨はあまり好きになれません。だって、どこにも行けないし、こうして部屋にいるのは退屈で仕方ありませんから」
やっと窓の近くから離れた乙女は、椅子に腰かける。彼女がこの台詞を呟くのは、もう何度目だろうか。雨が降る度、彼女は窓を眺める行為と同じようにして同じ言葉を言い放つ。それすらも癖になっているようだった。
「でも、こうして乙女殿と二人きりで過ごすのも、拙者は……好きだ」
「……私もですよ、関平様。雨は好きじゃないけど、二人きりでいられるのはこんな日くらいしかありませんからね。ほら、関平様は忙しいから。私みたいにただ家にいればいいってものじゃないものね」
普段、休む間もなく忙しく動いているという関平の話を聞いたことのある乙女は、彼が立派に勤めを果たしていて尊敬する反面、僅かにやきもちを焼いてしまうこともある。武人であるから体を鍛えなければいけないし、軍議にも出る必要があるということを乙女は良く知っている。それでも、もっと同じ時を、共に過ごしたいと思ってしまう。
だから文句を言うことはできない。それでも彼女は、せっかく同じ家に住んでいるのに、どうしてこんなに寂しくなってしまうのだろうと思ってしまうのだ。彼が家にいなくても大丈夫だと思ってもらえるようにと、乙女は一通りの家事や雑務は自分一人でやってしまう。年頃の娘としてはこれ以上ない働きを見せる彼女は夜になると疲れなのかすぐに寝てしまう。そんな生活だから、乙女は余計に彼と過ごす時間が余計に少ないものなのだと感じている。
だから、雨の日は憂鬱であると同時に、喜びをもたらすものなのだ、と乙女は思う。それでも退屈であるには変わりないし、どうせ関平と二人きりになれるのならば家に居るだけではなくて、もっと色々なところに出かけたいと思ってしまうものなのだが。
「関平様。お茶、冷めてしまいますよ」
乙女の前には、茶器が二つ。そのうち一つは注がれていたであろう茶は殆ど残っていない。対して、もう一つのものはなみなみと注がれた茶がそのまま鎮座している。全く手を付けられていないそれを見た乙女は声をかけた。
「……ああ。すまない。もう少ししたら飲むから置いていてくれないか」
「分かりました。……関平様、最近ぼーっとしていることが多いような気がします。夜、きちんと眠れていますか? 私、心配です」
「大丈夫だ、拙者は良く眠れている。それよりも……乙女殿が毎夜眠れているのか。それのほうが心配だ」
「私ですか? 私、毎日眠っていますよ。関平様が帰ってくるのを待たずに寝台に潜ってしまいますし……もしかして私……うなされていたり、しますか……?」
その瞬間、大きな雷がなった。乙女は反射的に目を閉じる。小さな悲鳴を上げた彼女が再び目を開くと、彼女自身が驚いた拍子に机を揺らしてしまったのか、茶器から茶が溢れた。
「ああ、ごめんなさい。私、何か拭くものを持ってこなくちゃ……」
乙女は椅子から立ち上がって、部屋から出ていった。その立ち上がった勢いで机が揺れ茶はさらに溢れてしまったのだが、彼女は気づいていないようだった。
茶を拭くための布を取りに行こうとする矢先、玄関で何やら物音がしているのを乙女は聞いた。
こんな天気なのに、来客がいるのだろうか。急ぎの用事でないのならば、日を改めればいいのに。そう思いながらも乙女は玄関のほうに向かう。玄関を隔てていても雨の音は良く聞こえた。
「乙女殿」
玄関と雨の音に紛れて、乙女の名前を呼ぶ声がする。それは彼女にとって、聞き馴染みのある声だった。
「関索殿。それに鮑三娘殿も。ああ、こんなにずぶ濡れになって……」
玄関を開き、乙女は来客を見る。そこにいたのは関索と鮑三娘だった。雨に濡れ、二人とも服はびしょびしょになっている。それでも二人は毅然として立っていた。
「乙女殿。こんな時に、申し訳ございません。これ、飾っていてくれませんか」
「そうそう。これ、あたし達が選んだんだ」
関索が差し出したのは色とりどりの花束だった。雨に濡れている花弁は、瑞々しさを醸し出していて、眺めているだけで心が晴れるようだ。
乙女は受け取り、大事そうに抱える。
「ありがとうございます。お二人とも……少し、休んでいかれませんか。関平様もお喜びになると思いますから」
「本当はそうするべきかもしれません。けれど、私達はまだやるべき事があるので……」
「そうそう。ごめんね。また今度、ゆっくりしにくるからさ」
ああ、そうなのですか。乙女は寂しそうにしたが、引き止める理由を持っているわけではない。簡単に礼を言ったがそれきりで、関索と鮑三娘は雨の中帰って行った。
確かに、この雨はいつ止むか予想がつくものでもない。引き止めるということは、かえって野暮なことかもしれない。乙女は、ばたばたと花束を抱えて部屋に戻ろうと歩き始めた。
本当はもっと二人と話をしたいが、こればかりは仕方がない。貰った花をどこに飾ろうかと、乙女は思考を切り替えた。関平の喜ぶ顔が、目に浮かぶようだった。
「……関索」
鮑三娘はずぶ濡れになりながらも歩いていた。本当ならば化粧が落ちるとか、髪が乱れるとか、この雨に対して文句を言いたいところであったが、そんな気にもなれない。それだけの理由があった。
彼女にしては珍しく言葉を言い淀んでいる。関索もまた全身を雨に濡らし水滴を滴らせながら歩いている。何かを言いたそうにしている鮑三娘の姿をちらりと見て、言った。
「君が何を言いたいのか、私には分かる。乙女殿に本当のことを伝えるべきだと言いたいのだろう」
「うん……そう。関索はやっぱり凄いね」
鮑三娘の声が心做しか小さいのは、雨の音が遮っているからだということではないはずだ。
「乙女殿には……雨が降る日だけでも……夢を見せてやるのが、正しいことなのだと思う。そうでないと……あまりにも彼女が、不憫すぎる」
「……あの人が解放される日は、来るのかな」
「……分からない。雨が降る日に彼女が兄上のことを認識できなくなったその時が、解放と呼べるものなのだろう。けれども……彼女から兄上の存在が消えた時。彼女は彼女であり続ける事ができるのか……私には、分からない」
「そう、だよね……」
「彼女が幻想の中で生きることができるのは、雨の日だけだ。私たちがそれを壊すわけにはいかない。だからせめて雨の日だけは、現実から目を背けなければいけない。彼女の心を守るためにも」
鮑三娘は黙って、関索に寄り添った。雨はいつ止むのだろうか。止むのも振るのも、同じくらい嫌な事だと彼女は思った。
乙女は、樊城で散った恋人、関平のことを今でも想い続けている。
戦いから関平が帰れば、婚礼の儀を行うはずだった。だが彼は帰ってこなかった。それは彼女の心の奥底に、消えない傷を残したのだった。
晴れの日は、関平がこの世にいないことを受け入れ、それでいてもなお収まらない悲しみと怒りのために苛まれているのだという。乙女は声にならない叫び声を上げて、家の中を荒らしてしまうのだと関索は小耳に挟んだことがある。実際、関索が彼女の様子を見に行った時には、割れた皿が厨房に転がっていたり、花壇が荒らされていて、涙を流しながら喚く乙女を宥めるのは骨が折れるものだった。
反対に雨の日は、それが反転したかのように彼女は常の落ち着きを取り戻して振舞っている。その変わり身の早さには、一種の恐怖を覚えてしまうほどだ。
そうなってしまう明確な原因がある。雨の降る日のみ、彼女だけには、亡くなったはずの関平の姿が見えているからだ。雨が降る日だけ、乙女は戦いが始まるよりも前の世界に時を戻したかのようにして過ごしているのだ。
晴れの日の彼女を見るのも心苦しかったが、誰もいない空間に向かって兄の名を呼ぶ光景を初めて見た関索は、衝撃のあまり倒れ込みそうになったものだ。ぎこちない笑みを浮かべて話を合わせる関索のことを怪しみもせず、乙女は懸命に恋人の名を呼び、慈しんでいた。
はっきりいって、どちらの彼女の姿も正気ではない。だが、たとえ嘘に塗れたものであっても彼女の平穏な日常を壊すのは、何よりもいけないことであるようにしか関索は思えなかった。
だが彼女も、本当はどこかで気づいているのかもしれない。雨が降るときまって彼女が窓の外から眺める方角。彼が散った地が、その目線の遥か先にあるのだ。
いずれにせよ、彼女が本当の意味で平穏を取り戻すことは、難しいことだ。けれども関索は願わずにはいられない。亡き兄、関平はきっと、乙女には心穏やかに過ごしてほしいと思っているはずだからだ。
「関索」
「……ああ」
いつ止むのだろうかと思うほど降っていた大粒の雨は、急激にその勢いをなくし始める。黒い雲の奥に、僅かな光が射し込んできているようだった。関索は空を見上げた。未だに体はどのかしこも濡れているし、皮膚に張り付いた服の感触は気持ちが悪い。だが、それでもこの雨が簡単に止んでしまうのは惜しいと思った。
(20240723)