Churchyard
馬超が蜀に帰順してから、少しの月日が経った。一族を殺され故郷を追われ、流浪の果てに、やっと自らが輝けるような場所を見つけた。そんな場所に、自分は受けいれてもらうことができた。彼はより一層のこと、自らの槍を正義のために振るうことを決めた。それは誰が相手であったとしても、自らが信じるもののために。それこそが正義であるのだと、馬超は信じてやまない。
そんな折、彼は休暇であるにも関わらず武装し馬を走らせていた。休暇とはいえ、寝ているだけでは体がなまる。彼はそう言って平服がどろどろになるまで鍛錬に勤しむこともあるのだが、この日は少し違った。
仙人か、術者の類か。それとも武を暴力としてのみ用いるならず者か。それは噂の領域にとどまっているものだったが、そのような輩が身寄りのない子どもを引き取るという名目で子どもを拉致したり、自分たちの悪事に用いたり、はたまた監禁しているなど……とにかくどの情報が本当であるのかも定かではなく錯綜しているのだが、何やらよからぬ事態がほど近い場所で起こっているのだという。
人々はその話を知っていながらも、報復が恐ろしくて手出しができないらしい。そこで馬超は噂の真偽を確かめるために一人その地に赴いていた。
そこは山の奥で、人ひとりもいない。だが寂れたようにも見える大きな屋敷だけがある。あれが噂の地か。馬超は馬を括り付け、槍を持って歩き出した。足音を立てずに忍び寄る。この扉は施錠されているのだろうか。馬超がそっと扉を引くと、それはあっさりと開いた。
でかした。正義の槍で、悪を裁くまでだ。そう思いながら足を踏み入れる。
その屋敷は入るとすぐに、大きな部屋が広がっていた。馬超がはっとして前を見ると、そこには背を向けた男が一人。男は振り向かずに言葉を発した。
「何奴だ」
馬超は、この男が子どもを攫い良からぬことに利用しているのだということを直感した。根拠などない。だがこの正義の槍は、この男を貫くがためにあるのだ。
「貴様、何の罪もない子どもを利用し、悪事を働いてるのだろう」
怒りを滲ませる馬超の声。男はゆっくりと体を彼のほうに向ける。その顔はなんの感情もないように見えた。
「その通りといえば、満足か。……私を殺すつもりか?」
男は何の武器も持っていない。体格も、女子供相手ならば勝るだろうが、男相手ならば適わないように見える。術者の類だろうか。油断はできないだろう。
「そうだ。そのために俺はここにいる」
男の言葉を、噂の真実を認めたものだとした馬超は、いよいよ槍を構える。戦に昂じているときのように、かっと頭に血が上った。
「なら、殺すがいい」
そう男が言った瞬間、馬超は容赦なく槍を男に突き刺した。血が吹き出て、床を汚した。馬超が槍を引き抜くと、栓を失ったように血が更に飛び散った。
自分の正義。これが正義であるのだと信じてやまない馬超は、それのためならば躊躇なく人を殺める。そこに罪悪感はなかった。苦しんでいる子どもを助けるためなのだから。
地に倒れた男を放って、馬超は屋敷の奥に向かって歩く。所々、床は黒い染みのようなものがこびり付いている。もしや、あの男は子どもを簡単に殺していたのではないか。馬超はぞっとした。
そう思いながら入った部屋には、子どもというほど幼くもないが、かといってまだ立派な大人というにはあどけないような、そんな外見をした女が隅に立っている。
その女のほかに、人は誰もいない。馬超はこちらをじっと見つめるだけの女に怯みそうになったが、彼女の元に歩んだ。
「……誰」
女は細い声で呟いた。衣服で隠れているが、僅かに覗いた首元には、真新しいアザがついている。
子どもに良からぬことをしているという噂は、確かに真実だったというのか。馬超は憤ったが、子ども相手にいってどうにかなるものではない。冷静に振る舞うように、彼は務めた。
「俺は馬孟起という者だ。お前は、囚われていたのだろう。あの男は俺が排除した。お前はどこから来たのだ? 可能ならば、俺が送り届けてやっても」
「……私、家族はいません。だから、行くところは、ありません」
男は排除した。馬超の言葉には若干の驚きと歓喜を示しているようにはっと目を見開いたが、彼女はすぐに陰鬱とした声色でそう告げる。
聞かなければならないことは残っているが、今の彼女に全てを聞くのは酷だと馬超は思った。
「なら、俺に着いてこい。お前が自由になるまで、俺はお前を見守っていよう」
馬超は彼女に対して手を差し伸べたが、その手にあの男の血が付いていたことに気づき手を引っ込めようとする。だが彼女は臆することなくその手を掴んだ。手加減を知らぬ彼女の握る力に、馬超は思わず苦笑いしそうになった。
「お前のほかに、この屋敷に住む人間はいないのか」
彼女の手を引いて、元の道を辿る。馬超が言うと、彼女はぽつりぽつりと話し始めた。
「前までは、いました」
「前まで?」
「あの男に殺されました。私よりも小さい子ばかり」
「……惨いことをするものだ」
馬超は、自分がその場で見たわけでもないのに、苦痛の表情を浮かべる。肉親を殺された彼と通じる部分があったのかもしれなかった。
「あの男は一体何者だ? 俺はこの辺りに住む怪しい人間が、身寄りのない子どもを攫って悪に手を染めているのだとばかり聞かされていたが」
「男が身寄りのない子を我がものとしたことは本当です。私もそうでしたから。……昔は善良な人間だったと、屋敷から脱走したかつての使用人は言っていました。妻が死んでから、子どもに暴力を振るうようになった。支配者になった。私たちは抗えませんでしたから……」
噂はおおむね当たっているようだった。彼女が言うには、男は賊でも術者でもない。ただ子ども達を恐怖で支配していたと。
動機はどうであれ、非道な人間を許すことはできない。馬超は、間髪入れずにあの男を殺したことは間違いではなかったのだと改めて思った。
「……そうだったのか」
屋敷の外に二人は出る。何となく馬超はそれ以上彼女に聞くのは申し訳ない気がして繋ぎ止めていた馬の背に彼女を乗せた。男の死体を彼女は一瞥してから、ほんの少しだけ悲しそうな表情を浮かべていた。馬超は間違ったことはしていないと思いつつも、複雑だった。
彼女の話から、男のことを好いていたとも親のように思っていたなどという感情は読み取ることはできなかったが、これ以上ここでその件を深堀するのは、この少女にとっては残酷なことだろう。馬超は馬に乗り、帰路に着こうとする。
この少女のことを引き取るつもりとはいえ、何と説明すべきか。世の中には戦場のどさくさに紛れて人妻を奪おうとする者や、敗残兵の妻を手篭めにする者もいるが、馬超は生憎そのような趣味を持っていない。それに、名目上とはいえ妻にするというのも、あまり良い事とは思えない。兼ねてから蜀にゆかりのある女を妻にするほうが良いのではないかと馬岱から口うるさく言われているからだ。どうしたものか。馬超はそれを考える時間稼ぎからか、ゆっくりと馬を走らせた。
「馬超様。お味はいかかでしょうか」
「美味い! 実のところを言うとな、劉備殿の元に参ってからは適当なものばかり食っていた。情けないことに使用人をろくに雇うことすらできていないのだ。だからお前が料理を作ってくれるのは感謝の念に堪えないのだ」
良かった、といって少女……乙女はふっと頬を緩めた。
彼女を連れ帰った日、彼女は疲れてしまったのかすぐに眠ってしまっていた。名前を聞きそびれたなと馬超は思ったのだが、次の日自分から名乗ってくれて助かったのだった。
乙女は、馬超付きの使用人という体で彼の邸宅で働くようになった。まだ蜀に帰順してから日が浅いということもあり、使用人の準備すら滞っていた。金が多く余っているわけでもないから、使用人の登用にも頭を悩ませる必要がある。
あの日部屋の片隅で佇んでいた彼女が家事などできるのかどうか、馬超は不安に感じていたものだが、彼の思っていた以上の働きを乙女は見せていた。どうやら、あの屋敷では彼女たち、あの男によってあの場所にいた子どもたちが全ての家事を担っていたらしい。何とも薄気味悪い話であるが、それが今役に立っているのだから、馬超に文句を言う筋合いはなかった。
「俺はお前が一人で過ごすことができるまでお前を預かろうと思っていたのだが、一時的なものとは言わずずっといてほしいくらいだ」
「まあ。そんなに私のことを認めてくださるのですね」
馬超が笑うと、乙女も釣られて笑う。
穏やかな時間を過ごせていると、馬超は思った。
彼女のアザは、体の至る所にあった。過去の辛い出来事を詮索されるのは、馬超にとっても不快なことであるから、彼は無理にあの男に受けた仕打ちのことを聞くことはなかった。
だが彼女が手で口を抑えて笑うというふとした瞬間、袖が捲れて見えた白い肌は殴られてできたと思われる跡がくっきりと残っていたし、火傷の後のようなものもあった。馬超は思わず顔を顰めたものだが、彼のそんな表情に彼女が気づいたかどうかは定かではない。
彼女は、笑って過ごすことができていたのだろうか。いや、恐らくできなかったはずだ。
だからこうして自然な笑顔を見せているということは、まだ彼女と出会って僅かな時しか経っていない馬超でさえ、嬉しいものだった。
初めは馬超の問いかけにしか答えなかったものだが、次第に彼女の方から話をするようになった。まるで赤子が初めて発語したときのような感動が馬超を襲ったりもした。乙女のことは女というよりはまだ幼い子どものようで、馬超は何だか彼女の父親になっているような気分だった。
とはいえ、彼女に関する懸念が消えたわけではない。馬超は未だに聞くことができていなかったのだが、大きな疑問が残っている。
なぜ馬超に殺されたあの男は、一切の抵抗もせずに死んだのだろうということである。
男は、妻が死んでからおかしくなったのだと乙女は言った。妻が死ぬ前は、本当に身寄りのない子どもを引き取って、慈しんでいたのだろう。
それが豹変し、子どもたちに暴力を振るい時には命さえも奪った。
そして、使用人は逃げたとも彼女は言っていた。子どもたちは逃げることは考えなかったのだろうか。馬超が思案していることに気づいたのか、乙女は馬超を不思議そうに見る。
「お前が健やかであると、どうやら俺も元気が出るようだ」
馬超はそう言って、料理を口に運ぶ。彼の所作は大変綺麗なものだった。
「それは良かったです。私も、馬超様が美味しそうにご飯を食べている姿を見ると、嬉しいです。もっといろいろなものを作れるように頑張ってみますね」
真実が分からなくとも。彼女の笑顔を見ていれば、このままでいいような気もする。馬超は口に運んだものをよく噛んで、小さく「美味い」と言った。
それからの乙女は、まるで失われたときを取り戻すかのようにして様々なことに取り組んでいた。料理の腕を上げるということ以外にも、日常の家事や雑事は全て彼女が一人でも行うことができていた。
彼女のことは単なる使用人……もとい、使用人の皮を被った「子ども」のように馬超は見ているから、彼女の衣服の下を暴くなどということはもちろんしていない。だから正確にそうと分かったわけではないが、真新しそうなアザは次第に消えていった。傷跡や火傷跡は相変わらず痛々しくて、馬超はそれを見る度に胸が裂かれるような思いをした。戦場ではもっと悲惨な状態の人間を何度も何度も見ているのに、である。
それでも彼女が明るく振舞っているのは、嬉しいことだった。本来の彼女の人格を見ることができているようだった。
だが馬超は、いつものように乙女の作った料理を共に食べている時に、ある異変に気づいた。
「その包帯……どうしたのだ」
あっと乙女が慌てたように声を出す。彼女の左手首には包帯が巻かれていた。服の裾からちらりと見えていたのだが、馬超のその問いかけに乙女は急いで裾を引っ張って包帯を隠すようにした。
「いえ、何でもありません。少し怪我をしてしまって……」
「……そうか。無理だけはするなよ」
「はい……」
本当に、ただの怪我なのだろうか。馬超は素直に彼女の言葉を受け入れたが、正直なところを言うと、何か彼女が隠し事をしているようにしか思えなかった。
具体的にどんなことをして怪我をしたのかも言う様子はなさそうだし、何よりも刹那のこととはいえ、取り乱しているようにも見えた。
これ以上の追求をしない馬超に対して、どこかほっとしたようにしている彼女。馬超は何やら嫌な予感がした。根拠はないが、あまり良くないことが彼女の身に起こっているような気がした。
それから数日。馬超はことある事に彼女の怪我のことを確認するようになった。とはいっても直接尋ねるのはいくら何でも直接的すぎるだろうと思ったから、食事といった当たり前の所作の中で彼女のことを観察していたのである。本来ならばすぐに彼女を問い詰めたい気分だった。馬超は隠し事をするのは嫌いだからである。だから、これは自分でもよくやっているはずだ。彼はそんなことを思いながら彼女の怪我の様子を伺っている。
だが、何日経っても彼女の包帯が取れることはなかった。それどころか、日にもよるが白い包帯に薄い赤色が広がっている日もあったし、あの日の怪我というだけでは済まされないような気がした。
包帯を巻く範囲も次第に増えているようだった。いくら怪我を数回重ねてしまったのだとしても、ずっと左手首や左腕だけを怪我するとは到底考えられない。
我慢の限界だと馬超は思った。元々直情的な彼であるから、ここまで我慢したのは本当に褒めてもらいたいものだ。そんな考えさえ浮かんだ。
「乙女」
「なんでしょうか」
乙女は首を傾げる。その様子は、いつもと変わっているような所は何もない。だが、騙されないぞ。馬超はそう思って、食事を摂るのを辞めて、言った。
「お前……何か俺に隠し事をしているのではないか」
乙女の肩が小さく揺れたのを、馬超は見逃さなかった。図星なのだろう。そう確信する。
馬超はがたりと音を立てて立ち上がる。そうして彼女のことを見下ろせば、その顔は初めて会った日を髣髴させるような表情を浮かべている。それでも馬超からは目を逸らさずに彼女はただ黙っていた。
「その腕」
馬超は自分の腕を、乙女に対して振り下ろすようにして向け、そうしたかと思いきや彼女の左手首を優しく掴んだ。
ほんの一瞬だけ、きっと彼女は自分が殴られるのかもしれないと思ったのかもしれない。腕を振り下ろすというのはそういうことだ。だが彼女は、馬超も目を疑ったのだが……微かにその瞬間だけ、口角を上げていた。つまり、笑っていたのだ。
「この包帯の下……怪我などではない。そうだろう」
彼女の腕を持ち上げれば、袖は下へと落ちていく。血が滲んだ包帯がはっきりと馬超の目に映った。
「……私……」
乙女は何かを言うわけでもなく、瞬く間に大粒の涙を浮かべ、ぼろぼろと泣き始めた。馬超は驚いて掴んでいた腕を離す。だがだからと言ってこのまま放っておくわけにもいかない。嗚咽しだした彼女を抱き抱えて、馬超は彼女に与えた部屋に向かった。せっかくの料理は冷めてしまうだろうが、そんなことを気にしている暇などなかった。
「……乙女」
馬超は、まるで子どもをあやすように彼女の背中を撫でる。涙が止まらず、彼女はろくに発することもできなかった。やがて落ち着き始めた彼女は、少しづつだが話し始める。
「……仰る通り。これは自分で付けた傷なのです。刃物で自分の手首を……何回も……何度も、」
「なぜ、そんなことを……」
馬超は顔を歪める。戦場での怪我というものは、興奮からか戦っている最中は気にならないものだが、一旦闘いが終われば長い間痛みに苦しむものだ。彼女は武人でも何でもない。その痛みはきっと長く苦しい。なぜ自分からそんなことを。理解できなかった。
「……馬超様はお分かりだと思いますが。私の体、アザともう消えないような傷だらけです。全てあの屋敷の男に付けられたもの。痛くて痛くて、死んでしまいたいと思ったこともあった。あの男の逆鱗に触れてついに殺されてしまったあの子たちを思うと、悲しみが私を襲いましたが……私もああなった方が楽なのかもしれないと、何度も思いました、でも、あの男からの暴力は愛だった。両親からの愛を知らない私にとって、あれこそが愛だった」
そんなものは間違っている。歪んでいる。暴力が、愛などと。だが馬超はただ黙って聞いているだけだった。
馬超が彼女の腕を掴んだあの時、微かに微笑んでいたのは。彼女が確かにそれを愛だと感じていたからだ。
あの男が無抵抗のまま死を受け入れたのは。自分が消えたとしても、彼女に刻みつけた傷は消えない。愛という名を騙った暴力の跡は消えない。彼女が本当の愛を知ることはない。なぜなら暴力が、支配こそが愛なのだということを彼女は信じて止まないから。
それを分かっていたから、あの男は死を拒まなかった。なんと残酷な話であろうかと馬超は思った。それは呪いのようなものだった。
「ですから馬超様。あなたと共に暮らすようになって、私は様々なことを知った。けれどもやはり、私はこうして自分のことを傷つけることでしか自分の生を感じることができなくなったのです。お願いです馬超様。あの男が私にしたように私を傷つけて。そうすれば私は愛されているんだって思えるのだから」
「そんなこと、俺ができるはずがないだろう!」
それは愛とか愛じゃないとか、そういう次元のものではない。正義に反することだ。馬超はそう言って、乙女の涙を拭った。
「女を殴るくらい、戦場で多くの人を殺したあなたなら平気なことでしょう」
珍しく、彼女が馬超を挑発している。そうすれば怒った馬超が手を出すのだと思っていたのかもしれない。だが馬超は彼女のそんな意図くらい見抜いていた。
「そんな挑発に乗るほど、あいにく俺は子どもじみていない。………お前に必要なのは、悪を退ける正義の心だ。お前の心を巣食う悪を滅ぼすために、俺は何をすればいい? 俺はなんでもするだろう。なんだってできるだろう。あのような男でもお前の親代わりだった。だから俺にはお前を育てる義務がある。お前を正義へと導くという責務がある。確かな覚悟がある」
愛が何なのか、馬超も上手く、はっきりと説明できる自信などない。両親からの愛は受けていたはずだと思う。だが既に両親達はこの世にいない。
正義であれば。だが馬超ですら、彼女の言葉を聴くと揺らいでしまうような気がした。
彼女を蝕む一種の呪いは、悪であるに違い無い。その呪いを与えた男もまた悪だ。だが男を殺したことは本当に正義だったと言えるのだろうか。あの箱庭の中で、彼女は愛を知ることができた。歪んだ形であったとしてもだ。彼女の親代わりの男を殺したというのは、曹操が馬超の一族を殺したことと本質的な違いはないのかもしれない。涙を流す乙女を見ていると、自分もまた悪の片棒をかついでいるだけなのではないかと。信じたくはないがそう思ってしまう。
自分が今まで殺した人間の中にも、自分と同じように憎しみと悲しみに苦しんでいる人間がいるはずなのだ。なぜ気づかなかった! 馬超は今になって思い知らされたのだ。後悔しても遅い。だが今ならまだ考えを変えることができるはずだとも思う。それを教えてくれるのはきっと彼女なのだ。馬超は不思議と、その部分だけはなぜだか希望が持てるように思った。
「なら馬超様。私に本当の愛を教えて。正義とか悪とか、私にはよく分かりませんから……でもきっと、本当の愛を知ればそれは正義と同じことなのでしょう。私はこの形でしか愛を知ることはなかったけれど、間違っているものなんだってことは分かるから……だって私、本当はもう痛い思いなんてしたくありません。もう傷つくのは嫌なんです……」
乙女はそう言って、倒れこむようにして馬超に縋り付く。馬超はその背中を撫でた。
こうして彼女が、一切の躊躇もせずに馬超に触れていること。その身を預けることができているということ。これこそが、愛なのかもしれない。だが馬超は口に出すことができなかった。
それはきっと、愛というものは人に言われて気づくものではなく、自分で見つけだす必要がありあるものだからだ。正義とは何かを自分の中に見出すことと同様に。
初めて彼女に出会った時、馬超は彼女が一人で自立するまで面倒を見ようと思った。だが、それは少し違う気がする。彼女が彼女なりの愛を知るまで共にいよう。……いや、それだけではまだ不十分だ。
「ああ、俺が愛を、本当の愛というものをお前に示してみせる。それはきっとお前の言う通り、本当の正義というものに繋がるのだ。お前が俺を望むように……俺も、お前を望んでいる。正義とは、本当の正義とは一体何だというのか。俺もその事を明かさねばならない。それまではお前に生きてもらわねばならない。だからもう、自分を傷つけるのは辞めてくれ……!」
いつの間にか、馬超も気付かぬうちに波を流していた。理由は分からない。
一族を殺されたあの日、泣きつくしてついに枯れたと思っていた涙が。これも彼女のおかげなのかもしれない。
そう思えば、自分が今までやってきたことはやはり、間違いではないのだと馬超は思えた。全てを乗り越えたその先に、乙女との出会いがあったからだ。自分は彼女と出会うために、全てのことを成していたのかもしれない。そのような気持ちが沸き起こった。
「若。……最近さ、あんまり正義とか大声で言って突っ走ること、なくなったよね」
馬岱がふと馬超に尋ねる。遠乗りという名の視察をしていた彼らは馬を走らせていた。彼は兼ねてから早く蜀将の信を得るために、劉備麾下の男の娘なりなんなりを娶ることを勧めていたのだが、あまりにも馬超にその気が感じられないためか、近頃は口うるさく言うことを辞めていた。
なにやら使用人として邸宅に住まわせている女がいることも馬岱はよく知っている。二人の間に普段どんな会話が交わされているのか、馬岱は知らなかった。だが、訳の分からぬ身分の女と結婚するのは辞めたほうがいいんじゃないの、と馬岱は思ってしまうのだが、きっと何を言ってもこの従兄には届かないだろうということもよく知っているから、半分はもうどうにでもなってしまえという気持ちが彼の中にあった。
そんな馬超が近頃は大人しいというか、ほんの少しだけ静かになったような気がする。馬岱は不思議に思った。
馬超は馬岱のその言葉にもすぐに答えるわけではなく何かを悩んでいるような素振りを見せる。考えたことを咀嚼して口から発するのではなく、思ったことをそのまま何の考えもなしにべらべらと喋ってしまうきらいのある彼にしては珍しいと馬岱は感じた。
「……俺はな、正義とは一体何なのか。その答えを見つけることがついにできたのだ」
正義って、いつも若が言ってるから、とっくに分かっているものだと思っていたけれど。馬岱はそう言いたくもなったが、馬超の言葉を待った。
「乙女こそが正義だったのだ!!!」
鼓膜を震わすような馬超の大声に、馬岱は思わず耳を抑える。最近は静かになったとばかり思っていたが、どうやら気のせいだったらしい。
乙女といえば、馬超が住まわせている使用人の名である。
本当に彼女と結婚したりするのかな。彼女と出会ってからは随分な時間が過ぎたし、ありえない話でもなかったのだが。馬岱は自由奔放な彼を横目に、頭を抱えたくなった。
だがこれでこそ、彼らしい、いや、彼である所以なのかもしれないと馬岱は思った。馬岱が疑問を投げかけてから急に上機嫌となった馬超が勢いよく馬を走らすのに呆れながら、馬岱もそれに続いたのだった。
(20240713)