Soft Universe
「姜維殿。こんな時間まで眠っているなんて、あなたにしては珍しいことだわ」

姜維はよく見知ったはずの、それでいていつもとどこか違うような女の声を聞いた。重い瞼に指を触れ、擦る。ゆっくりと視界を開いたかと思うと、やはりそこには姜維が思っていた通りの女がいる。だがどこか違う。何が違うのかはこの眠りから目覚めた彼の頭でははっきりとした答えを描くことはできなかったが、ただ違うのだという予感だけはあった。

「乙女……」

姜維は女の名を呼んだ。乙女と呼ばれた女は何も言わずに姜維の手を取った。そうして手を取られるがままに姜維は起き上がる。

だが、姜維を見つめる彼女は武官らしく質素な、悪く言えば女らしくないとも見えるいつもの服装とは打って変わって、「女らしい」服装をしていた。それに加えてよく見れば、この部屋自体が初めて見たものだった。

ここはどこなのだろうか。いや、自分は一体何をしていたのだろうか。まだ完全に覚醒したとはいえない思考ではぼんやりとしか考えられないが、自分を取り巻く状況が一変しているのだということは明らかであると姜維は思う。

「あまりにも気持ちよさそうに眠っていたから、私もつい起こすのを躊躇ってしまったのだけれど。ほら、姜維殿。支度をして、ご飯を食べましょう?」

「ま、待ってくれ、私は一体、ここで何を」

乙女の言っていることが全く理解できなかった。立ち上がって姜維は部屋を見渡したが、どうやら姜維は乙女と同じ部屋で寝て、共に食事を摂る仲であるらしい。

有り得ない状況だ。姜維は懸命に記憶を探る。彼女は自分の副官で、今のこの世の中では一番信頼しているといってもいい人間だ。

だが、夫婦の契りを交わしているわけではない。

昨晩は何をしていたのだろうか。姜維が先程と同じようにして頭のにある記憶を辿っていくと、行きあたるのはいつもと同じように、蜀の未来を思案している自分の姿があった。それ以外には、何もなかった。

「どうしたの、姜維殿」

姜維が乙女の言っていることを理解できていないように、彼女もまたそうであるらしい。だがこの状況に適応しているのは紛れもなく彼女のほうで、違和感を感じているのは姜維ただ一人だ。

「……いいや。何でもない」

部屋を出ていく彼女の背を見ても、答えは降ってこない。何が起こっているのだろうか。劉禅様は、成都はどうなっているのだ。だがそれを聞くのはどうしてだか憚られるように感じた。本当に、訳が分からなかった。

支度をしろと言われても、普段姜維はここでどんなことをしているのかすら分からない。ひとまずは掛けてあった服に着替える。そうして乙女に着いていくと、そこにはもう朝餉の支度がされていた。

「……本当に、穏やかだわ、ここは。ここを選んで正解だった」

促されるままに姜維は用意された料理を食べる。彼女が料理をしている姿など、今までに見たことがない。だがこの家には自分の彼女しかいないようだから、彼女の手製なのだろうと姜維は思う。

料理ができないという話を聞いたわけではないが、姜維の知る乙女という女は、女であるのに武一辺倒で、家事をする姿など見たことがなかった。実際のところは家事をする暇などないというのが正しいのだが。家事をするくらいならば鍛錬をするし、軍略を練っているだろう。そういう女だった。

彼女は姜維がまだ魏の将である頃から尽くしていた。それは仕える主や国が変わってからもそうで、姜維はそんな彼女を大切に思っている。それは乙女も同じ気持ちであるというのを、姜維はまた知っていた。その熱い思いの強さは、それこそ体が焼かれてしまうのではないかというくらいだ。それを知っていても尚踏み出せないものが、理由があるということもまた、姜維は知っている。それは姜維を常に苦しませてきたものだ。

だから二人でいるこの世界は、まるで桃源郷のようだと思った。

「そう、だな……」

乙女の言葉に相槌を打つ。それは曖昧なものだったが、彼女は気づいていないようだった。

「この乱世から乱というものが消えるなんて、想像もつかなかった。未だに夢みたいだって、あなたと二人きりでいると、そう思うの」

思わず姜維は、箸を落としそうになった。どうしたの、と乙女がまた心配そうに覗き込む。やっぱり「なんでもない」と姜維は返答するしかないのだったが、本当は彼女の言葉を今すぐにでも聞き返したかった。

ここは乱世ではない。では何だというのか。三国のうちどこかがこの天下を統一したというのか。それは蜀だろうか。いや、蜀でなければ困る。仁の世を築くことができるのはあの人の名のもとでしかない。そうでないのならば、自分はそれこそ死にもの狂いで戦っているはずだ。自分が今ここにいて、この平和というものを享受している。それを受け入れているということは、やはりここは仁の世が実現された世界なのだろうか。

姜維は、昨晩執務作業に勤しんで夜遅くまで起きていたことを思い出しながらそう思った。この世界では何が起こっているのだろう。もしここが、昨晩いた世界の未来の姿であるならば、救われるのに。

「私も。……あなたと同じ時を過ごすことができるということは、本当に嬉しいものだと思う」

聞かなければならないことよりも先に、姜維の口からはそのような言葉が出ていた。

自然とそのような事を口走った自分がいる。今ここにいる自分は本当に自分なのだろうかと姜維は思った。自分であって自分の意思ではない。そんな感覚がどこかにあった。

そうして自分に向かい合って目の前にいる乙女は、彼女が元々持っている美しさを際立てるように化粧を施していた。紅を差した唇も潤いをもっている。それがまた可憐だった。そんな彼女が笑っている。

彼女の笑顔を見るのは久しぶりだと思った。そして、どんな人よりも、どんなものよりも可愛らしく、素敵な笑顔だと思った。

そうしてまた、彼女と同じように姜維自身も笑っている。戦続きで仕事が山のように堆く積まれていて。いつから笑うという行為をしなくなったのだろうか。互いに疲れ果てた顔と怒りや迷い、悲しみに染まりきった顔しか見てこなかったような気がするし、見せてこなかったような気がするのだ。

「あなたはほんとうに可愛らしい。その髪飾りも、よく似合っている」

「急にそんなことを……この髪飾り、以前姜維殿が贈ってくださったでしょう。お出かけしない日でも付けていようと思ったの。あなたが選んでくれたものだから」

姜維は、こんなに幸せなことがあっていいのだろうかと思った。あまりにも幸せすぎるのだ。このように二人きりで、何のしがらみもなく生きているなど。多くの人の思いと命を背負い戦うという責務を姜維は受け入れている。先人達の意志を継ぐという確かな目的のもと、姜維は戦っている。

この世界がどのようにして成り立っているのかということを踏まえたとしても、今までの生き方を捨てて自分だけ幸せにこうしてのんきに暮らしていることなど、許されるのだろうかと思った。

このような生き方は決して悪いものではない。むしろ、良すぎるのだ。だからこそ、姜維は幸せすぎるがゆえの恐ろしさがあるように感じた。

「……乙女」

「どうしたの。今日の姜維殿、なんだか少しだけ別の人みたい」

乙女は少しだけ困ったようにして、また笑った。

なんだか乙女を困らせてばかりのようだと姜維は思った。本来ここにいる自分は、どのようにして彼女と話をしているのだろうか。

「私を選んでくれて、ありがとう」

いきなりこんなことを言っても、また彼女のことを困らせてしまうだけかもしれない。

それでも、姜維は言わずにはいられなかった。きっとこうして二人でいるということは、将来を誓い合っているのだと思った。それは姜維が未だに成し遂げられていないことだ。

「私には姜維殿しかいないもの。昔からずっと。そしてこれからも」

私もだ。そう告げたかったのに、姜維の視界は急にぐらぐらと歪み始めた。目眩のようなものが彼を襲う。

いきなりのことで、やっぱり姜維は訳が分からないとまた思った。けれども最後に見た乙女の笑顔はまるで天上の女神のようで、きっとそれを忘れることはないのだろうなとぼんやりと感じた。




「……姜維殿。姜維殿」

どこか既視感を感じる。この声はやはり、よく知っている人の声だ。

「……姜維殿」

今度は、彼女に起こされることもなく。姜維は机に伏せていた体を起こした。不安定な姿勢で眠っていたためか、背中全体が痛い。枕代わりにしていた腕も痛い。

「……乙女」

蝋燭の炎は消えていた。乙女がそれに気付き明かりを灯す。そこにいるのは紛れもなく乙女でしかない。だがその格好はいつどこで何があってもいいようにと彼女なりに備えた動きやすい服装で、姜維があの時最後に見た服を着ているわけでも、髪飾りを付けているわけでもなかった。

「そんな所でお眠りになるくらいならば、寝台で休んでください」

知っているはずなのに、どこか違う。姜維はふと思った。

あの時の彼女は、敬語で話していることはなかった。あの時はなぜだか不思議に思わなかったことだった。

「すまない……私は、大丈夫だ」

やはり、あれはただの夢でしかなかったのだろうか。姜維ははっきりとしない頭で考える。夢にしては、よくできているものだった。あんな未来があるのかもしれないと、希望が持てる夢だった。

「姜維殿がもし倒れるなどということがあれば、困りますから」

それでも、夢は夢でしかない。夢は何かを暗示しているとも言うが、姜維は見当を付けることなどできなかった。夢を見せるだけ見せて、なんだというのだろうか。占いの知識に長けていた丞相ならば、なんと言ってくださるのだろうかと姜維は思う。

そこまで彼は考えて、そこではっとした。夢が暗示しているもの、それは。

「……乙女」

呼び慣れた彼女の名を呼ぶ。彼女もまた、慣れたように「なんでしょうか」と短く言うのみだった。

「結婚、しないか」

寝ている間に喉が渇いていたのか、姜維の声は少しだけ掠れていた。なんだか少し決まりが悪いな、と彼はどこか他人事のように思った。

乙女はその言葉を聞いた瞬間、驚きからか持っていた書簡をばらばらと床に落とした。書簡が床にあたり音を立てる。暗い部屋に、それははっきりと響いた。何も言えずに俯く乙女を見て、それでも姜維は後悔などするものかと思って、すっかり冷めてしまった白湯を飲んだ。

「自らに課された使命を遂げたその時に……打ち明けようと思っていた。幸せとはその先にしかないものなのだと思っていたからだ。……だがふと、それは違うのかもしれないと感じた。私は自分のことしか考えていなかった、あなたの幸せを……考えてなどいなかった、蔑ろにしていた」

乙女が多くの人から嫁に行くことを勧められていたこと。素性の分からぬ男から直接求婚されたことも、それら全てを彼女自身の意思で拒み続けていたということも。姜維は知っている。

知っていたのに、何もできなかった。それは、自らにのしかかった責務や使命にがんじがらめになっていたからだ。すべてが終わって、初めて彼女のことを幸せにできるのだと、信じてやまなかった。それがどんなに傲慢なことであるのか、姜維は知らなかった。

「私……」

その先の言葉を呟く前に、乙女ははっとして取り落とした書簡を拾い、紐を結び直す。机の空いた場所に置いた後、椅子に座ったままの姜維に歩み寄った。

「私、姜維殿のこと、大好きです。けれども、私には十分なくらい、幸せをあなたから受け取っています。結婚なんていう契約がなくても、私、ずっと幸せです。お傍にいるだけで……例え、この先何があったとしても……」

乙女は姜維の背中に抱きつくようにして体を近づけて腕を回した。その体温は、姜維の冷えた体を温める。

「けれど……あなたからその言葉が聞けて、本当に嬉しい。大好きです、姜維殿」

「私も好きだ、乙女。自分からは何ももできなかったのに、それでも誰にも奪われたくないものなのだと、ずっと思っていた。ずっと好きだった」

乙女が姜維を抱きしめる力が、より一層強くなった。姜維も、彼女の手を優しく包んだ。

夢で見たあの髪飾りは、この世界にもあるのだろうか。あるとすれば、贈ってあげたいものだと姜維は思った。それは、きっと今の彼女にもよく似合うことであるだろうから。

姜維は、成都が陥落し蜀という国が滅ぶ未来が待ち受けているのだとは知らぬままに、そんなことを思い描いていた。夢で見たような光景はついに現実となることはなかった。だがそれでも、最期まで彼に寄り添った乙女という女は、ついに訪れる自らの死の間際まで美しい笑顔を浮かべていたという。

夢の中の二人だけは、いつまでも恙無く過ごしている。

(20240714)
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