月が綺麗とは言わない


獣道をひとり、歩いていた。
常人であれば途端に迷ってしまうような、人が足を踏み入れることのない険しい道であったが、名前には歩き慣れた道だった。
体に染み着いた業が、意図せずとも彼女の気配を消していた。
動物たちは既に眠りについているのか、時折風に吹かれて揺れる枝葉の音以外、聞こえる音は何もない。

日は数刻前に西の地平へ沈み、冴えに冴えた月が闇夜を照らしている。
夕暮れの雲は跡形もなく、清々しい冷気が満ちていた。


獣道を抜け、頂きへと辿り着いた先に人影を認めて、名前は立ち止まった。
ーー気配を、感じなかった。その事実に身構える。だが、すぐに彼女は懐に伸ばしていた手を戻した。

その人物は静かにたたずみ、夜空を見上げていた。
名前の存在には既に気づいていたのだろう。彼はちらとこちらを一瞥すると、再び視線をもとに戻した。

月光に照らされて、公孫勝の肌は青白く輝いているように見えた。


「……公孫勝殿。いらしていたのですね」

彼に話しかけるために木陰から進み出た名前の姿が、月光に照らされて露わになる。
商人のような出で立ちだった。男の成りをしているが、違和感はない。

「首尾はどうだ」

名前を視界に入れることなく、公孫勝は言った。

「噂を一つ二つ、流しておきました。青蓮寺が真偽を明らかにするまで、一月はもつかと」

彼の問いに、名前は任務の成果を告げる。その報告を、公孫勝は黙って聞いていた。


一通りの報告が終わると、その場に沈黙が訪れる。そのまま黙って分かれるのが名残惜しくて、名前は言葉を紡ごうと口を開く。

「…良い夜ですね。月が、よく見える」

返事は、期待していなかった。
本より公孫勝の口数は少なく、必要最低限しか話さない。そのため、任務に関する話題でもなければ、名前が一方的に話をして、公孫勝はそれを黙って聞くというのが常だった。
とはいえ名前自身言葉を尽くす性分ではなかったから、その会話にもならない会話はすぐに途切れてしまうのだが。
それでも、無駄を嫌うはずの公孫勝が、名前の話を黙って聞いていてくれることが不思議であり、嬉しくもあったから、名前は少しでも会話を続けようと言葉を探していた。


「だが、明るすぎる」

呟くように、公孫勝はそう言った。

返答があったことに驚いて、名前は暫しその背を見詰めていたが、彼はそれ以上何も言わず、ただ静かに、頭上に輝く月を眺めていた。
その姿を見て、名前は静かに、公孫勝の傍へと歩いて行った。数歩後ろで立ち止まる。
それ以上近づくことは、まして隣に立つことは、名前にはできなかった。

頭一つ高い位置にある公孫勝の横顔は、相変わらず無機質で冷ややかな印象を与える。だが、月を見るその目は、常にない、どこか穏やかなものだった。その姿に、名前は些か呆気にとられる。
ーー何を思っていらっしゃるのだろう。
ふとそんな疑問が浮かんだが、すぐに名前は考えるのを止めた。彼の考えを推量できるほど、名前は公孫勝という人物を知らないのだ。
ただ、その眼差しの優しさを覚えておこうと、名前は思った。公孫勝もこのような顔をするのだと知れたことが、名前はこの上なく嬉しかったから。





「」
二人の間には沈黙が流れていたが、名前がそれを苦痛と感じることはなかった。


風が吹いた。
枝と枝、葉と葉の擦れ合う音が静寂を乱す。


「     」
「……」



それきり、公孫勝は黙ってしまったが、名前はそれでかまわなかった。



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